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大学を除籍になった私に勇気をくれた『竜馬がゆく』との思い出。

「男なら『竜馬がゆく』を読むんだ」

私はチビっ子の頃、父からそう言われて育った。

当時の私の実家には司馬遼太郎が書いた『竜馬がゆく』の文庫本が置いてあった。あの坂本龍馬についての歴史小説だ。文庫本は全8巻からなるが、家には6巻までしかなかった。

家にあった『竜馬がゆく』にはカバーがなく、薄茶色のまる裸の状態で雑に置いてあった。少しシミがあって汚れている。

一巻にいたっては表紙も破れている


後になって知ったが、我が家にあった『竜馬がゆく』は、父が親友から譲り受けたものらしい。その親友も今から10数年前にがんで亡くなった。絶対に泣かない父が、お葬式で棺を叩いて、ひざから崩れ落ちながら泣いてたというから、親友ってそういうもんだよな、と思う。



「男なら『竜馬がゆく』を読むんだ」

そう言われて育ったが、私は24歳になるまで、とうとう読まなかった。だって長いから。全8巻。家には6巻までしかないし。子どもの頃の私は歴史小説のおもしろさもわからなかったから。


2010年、私が20歳のとき。NHKの大河ドラマで『龍馬伝』が放送されると決まって、私と父は喜んだ。

「父さん!福山雅治が龍馬だって!」
「ほー、そうか。ちょっとイメージ違うなぁ」

毎週、父とかじりつくように見た。
『竜馬がゆく』を読んでないけど、坂本龍馬が何をした人なのかは、日本史の授業や父から教えられて知ってはいた。龍馬伝を見て、よりくっきりとなる。




私が『竜馬がゆく』を読むことに決めたのは、24歳の時。大学を除籍になり、実家を追い出されたことがきっかけだった。大学を除籍になった経緯は、以下の記事を参照されたし。


実家を家出する時、大きなキャリーケースに洋服やスーツなど、できる限りのものを詰め込んだ。「よし…これで準備万端だ」と思っていると、自分の部屋の本棚が目にとまった。ボロボロの『竜馬がゆく』が並んでいる。


「男なら『竜馬がゆく』を読むんだ」


父の言葉を思い出す。
そうだ、読んでなかった。いい機会だ。読もう。
いや、読まなきゃ。父さんが言ってた。

キャリーケースの残されたスペースに、ボロボロの『竜馬がゆく』をぎゅぎゅっと詰め込んだ。文庫本6冊だ。そうして私は家を出た。


そこからの家出の顛末は、別の機会に譲るとして、私は『竜馬がゆく』を読み始めた。季節は秋の暮れ。札幌の秋はすぐに終わる。寒かった。


読み始めると、おもしろさに気づく。

「お、おもしろいぞ!?」

だから、むさぼるように読んだ。


坂本龍馬の少年期から始まり、桂小五郎との出会い、勝海舟への弟子入り、西郷との会談、由利公正との議論、船中八策、大政奉還、明治維新の達成、そして近江屋での暗殺。

一部では「あれは司馬遼太郎の創作で、坂本龍馬はただの武器商人さ」なんて言われてて、悲しくはなるんだけど、それでもいい。

『竜馬がゆく』の中の坂本竜馬が好きだ。

作中の竜馬は、とにかく会う人たちを魅了していく。司馬遼太郎の確かな取材力、幕末という特殊な時代性、登場人物の魅力もあいまって、とにかくおもしろい。

一部を引用すると、

竜馬は、議論の勝ち負けということをさほど意に介していないたちであるようだった。むしろ議論に勝つということは相手から名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になることがしばしばあることを、この現実主義者は知っている。
引用 :  『竜馬がゆく』
人の世に、道は一つということはない。道は百も千も万もある。
引用 : 『竜馬がゆく』

まあ、あまり引用しすぎるのも粋ではないから、みなまで書かないけれど、とにかく熱中して読んだよ。


大学を除籍になった私だったけど、いつも小説の中の竜馬が励ましてくれた。「男子たるもの天下の大事を成せ」的なメッセージを受け取る。「なるほど、父さんが俺に伝えたかったのはこれだったのか」と、父に感謝する。大丈夫だ、俺なら大丈夫だ、そう思えた。


家出をした後の部屋さがしの最中も、仕事を探しにハローワークに行ったときでも、道中歩きながら読んだ。道でおばあちゃんから「読書が好きなのねぇ、二宮尊徳さんだねぇ」と言われたこともあった。「へへっ」って言ったもん。

全8巻のうち、6巻までしか持ってなかったから、急いでブックオフにも行った。「7巻、8巻…どこだどこだ、あった!」と喜んで竜馬に会いに行った。

7、8巻だけ新しいからカバーがある


「男なら『竜馬がゆく』を読むんだ」

父から言われたことを思い出す。
小さな頃は読まなかった。よく分からなくて。
でも、全部読んだ。そして思った。


「俺もこういう人物でありたい」


この小説に出てくる坂本竜馬のように、何か天下の大人物になる、とかそういう意味合いではない。私はそんな器じゃないよ。そうではなく「志」みたいなもの、人と接する時の「心構え」みたいなものを、もっと大事にしようと思える本だ。この『竜馬がゆく』が、今の私の根底に流れていると言って差し支えない。


声を大にして言おう。

『竜馬がゆく』は私のバイブルだ。

ちっとも恥ずかしくなんかない。



私の父が親友から譲り受けた『竜馬がゆく』
息子に読ませたい気持ちもよくわかる。


父さん、ちゃんと読んだよ。ありがとう。
大切にしてるよ。


後日談を書くと、その後社会に出た私は、京都にある坂本龍馬のお墓や、彼の故郷である高知県、桂浜にも行ってみた。「龍馬を感じられるかな」と思って行ってはみたが、ぶっちゃけ何も感じなかった。

「来たはいいけど、特に何もないな。うん、アイスでも食べて帰ろう」って言ってた。本の中の竜馬に会いたいのだ。

思うに、本というのは、その人がそれを読むにふさわしくなるまで、私たちを待っててくれる。『竜馬がゆく』で言えば、私は24歳だった。
そして、

坂本龍馬は31歳で没している。
こんなことを書いてる私も31歳。
気づけば、あの時の坂本龍馬と同い年だ。


人間を愛する心があるだろうか、他者とは違う価値観・視点を持ち続けているだろうか、大局を見据えられる人間になっているだろうか、人生そのものを楽しめているだろうか。

龍馬が亡くなった年齢と同じ、31歳になったいま、そう自問自答してみる。


龍馬の没年齢、すっかり忘れてたけど。



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