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朝ごはんの違いなら「君の家はそうなのか」と揉めずに済む、多様性とグローバリゼーションの話

多様性への理解は世界のどこかのマイノリティのために、理解して歩み寄ることなのでしょうか。世界の広さを実感しグローバリゼーションに適応するほど、自然と多様性を理解せざるを得ないと言えます。例えば、井の中の蛙は大海を知らないのですから、イルカは哺乳類だと知る機会も無いです。

ネット社会になる前の1980年代、1990年代と比べると、多様性に対する理解は深まりました。現代もアンコンシャスバイアスなどで苦しむ方はいると察します。でも、1980年代の『うる星やつら』を思い出して下さい。現代から見て、笑えないギャグが収録されています。高橋留美子先生個人の問題ではなく、小学館の週刊サンデー編集部も、読者も、気が付かなかったのでしょう。
40年かけて世代交代し、世の中が変化した一例です。


多様性。例えば、朝食で白いご飯のおかずに目玉焼きを食べるとして、お醤油がいい人、ソースがいい人、塩コショウがいい人、ケチャップの人、何もつけない人、白米と目玉焼きは食べない人、トーストと目玉焼きとか、いろんな人がいます。それがどれが正しいとかじゃなくて、どれでもいいわけです。

世界に目を向けると、朝ご飯のメニューが全く違う文化もあります。白米は食べるけど、朝はおかゆだよとか、うちの地域は白いご飯じゃなくて麦が多いよとか、うちの地域は伝統的に蕎麦を食べているよとか、クロワッサン少し食べて、エスプレッソで済ますとか、グラノーラみたいのに果物入れて召し上がるとか。様々。


朝ごはんに何を食べるかなら、血の雨が降るような深刻な対立は少ないと思うのです。「君の家はそうなんだね」と。多様性への理解というのは、お互いが違ってもびっくりしないという意味で、どれだけグローバリゼーションに自分がついていけるか、自分がついていけるかということにもつながると思うのです。つまり、政治とか歴史など、あるいは差別に関連することと違って、朝ごはんの違いなら、それほど摩擦も起きず、よその家の話しも聞けます。


世界がすごく広いということを実感すると、「あなたはけしからん、なぜならば私と違うからだ」という形の対立が起きにくくなります。



こう考えてみると、多様性の理解が進まないことは、多様性が苦手である、多様性を理解するのがしんどいということは、もしかすると、自分の中のグローバリゼーションがうまくいっていない目安になるのかもしれませんね。​​​​​​​​​​​​​​​​そして、なぜ朝ごはんの違いなら揉めないのかも、ヒントがあると思います。

例えば、共に暮らす家族であるなら、対立も起きるかもしれませんね。


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