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1998年のカレーライス。

この文章は、日清オイリオとnoteで開催する「#元気をもらったあの食事」の参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

勢いで口走った啖呵にしては、あまりにおおきな岐路だった。

仕切り板一枚を隔てただけの、ミーティングスペース。24歳のぼくは、勤め先の社長からかなり理不尽な理由で、長い叱責を受けていた。ぼくは間違っていない。ここで謝っちゃいけない。そう決めていたぼくに、社長の言葉は人格否定の烈度をぐんぐん上昇させていき、ついには「辞めてしまえ!」と口走った。売り言葉に買い言葉とは、おそろしい現象である。ぼくは反射的に「じゃあ辞めますよ!」と応じ、ほんとうに会社を辞めることになった。誕生日を間近に控えた、暑い夏の日だった。——おまえ、まじかよ。自分で切った啖呵に、自分がいちばんおどろいていた。

辞めたあとの、あてがないわけではなかった。

啖呵を切る数か月前。とあるエッセイストさんへのインタビューを記事にしたところ、彼はその原稿をたいへん気に入ってくれた。「こんなによく書いてもらったのははじめてだ。きみはこんなところ(会社)にいたらもったいない。フリーになりなさい。フリーになったら、ぼくが雑誌の編集部を紹介するから」。そんな言葉までかけてくれた。よし、辞めたんだから、約束どおりフリーになったんだから、まずはあの人に連絡しよう。

突然の電話口で彼は、「ほんとに辞めたのか!」とおどろいていた。まさか真に受けるとは思わなかった、という口ぶりだった。それでも、約束は約束であり、彼は労を惜しまない優しい大人だった。翌日には知己の雑誌編集長に連絡を取り、ぼくとの面会をセッティングしてくれた。ぼくでも名前を知ってる、有名な雑誌だ。ぼくは自分が過去に書いた記事のいくつかと、「自分にまかせてくれたらこんな連載ができます」という企画書を3つほど準備して、意気揚々と会いに行った。

待ち合わせ場所は、でかいビルの一階に入った喫茶店。年のころは50代前半くらいだろうか。やや顔色の悪い編集長は、ぼくの企画書をパラパラめくりながら、「まいったなあ」とあたまを掻いた。

「いや、○○先生の紹介だから来てみたんだけどさ、これはなに? もしかしてきみ、うちで連載持てると思ってるの?」。当然の顔をして「はい」と答えるぼくに、編集長は「うちの雑誌、バカにしてる?」と凄んだ。

「あのさあ。○○先生が目をかけるくらいだから、きみも多少は書けるんだと思うよ。でもね、きみみたいなライターに求められるのは、原稿の腕じゃないの。足なの、足。とにかく足。たとえばうちの雑誌で『東京のラーメン・ベスト100』みたいな特集を組んだとするでしょ? そのとき、ぼくら編集部が知らない10軒・20軒を探してくる足。それが若さの価値なの。なのに、いきなり連載を持たせろだなんて、ありえないでしょ。しかも業界経験10ヶ月? 失礼だよ、正直」

そう言ってぼくの名刺を裸のままポケットに突っ込むと、彼はスタスタ去っていった。追いかけないほうがいいんだろうな。かろうじてそれだけを理解したぼくは、まったく口をつけていなかったアイスコーヒーを、最後まで飲み干した。

その日の夜、エッセイストさんからお叱りの電話がかかってきた。「編集長から聞いたぞ。なにをやってくれたんだ、まったく」。ぼくは、失礼なことなどなにもしていない。与えられた機会を活かそうとして、自分なりに企画を考えて、それを提案しただけだ。反省すべき点があるとすれば、あまりに世間を知らず、身のほどを知らなかったという、ただそれだけの話だろう。

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売り言葉に買い言葉で会社を辞め、収入が途絶え、まわりのおじさんたちを何人も怒らせ、すっかり確保していたつもりの収入源も閉ざされた。貯金らしい貯金もなく、おそらく再就職先を得るのもむずかしい。八方塞がりとはこのことだった。

これがマンガや小説だったなら、主人公(ぼく)は懸命に仕事探しをするのだろう。電話帳に載ってる出版社にどんどん電話をかけ、なんでもいいから仕事をくれ、と営業しまくるのだろう。しかし現実の人生には、求職以前に考えるべき問題がある。「きょうのごはん」という大問題であり、「あすのごはん」という大問題である。

