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「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」⑪「ねぎらわれること」

 介護をされている方にとっては、いつ終わりが来るか分からない毎日が、ずっと継続している感覚だけは、周囲の状況が、今のようなコロナ禍になったとしても、もしかしたら、変わらないのかもしれません。そして、その感覚は、他の方々には、なかなか理解されにくいことだと思います。

 いつも読んでくださる方には、繰り返しになり申し訳ないのですが、私も家族の介護をしていた時期があります。(リンクあり)。その時間の中で、家族介護者の方の、こころのサポートが必要だと考え、臨床心理士になりました。

 このnoteの記事も、できたら、家族介護者の方のために、少しでもお役に立てれば、と始めて、続けています。「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」は、今回で11回目になりますが、「ねぎらわれること」について、お伝えしたいと思います。

「35歳の少女」

 テレビ番組の話で申し訳ないのですが、最近、見ているドラマで気になっていることがあります。まだ途中なので、今後、その点が解消される可能性もあるのですが、「35歳の少女」という物語についてです。

 10歳の時に事故にあった娘が、ずっと意識がないまま、25年という歳月が流れ、途中でもう諦めたほうが、といったことを言われながらも、その母親だけがあきらめずに看護を続け、奇跡的に意識を取り戻し、そこから成長をする、というストーリーなのですが、いつまで続くかわからない日々を、意識のない娘に対して、身体的な訓練もしていたようですから、母親にとって、それはとても困難な「介護」に見えました。

 夫はその状況の先の見えなさから、離婚にいたり、意識のない姉ばかりに母親の注意が集中しているという思いが抜けなかった妹は家を出ていて、その母親と思いを共有できる人はいないようでした。

ねぎらわれない介護者

 もちろんフィクションですが、今のところ、あまりにも支配的な母親として、微妙に悪いように描かれているのですが、でも、25年も希望がない中で希望を「一人だけ」見て、介護を続けていれば、それは他の生活があったとしても、ずっと意識のない娘に対しての注意も続いていたはずで、それはかなりの負担感が続いていたはずだと思いました。

 そうした行為に対して、意識を取り戻した当事者からは、母親に対して、一応の御礼はあるものの、家族もバラバラになってしまっているので、十分な「ねぎらい」はまったくされていません。これからも、それが期待できないような展開が続いています。

 これでは緊張感も溶けにくいのでしょうし、25年間も意識がない状態が続いた娘に対しては、何かあったら、いつまたその状況に戻るのではないか、という恐怖心も抜けないはずです。だから、ずっと笑顔もほとんどない「怖い」顔のままなのですが、それも仕方がないように思います。

 それに、病院での25年間、その母親の姿勢に対して、その行為に関して、病院のスタッフは、どのような態度をとっていたのでしょうか。あいさつくらいはしたでしょうけど、そして、大変ですね、と声をかけたかもしれませんが、でも、陰で、無理なのによくがんばるわね、といった、どこか陰口に近いことも、言われているような気がします。それも仕方がないようにも思いますが、さらには、家族だけでなく、親戚やご近所も、本当に応援してくれるような人は、ほとんどいないように描かれています。どれだけの孤立感だったのでしょうか。

 フィクションとはいえ、そんなことを思うのは、自分自身が、特に、「通い介護」(リンクあり)をしている場合に、そこまでやらなくても、といったニュアンスの言葉を、何度も聞いていた個人的な記憶もあるからです。今後、どういう展開になるのかは分かりませんが、ドラマの中でも、当事者が納得するような、25年やってきたことへの十分な「ねぎらい」をされること自体が、とても難しいと思います。

 実は、これは、今の家族介護者の方々すべてに、いえることではないかとも考えています。

 今回は、主に家族介護者の周辺の方、もしくは介護者支援の専門家の方向けの話になってしまうと思いますが、もし家族介護の当事者の方でしたら、よろしかったら、「自分でねぎらうこと」という項目だけでも読んでもらえたら、幸いです。

ねぎらいの力

 一つ喜ばしいのは、介護者の重荷感が、家族のねぎらいによって実際に低減することです。(中略)近くや遠くの親戚が、現場の介護者に「ありがとう」と声をかけるのが最優先事項だと気づいてくれないものだろうかと、私はよく思います。

 取り上げるのが、また、この本になってしまいますが、今回も有効だと思いましたので、引用します。

 1980年代から、認知症介護を、長く調査・研究している研究者が、「ありがとう」という言葉が「重荷感」を「実際に低減する」と書いているので、本当だと思いますが、それは、介護の現場を知っている方でしたら、誰もが実感していることだとも考えられます。

 ただ、この研究者は、アメリカでのことを書いているので、「ありがとう」の意味合いが、日本とは微妙に違ってくると思います。そのまま「ありがとう」という言葉をかけることが、重荷感を低減する可能性も高いのですが、介護の現場で使うのであれば、日本の場合は、個人的には「ねぎらう」という行為に近いのではないかとも思います。

 私は、今の心理士の仕事を始めてからは、まだ7年くらいですし、仕事の量もそんなに多くないので、キャリアを積んでいるとは言い難いのですが、それでも、支援の現場にいると「ねぎらう」という言葉には、日常的に接することが多くなりました。

