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『「40歳を過ぎてから、大学院に通う」ということ』⑦浪人生活

   いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「一浪」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。

 
また、今回、長い記事になってしまったので、もし受験方法に関することにご興味がある方は「ポッドキャストと放送大学」の項目だけでも読んでいただければ、と思っています)。


大学院で学ぼうと思った理由

 元々、私は家族介護者でした。

 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。

 私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。

「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由

 
 それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。

 同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この10年間感じてきました。

 もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士公認心理師を目指したい。さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。

 この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。

 よろしくお願いいたします。


一浪

 10代の高校3年生の時に大学受験をして、不合格になり、それでも幸いにも「浪人生活」を送り、もう一度チャレンジできた経験がありました。そのときは、予備校の選抜試験にまでいくつか落ちて、予備校も第3志望に通っていたのですが、翌年には合格できたので、なんとか「一浪」で済みました。

 そのときは、どこにも所属していない感覚を初めて味わったのですが、それでも、誰かに、今何をやっているの?と問われれば、「浪人生です。いま、予備校に通っています」と答えれば、そこで納得してくれていました。

 30代で、仕事もやめ、介護に専念せざるを得ない生活になり、10年ほど経ってから、家族介護者にこそ心理的支援が必要と思い、自分自身でもその支援に関わろうと思いました。そのために、臨床心理士の資格を取ろうとして、心理学の勉強を始め、臨床心理学系の大学院を受験して、不合格になりました。

 ただ、それは外から見たら、介護に専念している中年男性が、何かしている、ということでしかなく、しかも、時間的にも金銭的にも余裕がないので、大学院受験のための予備校に通わず、ただ家で介護をしながら、独学を続けていたので、何も変わらないように見えたと思います。

 2009年の冬に、一回、大学院の受験をして、周囲には、当然ながら自分よりも若い受験生がたくさんいて、そして、受験が終わって、不合格になりましたが、合格する気が全くしていませんでした。

 金銭的にも、いつまでもこのチャレンジはできませんし、あと何年、これが続けられるのだろう、と細かい計算もしようと思いながらも、それを考えるだけで憂うつになり、重い気持ちにもなりました。

 もう無理そうだから、やめることもできました。昔、「一浪」をして通っていた大学の学部は法学部ですから、冷静に考えると、合格の確率の低さを、改めて確認できたような気がしました。

 それでも、介護生活も続いていましたし、妻とも相談しながら、まずはもう1回は受験しようと思っていました。学力が上がる気もしませんでしたが、なぜか、やめようと思わなかったのは、心理学を学んだりするのが、介護を続けながらでも、楽しく思える瞬間があったからだと思います。

 それでも、不安の方が圧倒的に大きく、介護をどこまで続けるのか分かりませんが、終わった後に、本当に悲惨なほどボロボロになっている姿だけはイメージできました。

三回忌

 2009年の5月には、「通い介護」を続けて、病院で亡くなった母親の3回忌がありました。特に宗教を信じているわけではありませんが、それでも、葬式などの儀式はおこないましたし、戒名などをお願いして、お墓にも入れてもらっています。

 ささやかに三回忌はおこなったのですが、これまでは、義母の介護を続けながらも、母親への介護の後悔はずっと大きくありました。いろいろな事情で、義母は在宅で、母親は「通い介護」でみていくしかありませんでした。

 それに関して、どうしようもないのに、後悔はあったのですが、不思議なことに「三回忌」を終えた時に、介護を始めてから10年が経つのですが、気持ち的には、初めて未来のことを少しだけ考えられるようになりました。

 最初の受験が2月に終わり、不合格で、また勉強は始めていたのですが、改めて、これから、受験勉強もちゃんとしないと、と思えました。

 介護もありますが、そのすき間の時間に、いろいろな事をゆっくりでも丁寧に進んでいこう、とも思っていました。

「三回忌」を終えて、また再スタートな気持ちになれるのは、40代後半の人間としたら、実は有り難いことなのでもあると気がつきました。

 未来は、ある意味でまっくらな事は変わりませんが、やたらと不安になる事は少なくなったように感じていました。

取材

 この年には、家族介護者として、妻と義母と一緒に、取材に協力をしました。その時に、その取材者だけではなく、新聞などでコメントを載せている「介護者をケアする」専門家の言動を間接的に聞くことで、とてもがっかりし、怒りを覚えたことがありました。

