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【自己紹介】私の人生のもくじ

〈最終更新日:2024年5月3日〉
※筆者は現在33歳

この記事は、私の自己紹介+もくじ記事であり、フォロワーさんが100名を超えた時に書いた記念記事です。31歳札幌の男性会社員がどんな人生を歩んできたかについてまとめています。

記事内には、私の人生のターニングポイント記事のリンクをいくつか貼っていますので、目次代わりにも使ってみてくださいね。


[0]まずは圧倒的感謝

2022年7月2日時点で、おかげさまをもってnoteのフォロワーさんが100名を超えました。みなさん本当にありがとうございます。私はとっても嬉しいです。読んでくださるみなさんのおかげです。ありがとうございます。

「noteの自己紹介って、いつするんだろう?」と思って調べていたら、みなさん割と早めの段階で書かれてまして、それを見て私思いました。
「これは機を逃したな」と。

じゃあいつ自己紹介記事を書けばいいか、となれば「それはキリがいい時でしょう」となるのが人の性で「フォロワーさんが100名を超えたら…」と思いながらせっせと記事を書いてきました。

そんな具合です。

今記事では改めて、私の自己紹介をしようと思います。で、「私は誰なのか」ということを書こうと思ったら自伝みたいになってしまいました…。需要と供給の曲線相関が取れてないかもしれませんが、すいません。


[1]基本情報

▶︎名前

イトーダーキ(男性)

▶︎年齢 

現在31歳 1990年秋生まれ


▶︎出身

北海道札幌市。7歳から18歳まで札幌の隣にある田舎の町育ち。さすがに天の川は見えないけれど、星の綺麗な町で育ちました。

自然豊かな町だったので、子ども時代は山やら川やらで生き物を捕まえたり、サッカーをして、喉が渇いたら、田んぼの水を飲んで水分補給するという、衛生指導が全く行き届いていない子どもでした。

●夕日の綺麗な町で育ったエピソードはコチラ


●ちびっ子時代のエピソードはコチラ


●高校進学時のエピソードはコチラ


[2]経歴(学校)

▶︎高校から大学へ

札幌の公立高校を卒業して、小樽商科大学という地方国立大学に入学。北海道では通称「タルショー」と呼ばれる大学です。本当は北海道大学に入りたかったけれど、実力不足で落ちました。涙の後期日程入学組です。「地方国立大学」と書いちゃうあたり、臆病な自尊心と尊大な羞恥心って感じです。


●大学受験の思い出についてはコチラ


ただ、大学はなんとなくで選んだ結果、 

・商学部しかないこと

・大学が小樽の山奥にあること

を入学式で知り絶望。
さらにそこにいる学生を見ると、


・小樽商科大に入れば公務員は固い

・小樽商科大に入ればメーカー勤務も余裕

・小樽商科大に入れば銀行員もチョロい

・つまり俺たちは勝ち組だ

って言って遊んでる人たちに絶望。

「ここにいるべきではないかも…」と違和感を持ちました。私は生意気にも「こいつらブランドでしか自分を測れないのか?」って思ってるイタイ奴でした。自然、友だちもできませんでした。新規の友だち0人です。すんごくディスってますが、小樽商科大、ステキな大学ですからね。


●大学時代の私を象徴するエピソード


▶︎7年通って除籍へ

特に学びたいこともなく、やりたいこともなく、結局7年間、ひとり我が世の春を謳歌した後、学費未納で大学を除籍になりました。学費をアルバイトで稼いでましたが「もう無理」となり辞めました。大学というステージは私には早すぎたのです。1年ですぐ辞めないあたりが臆病です。


「中退」か「除籍」の称号があってもいいなぁ、と入学式の日に思ったサムい男だったのですが、当然親にはめちゃくちゃ怒られました。私は「で、でもタモリも早稲田大を除籍だし、所ジョージも拓殖大を除籍だよ。最後は実力だと思うんだけどなぁ」って言ってました。タモリとジョージが拠り所で、それでいいと思っていたのです。

●どんな経緯で大学を除籍になったのか?


