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自分のなにを、大事にするのか。
もっと自分を大事にする。よく聞くことばだ。
自分のことをいたわってあげるだとか、自分で自分にごほうびをあげたり、十分な休息を用意したりとか。そういうニュアンスで語られることの多いことばだ。うん、自分を大事にしてあげよう。自分を粗末にしないでおこう。いまのぼくはむかしに較べて、ずっとたくさんの休みをとり、無理のないスケジュールで仕事にあたっている。いいことだ、と自分でも思う。
けれども最近、自分
エスカレーターに吹き抜けた風。
渋谷駅のエスカレーターで、母親と女の子の二人組を見かけた。
これから買いものにでも行くのだろうか。母親はまっすぐに前を見ている。女の子は母親の黒いダウンコートのすそをひっぱり、はずむ声で話しかけている。女の子は言う。
ねえねえ、知ってる?
三学期ってねえ、あっという間に終わっちゃうんだよ。
もう、ぴゅーって終わっちゃうんだよ。
そしたら◯◯ちゃん(じぶんの名前)、すぐ四年生になるんだよ。
「自分のため」は、つかれる。
いま、自分がとてもいい時期にいるな、という感覚がある。
会社があほみたいに大儲けしているわけではないし、すてきな婦女子たちにモテモテというわけでもないし、のんびりバカンスをたのしんでるわけでもないし、毎日会社に出ていつもの椅子に座り、なにかしら仕事をしている。それでも、たとえば去年の自分と比較したとき、いまのほうが断然気持ちのいい毎日を過ごしている。ぼくをよく知る友人からは「犬を飼ったからじゃな
がんばりすぎる人たちへ。
TLで流れてきた記事をきっかけに、がんばりすぎる人について考えた。
おそらくぼくは、がんばりすぎる側にいる人間だ。本をつくるときでも、それ以外の仕事でも、適度に肩の力を抜くということがあまりなく、どうしても「がんばり」が過ぎてしまう。天賦の才を持たない人間のひとりとして、そこに投じる時間や労力は多いほうがいいとは思うのだけど、「がんばり」が自己目的化してしまうのはちょっと違う気がする。
たとえ
1998年のカレーライス。
勢いで口走った啖呵にしては、あまりにおおきな岐路だった。
仕切り板一枚を隔てただけの、ミーティングスペース。24歳のぼくは、勤め先の社長からかなり理不尽な理由で、長い叱責を受けていた。ぼくは間違っていない。ここで謝っちゃいけない。そう決めていたぼくに、社長の言葉は人格否定の烈度をぐんぐん上昇させていき、ついには「辞めてしまえ!」と口走った。売り言葉に買い言葉とは、おそろしい現象である。ぼくは反射
本をつくるときにぼくが考えていること。
「企画は『ひと言』で説明できるようにしなさい」
クリエイティブの現場でしばしば語られる教訓である。ほんとうにいい企画は、「ひと言」に要約することができる。ことばを尽くして語らないと伝えきれないような企画は、まだまだ詰めが甘い。その企画(あるいは商品)の核心にあるのはなんなのか、「ひと言」にできるまで考えよう。……およそそんな感じの教訓として語られている。
たしかにこれは正しい考え方なのだけれど
笑顔でバイバイをする。
正月に財布を新しく買い替えた。いつも使っている財布の色違いをアマゾンでアマったんだけど、ご丁寧に前回の購入日を教えてくれる。前回は3年前に購入したらしい。古い財布からカード類を取り出して、新しい財布のおなじ場所へ移動する。
まだ新品なので革が硬く、全てのカードを移動するのは難しい。使用頻度の低いナナコカードは一軍落ちとなった。カードだけでなく、よく財布を無くすのでカードタイプのGPSやドラえ
ファンベースカンパニー、佐藤尚之は、 なぜマス的なものの限界にいち早く気づき、 ファンの獲得をメッセージするのか?(後編)
マーケティングリサーチは、もう意味がない 新型コロナがやってきて、かつて当たり前の成功法則だったことが、必ずしもそうではなかったことが明らかになっています。飲食店が繁盛店を作るためには、人通りの多い立地がいいと言われました。しかし、そういうお店はコロナで人通りが消えると、一気に苦況に陥ってしまった。
要するにこれは、露出の発想だ、と佐藤尚之さんは語っていました。たくさん露出することで、新規のお
拝啓 20年前の私へ
「20年前のちーちゃんから30歳の千裕さんに手紙が届きましたよ」
母からの連絡には、フェルトペンで書かれたのであろう拙い子供の書く漢字で私の実家の住所と宛名が記された茶封筒の写真が添付されていた。何をそんなアンジェラ・アキみたいな話……と首を傾げかけたところで、ばちんとその記憶は蘇ってきた。小学4年生、ちょうど20年前、国語の授業で「20年後の自分に宛てて手紙を書く」という時間があったこと。あの