 それは、言葉は強いかもしれませんが、「介護者差別」といってもいいような姿勢に思えたからです。家族介護者が、ふとしたときに軽い絶望と共につぶやく「介護しないと、わからない」という言葉さえ「逆差別」と表現されていることを知りました。

 それは、つまり普段が、家族介護者への、もしかしたら無意識の「差別」があるのを示す言葉でしたし、その介護者支援の団体の責任者の言動には、仕事と介護の両立以外は認めないような思考が見えました。

 そのおかしさを、色々と話したつもりでしたが、でも、伝わりませんでした。そうしたやりとりが、ふと思い出され、そのたびに反射的に怒りが出てきてしまい、それも負担になっていました。

 あとになって、取材を受けなければよかった、などとも思いましたが、その時は、介護者の理解に少しでも結びつけば、という気持ちもありました。でも、その取材を受けた文章も、伝えたいことが伝わっていないように思いました。

 このことも、自分が臨床心理士になり、支援に関わらなければ、という気持ちにつながっていたと思います。それで、「浪人」しても、また大学院受験をしよう、という気持ちにも、つながっていたとは思います。

布団

 妻と一緒に義母の在宅介護に専念するようになって、2年が過ぎようとしていました。介護をしなくてはいけない人が、2人から1人になって、もしかしたら少し楽になるかも、とも思っていましたが、ちょうど、その頃から義母も、さらに少しずつ下り坂を下がっていくような症状で、だんだん負担が増えていました。

 私は、夜中にトイレを連れて行き、そのために午前3時や4時に寝る毎日でした。そのすき間の時間に勉強を続けていました。

 そんな日々の、日常的な細かな行き違いや、その負担感は、そこで関わらないと分かりにくいことかもしれません。


 5月に入って、こんなことがありました。

 気温が低めの日がありました。そういう時に、義母に対して、何度言っても、すぐに布団もかけず、着せた上着も脱いで、それで鼻水をたらしているのに、上着をまた着ようともしないで、ただひたすら鼻水だけをかんでいます。

 そのたびに「体は冷えている証拠です。暑いと思っているのは気持ちだけです。まずは、上着を着てください」と、耳は聞こえなくなっているので、筆記ボードに書いて伝え続けていました。

 義母は、「分かりました。気をつけます」と答えてくれるものの、今日もそんなやりとりが何回かあったあと、見にいったら、またパジャマだけで、何もかけずに鼻水を出していました。 

 怒ったら「なによ。5月よ」と返ってきます。

 ただ、怒ってもまったく聞こえないから、筆記ボードに書いて伝えるしかなく、こういうときは、義母は、目をつぶったりもします。

 「何度言っても、どうして約束やぶるんですか」。そんなふうに伝えても、「イライラするのもわかるけど」みたいなことを言われて、これは、外から見たら、とてもささいなことに見えるのでしょうけれど、何だかすごく頭に来てしまい、こういう時に、さらに何かがあると、虐待してしまうんだ、と感じました。

 そんなことがあると、自分が受験のために勉強していることさえ、ネガティブに見えてきてしまいます。

 介護をしている中年の何もない人間が、誰にも頼まれていないのに受験する、といって勉強したりしてる姿って、なんだかこっけいなんだろうな、とも思いました。ただ、それでいい結果が出た瞬間、評価って変わるかもしれませんが、そうなってもやっぱりこっけいなのかもしれません。

 その一方で、気持ちは揺れます。

 こういう日々の時にちゃんとやっておこうと思う。毎日、やった事以外の事は出来ない、という単純な事だし、それに、心理学の勉強をしていると、この40代から50代くらいに、自分の人生を振り返る時期らしいのだけど、30代で介護生活に専念をして、振り返る事が出来るほどの事を、何もしていないから、ある意味では、何もない中年男性は、こっけいというより、気持ちが悪いかもしれない、とまで思えてしまいました。