●大学除籍のエピソード


▶︎広告に興味を持つ

ちなみに大学時代は、広告に携わる仕事がしたいと思って、宣伝会議さん主催のコピーライター養成講座に6ヶ月間通いました。

通った理由は

・美しいものが好きだったこと

・本や文章が好きだったこと

・世の中に何かを残したいと願っていたこと

あたりが挙げられるかなと思います。「自分は特別な人間だ」と思いたかったんだとも思います。

しかし思うところあり、あまり熱心に通う生徒ではありませんでした。が、ここで学んだ技術、考え方の原則は今に生きています。

●私が思う「広告」について


●私が思う「ブランディング」について

まさに”Connecting The Dots”ってやつです。スティーブ・ジョブズがスタンフォードで言ってたことは本当でした。今なにをしていても、点と点は未来で線になってつながりますよ。だから、焦らなくていいよ、過去の私。


[3]経歴(仕事)

▶︎1社目「ドブ板営業と家賃2万円」

大学除籍後、ハローワークで仕事を探しに行き、優しいおばさまたちに相談。この間、実家を追い出され、友だちの家に2週間居候しました。ありがとう友だち。

死ぬ気で仕事を探した結果、日本経済新聞社の広告代理店(もどき)へ入社。勤務地は札幌です。住む場所もすぐに見つけ、家賃2万円の部屋に住みます。私のキャリアのスタートの部屋は2万円です。

仕事は営業職として毎日250件、北海道中の法人社長に電話営業。ひっじょーに辛かったです。「おかしいな?広告がやりたいのに、おれ営業してる…」と泣きながら電話しました。

2年後、追い出された実家に立ち寄った時は、父から「よく頑張ったな」と褒められました。怒られると思ってたのに、そこはさすが親です。改めて謝り、感謝を伝えて一緒にお酒を飲みました。 


●転職を決意した時のお話


▶︎2社目「水を得た魚の如き営業」

約3年働いた後、転職を決意。人材系ITベンチャーに転職しました。「北海道支社の立ち上げ」の1人目として採用され、関東からきたマネージャーとたった2人で北海道を開拓しました。


●転職して感じた東京と札幌の差


当時は水を得た魚のように、寝ないで働きました。死ぬほど楽しかったからです。1日250件の電話営業の反動で「人に会って仕事ができるぞ!」と思いながら働きました。

転職するつい2ヶ月前までは、タコ部屋みたいなところで受話器を握って、トイレの個室で泣いていた私です。もう、あらゆる企業に営業しました。やりたかった広告の仕事なんて、すっかり忘れています。


●転職した後の面接官との食事の話


ある銀行の役員と商談する機会がありました。
最高級の応接間に通されて、銀行役員さんと課題について議論をしている最中、ふと思いました。

「…待って、なんでここに俺いるんだ?」

「…俺の人生どうなってるんだ?」

当時の会社の社長、役員、上司、同僚、部下、また、巡り合った経営者さんのおかげで、嬉しい評価ももらえました。何にも代え難い経験をさせてもらいました。


●大企業の社長と話して感じたこと


賛否両論あるかもしれませんが、私は「自分の得意なことで役に立てる仕事ができるなら最高」と思ってるタチです。この文章から漂ってくる、そこはかとない自信、みたいなものは嫌です。キモいと思っています。ただ、

父が昔言ってました。

「いいか、男は黙って外で働いて、困ってる人を助けるんだ。そして家にお金を入れて家族を幸せにしろ。そこだけブレなければいい」

頭に染み付いて離れないっぽいのです。

また、このステージでは、生涯の伴侶も見つけることができました。人生をステージで考えるようになり始めたのもこの辺りからです。


●妻とのなれそめ



●プロポーズ時のエピソード


●結婚した時の義母への挨拶の思い出


▶︎3社目「生命保険外交員になる」

からの保険の外交員です。生命保険の営業マンです。ベタです。2社目時代の仕事が、たまたま多くの方々の目に留まり、6社の会社からヘッドハントを受けました。その中の1社に入社しました。

当時は転職する気なんてさらさらなくて、ただヘッドハントに興味津々。「私にもとうとう来ましたか、思ったより早かったなぁ(スチャッ)」ってな具合で調子に乗っています。全ての会社の方たちにお会いしました。

