『「介護時間」の光景』(209)「サッカー」。6.5。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2002年6月5日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年6月5日」のことです。終盤に、今日「2024年6月5日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2002年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
2002年になってからも、同じような状況が、まだ続いていたのですが、春頃には、病院にさまざまな減額措置があるといったことも教えてもらい、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていたと思います。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2002年6月5日
『病院に行くのが4日あいてしまった。2年通っている中でも、こんなに日数が空くのは珍しい。
久しぶりに向かう。
病院のスタッフの人が、すでに懐かしく感じ、帰ってきた感じがする。
母が横になっている。
記憶は混乱している。
昨日は、本人が望んでいたので、スタッフの方にもお願いしていたから、サッカーのワールドカップも見ているはずなのだけど、全く覚えていなかった。
それでも、一緒に水ようかんは食べられた。
夕食は55分かかった。
さすがに最後になった。食事を運ぶ大きなワゴンのようなものも、もう去ってしまった。
母はすぐトイレへ行く。10分以上かかって、途中少し様子を見に行った。
今日は、いろいろな検査を受けたそうだ。
MRIなども使ったようだけど、「尿検査はうまくいかなくて---」などと母は言っていた。
病院のスタッフの女性には、「かわいいお母さん」「優しいお母さん」「絵、上手よね」といろいろと言ってくれたのだけど、なんだかあいまいに笑って、ゴニョゴニョとお礼を伝えることしかできなかった。
いつも病院でお会いする、同じように入院している家族の方に、アジサイをいただいた。
ありがたい。
午後7時に病院を出る。
もう、暑い。
気温は30度を超えたそうだ』
サッカー
ずっとサッカーを見ることができなかった。
1988年からフリーのライターになり、学生時代にサッカーをしていたこともあり、目標の一つはワールドカップの取材をすることだった。その頃は、日本代表がW杯に出られる時が来るとは思っていなかった。
1990年代の後半にはサッカーの取材もするようになり、日本代表のトレーニングのことも書くようになった。
もう少しだった。
だけど、1999年から介護に巻き込まれ、仕事を続けることができなくなった。
思った以上に辛くて、サッカーをテレビで見ると、何か痛い気持ちになって、見続けることができない時間が続いた。
2002年のワールドカップは自国開催になった。
日本代表の最初のゲームはテレビでみた。
久しぶりにサッカーの試合を無心で集中して見ていた。
この3年、自分が狂いもせず、死にもせず、乗り切ってこれたのは、けっこうラッキーだったかもしれない。
昨日のサッカーのことを思い出したら、急にそんなことを思った。
(2002年6月5日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、ずっと在宅介護をしてきた義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年6月5日
やっと晴れた気がする。
洗濯を始める。
日差しが強い。
洗濯物は、それほどたまっていないから、一度洗濯機を回し、それから、妻に頼まれていた冬物のセーターを洗うことにした。
新しく買ってきてもらった洗濯ネットをやっと袋を開けて、使えた。
花
庭には、いろいろな花が咲き始めている。
それについては、妻の方がすぐに気がついて、そして、教えてくれる。
だから、私は咲いてから、しばらく経ってから気がつくことになる。
今日は、かなり鮮やかな花が咲いているのがわかった。
ポーチェラカ。
その名前は、妻に教えてもらった。
そういえば、その隣の花も、シボリザキポーチェラカ、と教えてもらったから、同じ種類の花だった。
知らなかった。
無力感
太陽の光を見ながら、気持ちいいと思いながら、無力感に襲われる。
臨床心理士の資格を取得してから10年経って、公認心理師の資格は取ってから5年ほどが経った。
そして、自分自身はある意味で欲が深いのだと思うのだけど、そうした資格をとって、目標だった、家族介護者の心理的支援を始めることもできて、さらには周囲の尽力があって11年目を迎えられたのに、そうした相談窓口が増えていかないことに対して焦りがずっとある。
そのために自分なりに、このnoteも含めて、社会的に「説明」をしてきたはずだったのに、その成果は上がっていない。
資格を取得したのが遅かったから、もっと早くなんとかしないといけないのに、などという気持ちもあるが、それは、自分だけの力ではどうしようもなくて当たり前なのを忘れている、どこかごう慢な思いかもしれないと感じながらも、時々、無力感が強くなる。
こうしたことを繰り返しながらも、それでもやれることをやっていくしかないのだろう、と思っている。
感動と疑問
私のような、実績も能力もまだ足りず、しかも年齢だけは重ねてしまった人間が何かを語ることは出来ないのは自覚しながらも、優れた臨床心理士は、どうして様々なことに気がつけるのだろう?と思うことはある。
まず、ここまで正確に把握することが難しい。さらには、そこまでが出来たとしても、ここまで勇気と覚悟を持って明確に伝えることが、もしかしたら、最も難易度が高いのかもしれない。
ただ、どちらも、臨床心理士だけではなく公認心理師にも必要な能力だし、そこまで揃って、初めて困難を抱える人の力になれるのも事実だと思う。
そう考えると、自分には無理ではないかという気持ちになりがちだけど、それでも、仕事をする以上は、できるかどうは別として目指すべきことでもあるのも、間違いない。
先は、けわしい。
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