最初はマンガに出てくる苦学生を見倣って、パンの耳を食べることにした。しかし近隣のパン屋さんでは、パンの耳をパンの耳として安売りすることが少なく、もっぱらラスクに加工して販売していた。それじゃあ主食にならないし、そもそも高い。じゃあ米だ。米だけは、実家から送ってもらったものが大量にあった。問題は、米に合わせるおかずである。なるべくならおいしいものがいいし、つくりおきのできるものがいい。フライパンひとつでできるくらいの手軽さもほしく、当然お金はかけられない。

熟慮の結果、ぼくはひとつのレシピを思いついた。

駅前のスーパーに行く。野菜売り場で玉ねぎをひとつだけ、かごに入れる。特売のカレールーを探し当て、かごに入れる。これでせいぜい250円程度。そこから精肉売り場に足を運ぶ。白の蛍光灯がひときわまぶしい精肉売り場には、さまざまな種類の肉が並んでいる。牛肉、豚肉、鶏肉。小間切れ、ミンチ、厚切り肉。ぼくが颯爽と向かうのは精肉売り場の天守閣、ステーキ肉コーナーである。

大抵のスーパーでは、ステーキ肉コーナーの一角にかごが設置されている。「ご自由にお持ちください」と、ビニールに入った3センチ四方ほどの牛脂ブロックが置かれている。ステーキを焼く際に使う、おまけの脂だ。

ほかのお客さんの迷惑にならないよう、店員さんから咎められたりしないよう、遠慮がちに4つや5つの牛脂ブロックをかごに放り込む。買いものは、以上。特売のカレールーと玉ねぎ。ここに牛脂を加えて、牛肉の香りがするカレーをつくることにしたのだ。

帰宅後、ひとつしかない大鍋に火をかけ、牛脂をふたつほど溶かす。そこにくし切りにした玉ねぎを投下すると、バチバチバチッという音とともに、いかにも高級な香りが立ちのぼる。炒めるうちに玉ねぎは透明になり、やがて黄金色へとその姿を変えていく。玉ねぎの水分がなくなって焦げつきはじめたところで、残りの牛脂を投下。さらに箱に記載された量から1割増しほどの水を加え、玉ねぎの焦げを落としつつ煮込んでいく。煮込むべき具などひとつもないのに、煮込んでいく。そして30〜40分ほどののち、カレールーを割り入れる。6畳のワンルームに、幸福な家庭の香りが充満する。

炊いたごはんをカレー皿によそい、ところどころに玉ねぎが見えるばかりのカレーを、残りのスペースに注いだ。ほどよい粘度を保ったカレーは、どこからどう見てもカレーだった。期待に胸を膨らませ、最初のひとくちを口に運ぶ。

「ぶほっ!」

あまりのおいしさに、思わず笑ってしまった。空腹はあった。まずいなんて言ってられない状況も、たしかにあった。それでも口のなかに広がっていくのは、間違いなく高級ビーフカレーの味と香りだった。

こんなにすごい料理ができるなら、大丈夫だ。もうぜったいに、大丈夫だ。ひとくち食べるごとに、自信が湧いてきた。

これから自分がどうなるのかなんて、まるでわからない。またどこかで門前払いを喰らうのかもしれないし、偉いおじさんを怒らせるのかもしれない。そもそも世のフリーライターたちがどうやって仕事を得ているのか、まったく知らない。将来設計なんて、立てようがない。

でも、食べてみろよこれ。すごいじゃん、おれ。

2杯、そして3杯。備蓄するつもりでつくったカレーなのに、おかわりする手が止まらない。このカレーで、この痛快なアイデアで、腹を満たすこと。それがうれしくてたまらなかった。ゼロからのスタートも、望むところだ。こうしてぼくは「食って」いく。フリーライターとして、自分のアイデアで「食って」いく。当時はことばにできなかったけれど、そんなことを思っていたのだろう。

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いまでもたまの週末に、名前のない料理をつくることがある。ヒントもレシピもお手本もない、在庫一掃の即興料理だ。できあがったそれでおいしく腹を満たすことがかなうと、妙な満足感に包まれる。自分はまだ大丈夫だ、これからきっとうまくいく。そんなふうに思えてくる。具なしビーフカレーを食べ続けた、24歳の夏のように。