妻の気持ち

 6月に入った頃、けっこう勉強に集中できるようになった気がしてきて、それも、あれだけ嫌だった英文を読むのが、それほど苦痛ではなくなってきたのは、再び、英文法の教科書を読み始めたせいだろうか、とは思いましたが、それでも学力が上がった気はしませんし、この1年で何をやっていたのだろう、という気持ちになったりもしました。

 介護はずっと続いています。

 夜、あまり関係ない話をしている時に、妻が「9月もショートステイをとりたい」と言いました。今は、2ヶ月に1度程度のペースですが、1ヶ月に1度くらいは、そういう時を持たないと、自分の母親にあたってしまう気がするから、ということでした。

 昨日、おとといと私が出かけた時に、妻が一人で義母を見ている時にかなり煮詰まったようです。おかえし、と言って義母が、妻のことを、そっとこつんと叩いた、という出来事もあったようで、妻の気持ちを考えました。

 晴れないというより、ずっと曇っているのではないか。もう10年、同居していて、その間に8年間、私の母の介護もありました。今は、動けなくて、耳が聞こえなくなった義母をずっと介護をしていて、おそらく本人が思っている以上に、重いストレスがあって、それが蓄積する一方で、でも、義母にあたってしまう事に悩んでいます。

 専門家で、「介護依存」などという言葉を使う人がいるのを知ったのが、今年、取材を受けてからですが、もし、今の状況に、そんな言葉を投げつけるような人がいたら、何も知らないのに、と本当に怒ってしまうと思います。ただの侮辱でしかないからです。

 改めて、妻は本当に大変だと思いました。そういえば、ここのところ、インフルエンザの影響もありますが、ほとんど外出もしていません。

 このままでは、本当に煮詰まってしまいそうなので、9月か10月くらいに平日でショートステイをとれたら、旅行へ行かない?と言ってみました。妻の表情が少しゆるみました。

 介護を始めて、もう10年がたち、とれない疲労がずっと体や気持ちの中につもっていて、だけど、義母が生きている限りは、続けなくてはいけなくて、それを達成したからといって何があるわけでもありません。終わりは義母が亡くなる時だから、喪失感がひどいのではないか、と思いました。

 こういう日々の繰り返しで、そして、私は大学院に行くという目標がありますが、もし入学して通うようになったら、妻の負担が増えて、大変だという気持ちにもなりました。

ふたが開く

 さらに、少し時間が経った、6月下旬のことです。

 朝というか昼にまゆげを描いている義母に、「忙しくて悪いんだけど」という前置きで、「消毒を買ってきてほしい」とちょっとしかめっつらで言われました。

「何の事ですか?」と筆記ボードで聞くと、「家のすきまにネコが死んでいて気持ちが悪いから河川敷へ持っていってほしい。毒ネズミにでもあたったのかねえ」などと言うので、何の事か分からず、何度か尋ねたのですが、とにかく「見たから」と繰り返すだけでした。

 フタがあいた、と感じていました。

 部屋の中にずっといる義母は、「もう一人で歩けないのに、どうして家の間を見ることが出来たんですか?」と聞くと「ツエか車イスで動いたのかしら」というので、普段、立ち上がる時も、こちらが介助しているという気持ちもあるので、「動けるわけがないでしょ」と怒ってしまいました。

 妻がツエや車イスを使っていないことを確認してくれたのですが、だけど、「わたしは見た」の一点張りで、「この部屋から見えるわけがない」と言っているのに、「そういう事にしておきましょう」と自信たっぷりに言いはり、この訳の分からない自信が、恐く感じました。
 
 母が、生きている時、症状が悪くなる前の空気にすごく似ていたからです。

暗い光景 

 ああ、また邪魔されるんだ、と思いました。

 症状が悪くなってきたら、進むのは早いので、歩けないと言っても、認知症になったら四つんばいで動き回るのだろう。そうしたら、妻一人ではとても無理で、だけど、施設に入ってもらうのだって、今の状態だと3年待ちは軽くかかるだろう。