 確かに家族介護者に対して「ねぎらう」ことは大事ですし、的確な「ねぎらい」がされた時には、本当に負担感が減るのは間違いないと思います。

どうして本当に「ねぎらう」のは難しいのか

 ただ、介護の現場で働かれている方々でしたら、同意していただけると思うのですが、本当に「ねぎらう」ことは、かなり難しいことのはずです。

 個人的で、しかも自分自身は屈折気味の性格をしているので一般的ではないのですが、私が仕事もやめ、ただ介護をしている家族介護者の時に、とても的確に「ねぎらわれた」と思い、感謝するような気持ちになったことは、残念ながら、それほど多くはありませんでした。だけど、それは、自分が心理士として、生意気にも支援をする側の仕事を始めてから、心に届くような「ねぎらい」は本当に難しいことだと、少し分かるようにもなりました。

 どうして本当に「ねぎらう」のが難しいのか?を考えると、理由は主に3つほどあるのではないでしょうか。

 1つ目は、「ねぎらいの言葉」の少なさだと思います。
 つい、「本当に大変ですね」などと言っていまいがちなのですが、それだけだと、状況に対しては、粗い感じがすることも多いような気がします。「ご苦労様」だと失礼ですし、「お疲れ様です」だと、同僚にかける言葉のようで、使い方が難しいように思います。

 これまでの文化的な背景を考えると、「上の者が下の人間をねぎらう」といった状況での言葉が多いように思いますので、対等、もしくは、どちらかといえば立場が上の人に対して敬意を持ってねぎらう、という言葉自体が、(自分自身が無知な可能性もありますが)もともと少ないので、それで的確な「ねぎらい」が難しいのかもしれません。

 2つ目は、共感することの難しさがあると思います。
 どんなことでも同じでしょうが、その人の大変さは、その人にしか本当の意味では分かりません。それでも、同じ言葉であっても、届く時と届かない時があります。それは、やや精神論になりますが、やはり、共感をベースにすれば、伝わりやすいのだと思います。ただ、たとえば家族介護という、経験していないと分かりにくい大変さがあることの場合、それが難しくなりがちなので、ねぎらいにくくなるのかもしれません。

 3つ目は、「ねぎらいの言葉」が、声をかける側のための言葉になっている場合があるから、だと思います。

 これは、もちろんすべての人にあてはまるわけではありません。だけど、人が大変な時に、その辛さから発せられる言葉や気配を受け止め続けるのがシンドくなり、それをなんとか変えたい。今の状況から脱して欲しい、といった「こちら側」の願いが秘かに優先されている「大変ですね」という「ねぎらい」は、やはり、届きにくいのではないでしょうか。


理解しようとすること

 的確に「ねぎらう」には、まず、その大変さに「共感」することが必要ですが、それ自体が難しく、時には苦難の最中にいる当事者自身が、その大変さがどういうことなのかを「理解」していないことも少なくないと思います。

 そうであれば、その気持ちに対して「共感」するよりも、その大変な状況が、どうして大変なのかを完全に「理解」できないとしても、まず「理解しようとすること」から、「ねぎらい」が始まるような気がします。

 逆にいえば、「的を射る的確なねぎらい」はとても難しいので、まずは「理解しようとすること」が、そして、その試行錯誤の過程で向けられる言動が、家族介護者の負担感を軽減する可能性がありそうです。

 (せんえつですが、「家族介護者の気持ち」(リンクあり)も、できたら参考にしていただければ、と思います)。

 さらに「ねぎらい」だけでなく、もしも介護の専門家であれば、家族介護者の介護方法に、素晴らしい点があった場合には、きちんと肯定的に評価することも負担感を減らす可能性があります。

 家族介護者自身は、いつも「この介護でいいのだろうか?」といった不安や、どうしても、日常的には出来ていない点を指摘されることが多いので、もし介護者との信頼関係が構築されているのであれば、そうした肯定的な言葉を伝えることでも、負担感は軽減されると思います。

自分でねぎらうこと

 周囲の人からの「ねぎらい」があれば、一番いいと思います。だけど、それが期待できない場合、これもやりにくいことだとは思うのですが、今回のこの文章を読んでもらって、「ねぎらい」の大切さを、周囲の方に、改めてわかってもらう方法も、場合によっては有効かもしれません。

 ただ、そうした働きかけをすること自体の手数を考えると、おっくうになってしまうのであれば、「自分で自分をねぎらう」ことを試してもらうのは、どうでしょうか。

 こうして書いているのを読んでいるだけだと、なんだか馬鹿馬鹿しいと感じられるかもしれません。ただ、たとえば、1日介護をして、介護が続く限り、そんなに深く眠れないのかもしれませんが、疲れて眠る前に、自分に対して「今日もお疲れ様。よくがんばったよね」といった言葉を、できたら、自分に聞こえるように言ってみてもらえませんか。無理なら、心の中だけでもいいですので、試してみると、思った以上に効果があることも考えられます。

 今回は、以上です。

 この方法がフィットしない時は、他の方法も紹介(リンクあり)していますので、参考にしていただければ、ありがたく思います。



(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。読んでいただければ、うれしく思います)。


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