「どんな風に営業するんだろう?」「盗めるところはないか?」と思ってたからです。「保険?無理でしょ、友だちなくしちゃう」って思ってました。でも飛び込みました。

●保険の仕事での私のスタンス


保険会社に入社することを決めたのは、支社長が好きだったからです。考え方、佇まい、まなざし、所作振る舞い、信条、全てがパーフェクト。いつか、こんな50代に私もなりたい、と思ってた人が目の前に現れた感覚でした。

さながら、ONE PIECEを見つけた感覚です。 「ここにあったのか!ONE PIECE!」って感じでマジで電気が走りました。「私がこの会社に入るためにはどうしたらいいですか?」って初回面談で支社長に聞いちゃったのを覚えています。してやられました。



[4]現在の仕事

なんやかんやで、取締役副社長になりました。
友人と株式会社を作ったのです。

これについては、今後書こうと思います。



[5]我が信条

▶︎父の教え

指針にしている原則があります。
先述した、私の父が教えてくれたことです。
すなわち、

「いいか、男は黙って外で働いて、困ってる人を助けるんだ。そして家にお金を入れて家族を幸せにしろ。そこだけブレなければいい」


思うに当時、お父さんはお父さん自身にこれを言い聞かせてたのかなあ。お父さんはよく「お前は俺のようになるな」とも言ってました。「お前は特別だから」って言ってくれてたんです。

でも、それを聞いて私は思ってました。
「どうしてお父さんみたいになったらダメなんだろう?こんなにかっこいいのに」


●そんな父と大人になってから2人で釣りに行った時のお話


▶︎読書、過去の偉人に学べ

そんな父ですが、私が大学を辞める時はブチ切れました。ぶん殴られました。痛かったなあ。お父さん、ごめんなさい。

実家を飛び出して、友だちの家に居候させてもらってた時は「ここで何かを学ばなければダメだ」と思って読書に没頭しました。外でも歩きながら読んでいました。二宮金次郎のように読んでました。


その頃読んだ本も、
今の私を形作ってくれています。
少しだけ紹介すると、

『フランクリン自伝』

『生き方』

『道は開ける』

『ビジョナリーカンパニー』

『竜馬がゆく』

『7つの習慣』

『人を動かす』 



●影響を受けた「フランクリン自伝」の話


ベタだ…。ベタ中のベタだぁ…。
これらを選んだ理由は、

読むなら普遍的かつ古典的な名著だろう。

とキリッと思ってました。源流を学びたい。木で言えば枝葉ではなく根っこを知りたい。普遍的な人生の原理を学ぼうと思って選んだ本たちです。

なんせ大学を除籍になってます。渇いたスポンジのように吸収しました。『竜馬がゆく』以外はブックオフで買いました。コスパがすごいです。 

特に『生き方』という本で稲盛和夫さんが書かれていた「動機善なりや、私心なかりしか」は行動の指針です。コンパス、羅針盤です。

保険の仕事は人から嫌われます。でも保険は必要とされているから世の中に存在します。なので、この信条だけはブレないように努めているつもりです。もし、ここからブレるようなことがあれば、あるいは、そういうことを強要されれば、私はいつでも仕事を変えます。


[6]なぜnoteを始めたか

自己表現の場が欲しかった。

これに尽きます。 

結局。



▶︎表現の場を求めて

SNSとか色々と試しました。Twitter、Facebook、Instagram、YouTube。でもどれもが、なんだか性に合ってないな、と悩みました。noteの存在も知ってはいましたが、一歩踏み出せずにいました。億劫だったんです。

まあでも、文章は好きだし、書いてみるかと思って2021年12月29日に初めての記事をnoteに投稿しました。この記事です。試行錯誤してた時の私の渾身の一作目です。


●渾身の一作目!