 そうなったら、2人でみないと、妻が先に死んでしまう。もし、先に妻が亡くなってしまったら、私は義母を殺してしまうかもしれません。何の希望もなくなるのですから。

 そんな真っ暗な光景があっという間に気持ちの中にけっこうくっきりとした画像で広がり、そういえば、この2年間はラクしてた、と自分で思いました。そうなったら、もう学校は無理、という話を、その日に妻としました。

 まだ状況が分からないから、早いかもしれないけれど、そういう覚悟はしていないと、やっていけないとも思いました。勉強は続けるけれど、次に学校を受けるのは義母が亡くなってからになるかもしれません。

 もし認知症が進むのだったら、そうなるはずです。確実に、自分も妻も、その間に歳をとっていくのに、そうやって認知症になったら、こちらの命が削られていくようなことになりそうです。

 まだ、底があるんだ、と思いました。

 今日はケアマネージャーが来てくれる日で、認知症の事をたずねたら、行こうと思っている病院は機械は立派だけど、その後のフォローはない、ということと、往診に来てくれる病院があると聞き、それはいい事を聞いた、と思いました。

 何しろ、一度、病院に連れていき、本当に脳の状態がどの程度で、認知症の可能性がどれくらいあるかを確認し、そこから始めないといけないけど、でも、確かにふたは開いた気がしました。

 まだ、落ちるんだ、とすごく疲労感が大きくなり、嫌になりました。さらに、自分の命を削られるようなことが続くのか、と思ってしまいました。

 しばらくそういうことがなかったのですが、それから何週間かあと、また義母が同じことを言うので、買い物に行く時に、ネコの死体があるかどうかを確認したいと主張するので、壁をつたって、少し歩いてもらったこともありました。それでも、すぐに動けなくなり、おぶって、車イスに戻ったりもしました。

 それでも、その後は、そうした妄想のようなことを言わなくなって、普段は落ち着いているので、日々の介護をする中で、病院に行くことが、なかなか遠いままでした。

ポッドキャストと放送大学

 7月の下旬のある日。夜中に「ポッドキャスト 心理学」で検索したら、今、勉強している参考書の講師が、講義している内容を配信していることを知りました。

 これで、食事の後、皿洗いしながら、とか、洗濯ものを干しながら、とか、そういう時間に聞きながら出来るようになると思いました。さらに、放送大学も録音できれば、それはそれでプラスにはなるから、やはり、何かをしながら聞けるかもしれない、とも考えました。

 翌日、ダウンロードしておいた東大の講義を聞きながら、皿を洗いました。義母の動きを気にしつつなので、両耳にあるイヤホンの片方だけをつけて、妻から小さい肩掛けのポーチのようなバッグを借りて、それを背中にかけて、片方のイヤホンをTシャツの首のところから入れてはさんだら安定しました。

 それから風呂も洗って、洗濯物を干して、いつもと全く変わらないのに、なんだかちょっと充実した時間で、臨床心理学の現在とはいえ、教養課程の感じでしたが、でも、なんだか新鮮で、何より今使っている参考書を書いている人で、その人が現場の感覚があるような感じがして、何だか勝手な感覚なのですが、少しホッとしました。

 義母のトイレ介助の時もイヤホンをつけていて、そして、まだ講義の途中だったので続きを聞こうと思ったら、それはいっしょにムービーというか動画もついているのを知り、家事が終わってから、今度はコンピューターで続きを見ました。よく出来ていました。

 なんだか、知識が、ちょっと充実したような気がしたのですが、かといって、しばらくたつとけっこう内容を忘れてしまいます。ただ、でも憶えるだけ、というより、なんだかこの繰り返しで幅が出来るような気はしていました。

 とにかく、出来るだけ勉強しようと思いました。

 夜に聞いた講義で、大学は暗記ではなく、もっと考えることを身につけてください、という言葉も聞いて、やっぱり今までのとにかく憶えたらいいや、的な考えは違っていたから、こうやって人がしゃべっているのを聞いた方がいいんだ、的な事も思いました。

