ワークショップ日記⑤~『永遠』をめぐって。「永遠」と「永遠である」~
最初からわかりません
―では、コトバのワークショップ『永遠』の後半戦にまいります。
【永遠であるのは私である】
この文をめぐって、いろいろと考察を深めていきたいと思います。
〈Bさん〉 これ、この前と同じじゃないですか?
―前半戦のテーマは「私は永遠である」でした。「永遠であるのは私である」と「私は永遠である」は同じだと思いますか?
〈Bさん〉 言葉の順番が違うだけで、意味は同じじゃなくないですか?
―どうでしょう、Aさん
〈Aさん〉 主語と述語が入れ替わったけど、それがどんな違いなのかは、いまいちわかりません。
〈Cさん〉 私は、なんかこう、イメージがより広がったような…。言葉にはしにくいけど。
―前回は「私」が主語でした。今回は「永遠である」が主語になります。ちなみに「永遠」が主語では、ないんですね。あくまでも「永遠である」が主語になります。
〈Aさん〉 それって、なにか違いがあるんですか?
―それをじっくりとかんがえてみたいのが、この後半戦です。
じつは、この「永遠」についてのワークショップをするにあたり、当初想定した文は「永遠であるのは私である」だったんですね。でもぼくたちは日常的に「私は」など、人や、「このお茶は」とか、あるいは「栃木県は」とか、名詞を主語にすることに慣れている。
すると最初から「永遠である」というような、名詞以外の言葉を主語にしてしまうと混乱を起こしやすい。まず前半戦として「私は」を主語とした、「私は永遠である」というわかりやすい文から試みようと思ったんです。
〈Aさん〉 おしゃっていることは何となくわかるんだけど、だから何なのかがわからない。
〈Bさん〉 「私は永遠である」の反対は「永遠は私である」。でもあえて主語を「永遠」としないで、「永遠である」にしたということですよね。
〈Aさん〉 それはわかるんだけど、だからそれの何が違うの、というところがわからない。
―Cさんは、どうですか?
〈Cさん〉 主語を「私」とか「永遠」とか名詞すると、なんかカチッとした雰囲気になるけど、「~である」とすると、なにか言葉の感覚がふわーってするような気がします。いま言えるのは、これくらいかな。
主語って、難しい
―そろそろ最初の設問に入ってみましょう。
【「永遠」と「永遠である」の違いを思い浮かべてみよう】
いかがですか。
〈Aさん〉 こういうの、ホント苦手(笑)。イメージとか。
―ではBさんからお願いします。
〈Bさん〉 私の感じだと、「永遠」よりも「永遠である」というほうが、なにか「である」と断定している分、強い感じがするんです。言い切っている感じがします。
―なるほどね。ではAさん
〈Aさん〉 「永遠である」とすると、その状態や状況が持続している感じがします。「永遠」だと、そういう何かが持続しているという印象は受けませんね。
―「永遠である」とすると、つまり時間の要素が入ってくるということ?
〈Aさん〉 あ、そうですね。
―でも「永遠」って、本来、無時間的な存在ですよね。無時間的存在である「永遠」に、「である」がつくと、そこに時間的な制約が入る。無時間的存在に対する時間的制約。西田じゃないけど、早くも絶対的矛盾の出現ですね。
〈Aさん〉 最初からあまり難しいことは言わないでください(笑)。
―では、Cさん、お願いします。
〈Cさん〉 私はBさんとは、ちょっと反対な感じかな…。「永遠である」のほうが包み込んでいくような、包容力があるような感じがあります。
―包容力? この前話題になったヤスパースの包括者みたいな感じ?
〈Cさん〉 ええ、そんな感じかもしれません。ただ…、なんていうのかな、主語が名詞という言い方が、ちょっと私は苦手な感じがもともとあったんですよね。
―もう少しお願いします。
〈Cさん〉 よく学校とかで、人とちゃんと話すときは、私を主語にしてしっかり話しなさいとか、言われませんでした? あれがすごく苦手だったんです。だって私を主語にして何かを言おうとすると、私って本当にそんなこと思っていたかなとか、疑問を持ってしまって、それで何も話せなくなってしまうんです。
〈Bさん〉 それ、わかります。何が好きですか、と尋ねられたとき、私は○○が好きですって、改めて「私」をつけると、なにかすごく窮屈になって、答えづらくなります。
―でもよく日本語は英語とくらべて、主語が明確じゃないからダメなんだ的なことを言う人がいますよね。
〈Cさん〉 別に比較する必要はないと思いますけどね。
―Aさんは、いかがですか?
