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『「介護時間」の光景』(142)「黄色」。1.30.

 いつも読んでいただいている方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

(いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、「2002年1月30日」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年1月30日」のことです。終盤に、今日、「2023年1月30日」のことを書いています。


(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)


2002年の頃


 とても個人的なことですが、1999年から母親の介護を始めて、その途中で、私自身も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり2000年の夏には母親に入院してもらいました。

 私は、毎日のように2時間ほどかけて、母の病室へ通っていました。帰ってきてから義母の介護をする日々でした。ただ、それだけを続けていました。

 自分が、母のいる病院に通っても、医学的にプラスかどうかは分かりませんでした。でも、通わなくなって、二度とコミュニケーションが取れなくなったままになったら、と思うと、怖さもあって、通い続けていました。

 この病院に来る前、別の病院の医療関係者にかなりの負担をかけられていたこともあり、やや大げさに言えば、白衣に、怖さすら感じていました。

 そういう気持ちは、新しい病院に移り、1年半経って、少しずつ病院を信頼するように変わっていたのが、この2002年の1月頃だったかもしれません。

 そのころの記録です。


2002年1月30日

『電車に乗って、午後4時30分頃に病院に着く。

 病室に母がいなくて、しばらく待っていたら、母が戻ってきた。

お琴の演奏が、良かったわ」

 1階で、荒城の月とか、かまくらとか聞いてきて、良かったわ、と喜んでいて、うれしそうで、しばらくそんな話をしていた。

 伊豆のことを扱った雑誌を買って行って、それを見せたら、しばらく「おとうさんと、いろいろと行ったのよ」と昔の話になった。父が亡くなってから、6年くらいが経つ。

 病室の小さい机の上のノートには、様々なことがメモしてある。

 琴の曲名。

 それから、「ネクターいりません」の文字。

 昔は好きだったので買ってきていたのだけど、「やっぱりネクターは気持ち悪くて…」ということがわかったので、それで、次からはやめようと思う。わかって良かった。

 好きな映画 寅さん。
 オリビアニュートンジョン 女性歌手
 〇〇看護婦 笑顔がすてき。

 本当に、いろいろなことが書いてある。

 ラジオで、ルイ・アームストロングの曲が流れ、それが紹介されると、母は「酒場みたいね。まだ生きてるんでしょ?」というので「いや、もう、随分前に亡くなったんじゃないのかな」と答えると、母が「そうでしょ」と断言し、微妙にズレた会話が続く。

 午後5時15分にトイレへ。

 さっきのメモの「好きな映画 寅さん」とあったのは、指揮者の小澤征爾のことらしくて、そんな話をして、そこから話題がふくらんで、母と笑った。

 夕食にとろろ汁が出て、それをとても喜んでいた。そのせいか、いつもよりも早く25分で、夕食は食べ終わり、その後は、すぐにトイレへ行く。

 隣のトイレに行って、次は逆方向のトイレへ行って、「出ない」と言って、またトイレへ行く。あちこちに行って、そのあちこちに行ったことを忘れていて、また行こうとするから、やっぱり、変だとは思う。

 テレビで、田中角栄の娘で政治家の田中真紀子のニュースをやっていて、母は関心があるように、かなり熱心に見続けている。

 前後の脈絡がなく、「女の人だからね」と、母は突然、言った。

 午後6時48分に、またトイレへ行く。

 午後7時に病院を出る』。


黄色

 いつもの夜7時に病院を出て、暗く細い道を歩いて、県道に出る。
 道の奥の向こうに、思ったよりも近くに、とても大きな満月があった。

 この2年間。大きい満月が見える時は、いつも赤くて不吉だったのに、今日は柔らかい黄色だった。

 風はとても冷たい。

 道路を渡って、畑にはさまれた道を少し歩くと病院がある。
 そこの入り口の公衆電話で妻と話し、義母の耳からものすごく大きな耳くそがとれたと聞いて、聞こえるようになればいいのに。無理だけど。と違う考えが同時に起こる。

                        (2002年1月30日)


 この生活はそれからも続き、本当に永遠に終わらないのではないか、と感じたこともあったのだけど、2004年に母はガンになり、手術もし、一時期は落ち着いていたが、翌年に再発してしまった。そして、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」が終わった。

 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年1月30日

 昨日は、オンラインでの研修に参加した。

 臨床心理士は、5年ごとに資格の更新があって、そのためには規定に定められた研修を受けないといけない。それは、同時に専門家として、ずっと学び続けることになるので、必要だとも思っている。国家資格である公認心理師の資格も持っているが、思うところもあり、今後も、どちらの資格も持ち続けるつもりでいる。

 今は、コロナ禍で、持病のこともあるので、できたら、なるべく出かけないようにしているので、オンラインで参加できるのはありがたい。

 今回の研修は、基本的なことのようでありながら、改めて考えさせられて、新鮮な気持ちにもなった。

ボランティア

 月に1度だけ、主に家族介護者の心理的支援のための「介護相談」をボランティアとしても、続けてきた。地元には、心理職が担当するような、介護者の心理的支援を目的とした相談窓口がないので、それが開設されるまでは続けようと思っていたら、今年で、11年目になった。

 ただ、現在は、さまざまな事情により、ボランティアを休止中にさせてもらっている。

 それでも、これまで「介護相談」を継続利用してもらっていて、希望する方だけには、今もボランティアを続けている。新規の相談を希望する方には、申し訳ないのだけど、再開したら、この記事↓などでお知らせすることになると思う。

自転車

 午後から、その個別の「介護相談」のボランティアの継続利用の希望があったので、出かける。その場所まで、自転車に乗る。

 かなり寒いような気がするけれど、10分以上、乗っていると、少し体が温まってきたせいか、汗をかきそうになり、閉めていたコートのボタンをあける。


「介護相談」が終わって、また自転車で帰る頃には、夕暮れになって、雲が金色に近い感じに見えた。

 温度は下がって、寒くなっている。





(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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