 こうして音声の再生については、昔と比べると、今はすごく安い金額でこうした勉強も出来るのだから、それはやっぱりありがたいことでした。

 人によっては、読んで見て覚えるのが得意なタイプと、耳で言葉を聞いた方が覚えやすいタイプがいるのも知って、どうやら、自分は後者かもしれないと、「一浪」している時に、やっと分かったような気がしました。

 その後、ポッドキャストは、他の大学などの講義もあるのに気がつき、さらに、CD MDラジカセも購入し、放送大学を予約録音をして、いろいろな講義を聞きました。講義の声を聞きながら、その先生の人となりを想像したりしていました。

 時々、講義によっては、テキストも買ったりして、読んで覚えようともしました。「一浪」をして、あとで考えたら、ポッドキャストや放送大学で聞いて勉強したことは、思った以上に、受験にはプラスだったように思います。

(ただ、現在は、放送大学の聴取方法は、10年前とは変わっている可能性がありますので、詳細は確認してもらえたら、ありがたく思います)。

アートと公開講座

 もしかしたら、本当の意味では正確な理解ではないのかもしれませんが、臨床心理学は、科学でありアートでもある、といった言葉をどこかで読んで、かなり本気にしていたのと、それで、動機づけになっていた部分もあります。

 30代の半ば、介護に専念する少し前から、急にアート、それも現代美術や、現代アートと呼ばれる作品が好きになり、介護をしている時にも、その興味が続き、美術館やギャラリーなどでアートに触れることで、気持ちが完全に落ち込む前に支えられるようになりました。

 そして、この年は、村上隆という今は世界的になったアーティストが経営するギャラリーで、「GEISAI大学」というプログラムがあって、それは、もちろんアートを軸にしているのですが、批評家や、アパレルのデザイナーや、幅広い人が、かなり本気で講義をすると言うので、申し込み、通いました。

 それが、直接、受験に役に立ったかというと、はっきりとは分かりませんが、かなり楽しく、集中し、そして毎回、自分がどれだけ知らないかを分かったので、知識の幅がついたように思います。

 そうした好奇心をきちんと刺激してくれるようなことに触れることも、こじつければ、大学院受験では必ず出題される「論文」には、はっきりとした形として影響しているかどうかは分かりませんが、プラスになっている可能性はあります。


 さらには、受験する大学ではなくても、心理学などの公開講座にも参加しました。

 そのころの参加者には、学生らしき若い人やせいぜい20代くらいが多く、それから、定年後というような人が意外といました。やっぱり、40代から50代くらいの人間はすごく少なそうで、模擬試験の時と人口分布が似ている気がするけど、この世代は働き盛り、という事だから、そういう時間そのものがないのだろう、と思いました。

 それでも、こうした講座も、目の前で人が話をしているのを聞く、と言うのは記憶への残り方が強いように思いました。

模擬試験

 夏の模擬試験は、友人と会うことを優先させたので、その次は、9月になってしまいました。

 大学院受験のための勉強方法は試行錯誤はありましたが、全て独学で、そのせいなのか、模擬試験は、何度受けても、英語と臨床心理学の2科目では、1度だけ英語でBをとったはずでしたが、あとは、いい時で、C判定。個人的な平均ではD判定でした。もっとも低いのがE判定です。

 これでは、まず合格することができませんし、独学では限界があるのかもしれませんが、それでも、模擬試験以外には、自分の学力の伸長状況がどうなっているかの目安がありません。

 だから、模擬試験を受けて、間違えたところを勉強する、という繰り返しをしていました。

 もちろん、介護は変わらず、続けていますから、就寝時刻は午前4時過ぎになっていて、だから、模擬試験を受ける時も、なるべくショートステイを利用して、睡眠時間を確保する工夫はしていました。

 模擬試験の日は、壁際の柱の陰の冷房の風が直接あたらない場所に座りました。まだ気温も高い日です。汗が冷えると体調を崩して、ひどい事になることと、去年の暮れにも、ここで模擬試験を受けたので、空調のことは少し把握できていました。冬は、ドアを開けると、外の風が直接入ってくるような教室だったのを思い出しました。