〈Aさん〉 確かに主語を私にすると、わかりやすいけど、それを言ってしまうと全部自己責任になってしまいそうな不安はあります。例えば私はこれが好きです、と言いつつも、じつあれも好きだし、そっちも好きだし…、なんてもことザラにありますからね。その辺の含みが、私を主語にしてしまうと、うまく伝えられないところはありますね。
―聞いているほうも、どっちなんだよ!って感じになりますよね。一人の「私」が主語なんだから、答えも一つにしろよ、というなんとなく暗黙の了解があるのかもしれない。
〈Aさん〉 そうそう。
「es」と「it」。そして「永遠である」こと
―ここでかんがえてみたいことがあります。
フロイトってご存じですよね。精神分析を始めた方です。教科書的な言い方をすれば、「無意識」を発見した人ということになる。この無意識とやらをフロイトは「エス(es ドイツ語。英語のitと同じ)」と呼んで、本能や欲望が渦巻くところと説明しているらしい。
でもここで疑問に思わないだろか。だったら「エス」などと呼ばないで、最初から「本能」とか「欲望」といえばいいんじゃないかと。どうしてフロイトは、無意識なるものを「エス」(それ)などという、はっきりしない言い方をしたんだろか。
〈Cさん〉 私も大学で学んだけど、そのときはそういうものかぐらいな認識だったかな。正直に言って、言っていることもいまひとつよくわからなかった(笑)。
〈Aさん〉 リビドーっていうのも、聞いたことがある。あれは、なんだったかな…。
―リビドーはこのエスに内在している欲望のエネルギーのこと。ならば無意識はリビドーですって、そのまま言ってもいいのにね。
〈Bさん〉 無意識(エス)とリビドーは別と言いたかったのかな。フロイトさんは。
―ここでもう一人、哲学者の名前を出します。
ハイデガーといって、いろいろと毀誉褒貶はあるんですが、とりあえずは20世紀最大の哲学者と言われています。彼は生涯、「存在」(在る/有ること)の意味を問い続けた人ですが、ドイツ語ができる知人によれば、ハイデガーがあえて存在を主語にして語るときはこの「es(es gibt)」を用いていたそうなんです。存在という名詞ではなくて、あえて「es」を用いていた。
〈Aさん〉 ハイデガーの「es」とフロイトの「es」は同じ意味?
―おなじ出来事/事態を見つめていたと言ってもいいんじゃないかな。
ドイツ語のesは英語のitと同じだとすれば、こんなふうにかんがえてみてはどうか。例えば“it is a fine day”は「天気のいい日ですね」となる。でも直訳すれば、「それは天気のいい日である」となる。この「それ(it)」とは、何を指し示しているのか、ということなる。
〈Aさん〉 確かに英文だと、「it」を用いた構文って多いな。
―この「it=es」はいったい何だということなんだ。そして「it=es」を主語に用いるとは、いったいどんな意味を含むことなのかということ。
〈Cさん〉 おっしゃりたいこと、なんとなくわかりかけてきました。私を主語にすれば、例えば「私は△が好きだ」となる。でも「it=es」を主語にすれば、「それが私を△を好きにさせたのだ」というニュアンスになるということですよね。
―じゃあその「それ」ってなんだろう?
〈Cさん〉 そうか。ハイデガーはそれを「存在」と言ったし、フロイトは「無意識」と言ったということなのか。日本語で「存在」とか「無意識」と言ってしまうと、まったく別次元のことを話しているように感じるけど、同じことを見つめて、それを彼らのやり方でそう理解したということか。
〈Aさん〉 私を主語にしてしまうと全部自分がやったことになってしまうけど、「それ」を主語にすることで、自分を越えた何かをかんがえることができるということかな…。
〈Bさん〉 今回は「それ」が「運命である」と言いたいんですか。なにかわかったような、わからないような…(笑)。
―次回から、いよいよ「永遠であるのは私である」という、文そのものに挑んでいきたいと思います。
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