タイトルなんやねん。
「たった1つの方法」って。偉そうです。画像とかも意味が分からない。ただ、記事の通り、妻とは0日婚です。今度もっと書こうと思います。

しかし、そこから何を書いていいものか分からず、それからは持ち前の継続力のなさ、大学を除籍になるような精神性も相まって5ヶ月間noteを放置しました。でも読んでくれた方もいます。記事の続きを書けてなくてごめんなさい。今度書きますね。


▶︎毎日投稿

noteを再開しようと思った時に決めたことがあり、何かといえばそれは「毎日投稿」です。

2022年6月1日から、
この記事を皮切りにスタートしました。


●ここから毎日投稿がスタート

noteを再開しよう、それも毎日投稿で。と思った理由は「ホリエモンがnoteの毎日投稿をやってたから」です。

「おいおいお前さぁ、ホリエモン信者かよ」という声が聞こえてきそうですが、彼のある動画を見て私、思ったんですね。

あんなに忙しい人が仕事の合間で書いてるのに、私はどうしてやってないの?なんて情けない!そう思ったんです。だからやってみよう、と。私にもできるはずだ、内容は後回しだ。そう思って始めてみました毎日投稿。


▶︎毎日投稿してみた感想

やってみると分かったのは「楽しい」ということです。好きこそ物の上手なれって感じでしょうか。結構楽しいんですねこれ。

反応があれば嬉しいんですが、別になくたっていい。とにかく自分の経験や考えていることを表現する。「これこそ私がやりたかったことではないか!」とそう思って毎日書いています。これからも毎日投稿を続けていきます。


▶︎変わってきたnoteの目的

当初は自己表現が目的のnoteでしたが、今では少し目的が変わってきています。たとえば「読んでくださる方の心に何か残せたらな」とかなんとか、もちろん、そんなことを考えたりもするんです。しかし、今では目的が変わって、


生きてきた証を残したい。 

…。

……あちゃちゃ…。

「生きてきた証」って気恥ずかしい表現ですがね、こんなことを思うんですね。


我が家にはまだ子どもがいません。でもきっと将来、我が家を選んで生まれてきてくれる、そう信じています。妻はいま35歳で不妊治療を始めて2年が経ちました。流産も2回しました。泣きました。大泣きしました私。


●不妊治療に悩む妻と私

その話と「生きてきた証」がどう繋がるのかというと、最終的にその証?を何のために残したいのかを考えると、くっきりしていて、


自分の子どもに残したいんです。
生きてきた証、つまり私の考え方と、
行動と、経験を。


そんなつもりで書いています。

考え方が正しいとか正しくないは置いておいて、私はこんなことを考えてきたよ、ということを我が子に残してみたいんです。なぜかというと、


先日の記事にも書きましたが、自分の父と母に言われたことって忘れないんですね。子どもは。ほぼ忘れません。受け継がれる意志ってやつです。


●最も読まれている記事です

でも細部とか、どうして父と母がそういうことを教えてくれたか、どうしてそういう考えに至ったかって、私知らないんです。両親から聞いてないんです。となると、

知りたくなりません?
自分に影響を与えてくれた人の経験って。

だからnote運営部さんお願いです。
ご事業を100年続けてください。
どうかお願いします。


[7]やりたいこと

自分の勉強不足もあり、noteの機能をフル活用できてないんですが、もう少し活用できたらな、と思ってます。記事のまとめ、とかマガジンとか。この自己紹介記事も、程よく更新していけたらいいのかな、と。

あと、これをきっかけにしてコミュニティも作りたいです。やさしいコミュニティを。


●コミュニティ作りに関する私の気持ち


●実際にこんなこともnoteでやってます


●音声配信も不定期で始めました



とにかく、私がnoteでやりたいこと、それは
ただただ私の記事を残すことです。

今までと変わらず、思ってることや
体験したことを書こうと思います。

[8]おわりに

最後になりますが今回、
この記事を書いてみてですね、こう思いました。 


「なんか…まだまだ書くことあるなぁ…」


なので、みなさん、気が向いた時に「お、読んでみようかな」と思っていただけたなら、お付き合いいただけたら嬉しいです。


まだ見ぬ我が子に残す、お父さん(仮)の日記
みたいな、そんな感じです。


●子どもへの手紙のつもりで書いてる話



さて、改めまして、みなさま、
いつもありがとうございます。
そして引き続き、よろしくお願いします。


おわり


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