 今日は、うしろの方の席で中年女性と、やせてメガネをかけた同年代の女性が、立教の受験について、内部事情に詳しいような「受験トーク」をけっこう大きい声で続けていました。
 そのうちに、模擬試験で辞書は使っていいのか?と係の人に聞いていて、ダメだと言われると、社会人入試では認められていたのに、みたいな言葉をつないでいました。こういう人達がカウンセラーになったら、嫌かもしれないと、自分のことは棚にあげて、思っていました。

 教室の左側の最前列近くに、ほとんど白髪の、70をこえているかもしれない女性が座っています。ここまで去年からの模擬試験が何回かと、受験が1回の経験しかないのですが、その中では最高齢かもしれません。模擬試験に関する書類を書く時からマメに質問をしていました。

 午前中の英語の試験が終わると、自分が単語を知らないのを改めて思い知らされ、これから暗記できるかどうか、と年齢も高いのに、より重い不安が来ます。

 午後3時30分に模擬試験は終わりました。薄く眠い感じはずっとあったのですが、力は出せた、と思います。そして、少しは出来ているかと思ったのですが、解答と解説を手に取ると、『知らないことが多すぎる』と、頭の中で妙なメロディーと共に、思いました。

 英語も臨床心理学も、50点くらいはとれるかという感触でしたが、解答を見て、時間がたつと、30点くらいかも、に予想が下がっていました。

 なんだか最近、スカッとすることや、嬉しい、と思うことがないように感じていることを改めて気がつきましたが、仕事をして世の中に必要とされていると思えないと、その時は来ないのでしょう。そう考えると、受験の時に、このレベルでは資格を取れる時も来ないのではないか、と少し悲しくなりました。

 帰りの電車の中で解答を読み、心理学の試験では、直前に見ていたアレキシサイミアが出たのに、その命名者が、自分でもどうしてあんな名前を書いたか分らないような、全く違う名前を書いていたのが分り、微妙にまた暗くなります。

 固有名詞が、もう憶えられないかもしれない。憶えていた名前は、どこかに突っかかって出てこないことが増えたし、目は前よりも衰えてきたし、とネガティブな思いばかりが回りました。

模擬試験の結果

 予備校の模擬試験の結果が、何週間かあとに、届きました。

 結果は、悪かったです。AからEまでの判定があって、また、Dでした。2割から4割くらいの合格率で、それはほぼ無理という事でもあるのだろうし、なんだか、がっかりします。

 それに、「OK 越智君」などという言葉から始まる採点者の添削の文章が、何だか嫌な気持ちにもなりましたが、それよりも、今回は本格的に勉強を始めて2年以上が経ち、もうちょっと出来たと思っていたのに、またD判定で、これだと、何年経っても、いつになっても受からないんじゃないか?と嫌な予感がふくらむ一方でした。

 それでも総評を見たら、その模擬試験の心理学のところは、同じような傾向で間違えている人が多いのを知り、そのおかげで、採点者が、イライラしたような言葉が並べてあったのか、と思い、そんなことでも、少し気持ちが穏やかになり、その自分の気持ちの変化が嫌になりました。

 今回の成績次第では、11月の大学院の試験を受けようと思い、そのためにショートステイも連休がからんだ、予約するには難しい週をとってもらって、そこで受けようと思っていたのですが、この成績では無理だと思い、その受験の中止はすぐに決めました。

 自分では、次の受験もベストはつくすけど、その次、つまり2011年から学生になる予定を勝手に作っていましたが、それすら無理ではないか、という気持ちになっていました。先は、より見えなくなっていました。

旅行と検査入院

 9月には、何事もなく、金沢へ妻と旅行に行けました。

 もちろん、義母にはショートステイに入ってもらいました。2泊3日で、主な行き先は「金沢21世紀美術館」でしたが、ほぼ1日中、ゆっくりと見ることができて、本当に楽しい時でした。

 行ってよかった。妻の、本当に煮詰まっていく気持ちは、少しは楽になったと思いたいです。


 10月には、義母が大腸の検査のために入院しました。

 下剤を大量に飲むのが辛そうで、確か、5年ほど前にも同じ検査を受けるときに、同じように苦しそうで、だから、もう2度と受けない、と言っていたのに、今回は、自分で、積極的に受けると言っていたから、感心もしていたのですが、どうやら、前回のことをすっかり忘れていたようでした。

 本人は大変でもあったのですが、検査の結果で、小さめのポリープをとり、だけど、胃や腸の粘膜は年齢より若いです。実年齢よりも20歳くらい若く、おそらく70代くらいでは、ということを医師に言われ、まずはホッとしました。

 それでも、家では真夜中の介護も続き、そのすき間に勉強も続け、ポッドキャストや放送大学の講義を繰り返し、何度も聞き続け、季節は過ぎていきました。

 模擬試験の結果が良くなることもなかったのですが、それよりも不安になることがありました。

 それはもちろん、義母の状態でした。

病院と模擬試験の評価

 それまで時々、ゾワっとするような言動があったものの、秋以降は比較的、落ち着いていた義母の症状が、冬になって、明らかに変わった時がありました。

 天井から、風のささやきが聞こえる。

 そんなことを義母が真面目な顔をして言うようになりました。

 表現としては美しいのですが、耳が遠くなり、障害者手帳も申請した義母が、天井の音が聞こえるわけはありません。見えないはずの、ネコの死体のことを語っているときよりは、その言葉を聞いた時の恐怖感は少なかったのですが、もし、幻聴だとしたら、それは、明らかに何かしらの精神症状の始まりになる可能性が高くなるようです。臨床心理学を学び始めていたので、以前よりも、少し詳しくなり、それだけに、より怖くなりました。

 それで、ずっと行くのをためらっていたのですが、認知症の専門医が、実は隣町にいることを知り、そのクリニックに行くことを、妻と相談をして決めました。

 結果によっては、今年の受験を諦める。もしかしたら、ここまで勉強はしてきたけれど、義母が認知症だったら、ずっと家を出られず、二人で介護を続けるしかない時間が長くなり、大学院入学そのものを諦めなくてはいけなくなることまで、密かに覚悟して、義母を車イスに乗せて、クリニックに出かけました。

 思ったより若く、だけど、親切で丁寧な医師でした。それだけでありがたかったのですが、口頭での検査や、MRIなどを使った脳の状態の確認もしてもらいました。

 緊張感のある時間でした。

 医師が、少し笑顔で伝えてくれたのは、年齢相応の脳の萎縮などはありますが、認知症ではない、ということでした。90代になっているのに、その状態を保ってくれているのは、とてもありがたく、すごくホッとしていて、これで、受験できると思っていました。


 同じ冬の頃に、受験前の最後の模擬試験を受けて、その結果が、C判定だったと思います。どちらにしても、A判定やB判定など、合格可能性がある範囲に、自分の学力がないのは分かりました。

 その模擬試験の全体講評の中に、これから大学院を受験しても、C判定以下の受験生には、残念ながら可能性はほぼありません。といった文章があって、自分でも納得ができましたが、ただ、その講評の最後の方に、まるで保険をかけるように、ただまれに、C判定でも合格する人がいます、という文章があったのは覚えています。

 それで楽観的になった、というよりは、義母が検査を受けて、今のところは、認知症ではなく、だから、妻には負担が増えて申し訳ないとしても、合格したら大学院に通うことができる。場合によっては、受験そのものを諦める可能性もあったのですから、学力が低く、合格可能性が限りなく0%に近いとしても、あの、自分のことだけを考えればいい受験の時間をまた体験できるだけでも、やっぱり嬉しかったのだと思います。

 受験は、もうすぐでした。

 浪人生活の1年が過ぎようとしていましたが、恥ずかしながら、勉強をものすごくした、という実感は全く持てないまま、入試の日が迫ってきていました。


(次回は、⑧「2度目の大学院入試」の予定です)



(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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