小説『くちびるリビドー』の続編【1-2】を(まだまだ“あなた”にも届けたいから…)☞Let's世界に解き放つ♪☺︎♡
くちびるリビドー
2
(仮)
湖
臣
か
な
た
1
満たされれば
自然と溢れ出るのだろう?
(2)
「コンニチハ~」と登場した医師は、驚くほどの猫撫で声だった。
瞬間的に「うわっ、嘘の声だ」と心が反応してしまう。おそらくは緊張を与えないための彼なりの工夫なのだろうけど、なんとも言えない心地悪さが全身を駆け抜ける。
「医院長の内村です、ヨロシクお願いしまぁす」
「お願いしまーす(小さい子どもに話すみたいですね)」
「ご説明用のですネ、お口の写真、撮らせていただきまぁす」
「はい……(ドキドキ)……」
「では日野さん。頭、後ろに付けていただいて、ちょっと上にあがりますね」
横からマツダさんの声。椅子の位置がブーーーンと高くなる。
「これから私、ちょっと引っぱるんで、お口の力は抜いてて下さい」
そう話すマツダさんの手に、口を大きく広げるための専用器具。透明で、たぶんプラスティックでできていて、唇と歯茎の間に入れて内頬肉をぐわっと開くやつ。
「お口の中の写真、撮ったことありますかぁ?」
カメラを手に、内村医師が甘ったるい声で問う(前方右側に移動した彼の姿は、小熊や子豚を思わせる。白雪姫の『七人の小人』の中にも出てきそう。おそらくは四十代後半?)。
「ないです」と答える私は、そんなにも不安そうな顔をしているのだろうか。
「じゃあ、リラックスしていただいて……緊張していると、お口に力が入ってしまって、痛かったりすることがあるんで。痛かったら言ってくださいネ~」とウッチー。
「そんな特別なことはしないんで、お口の力抜いてれば大丈夫ですよー」と明るい調子でマツダさんが言い、さっそく例の器具を私の口へと向かわせる。「では、ちょっと失礼しますね。軽くアーンとあいて、軽く閉じます。カチンと噛んで、ちょっとそのまま~」
そうか、最初は前歯の撮影か。――カシャ!
「それじゃあ次、天井ぐぅーっと向けますか? アゴ、上にぐいっと向けて。そうです、そうです、ありがとうございます」
イーっと前歯を合わせたまま、上を向いて――カシャ!
彼女のリードで、状況はリズミカルに進行していく(ふたりの役割りが反対でなくてよかった……と密かに胸を撫で下ろす。ウッチーは「ハーイ」とか「いいですヨ~」とか言いながら、シャッターボタンを押すだけだ)。
「では、お顔まっすぐに戻していただいて、今のは外して、今度はこっちを噛んでもらいます。アーンとあいて、カチンと噛んで~。お顔、左にぐっと向きまーす」
左? こうなったらもう、まな板の上の鯉。
「右に引っぱられるんですけど、左向いてて下さいね」
謎の器具で固定された唇がにゅーっと右に広げられる。……私は今、どんなことになっているのだ? ――カシャ!
「今度はお顔、右にぐいぐいぐいーっと向いて下さい」
いったん正面を向き、口の中のプラスティック(棒の付いたU字の器具のようだった)を右から左へと入れ替えられて、……了解、次は右ね。そして左に引っぱられるのね。
――カシャ!
「次、鏡入るので、お鼻でゆっくり息してて下さい。お顔また、右でーす」
鏡!? 噛み締めた口の中(さっきと同じ器具で唇をにゅっと左に引っぱられたまま)、左頬の内側に細長い鏡が挿入される。幅3~4センチくらいだろうか。先のほうが少しだけ細く、角は丸く整えられていて、ナイフのような、ヘラのような……そう、あれ。ケーキに生クリームを塗るときの、あの道具(「パレットナイフ」というらしい)を思い起こさせる。
「カチンと思いっきり噛んだままでいて下さーい」
こ、これは……唇が裂けそう! ――カシャ!
できあがった写真を見てあとからわかったのだが、このときは左サイドの歯並びの様子を鏡に映して撮影していたのだ。しかし何がどうなっているのか、《イー》の口を保ち続けるだけで精一杯の私には状況を把握できるはずもなく、いつの間にか鏡は抜かれ、頬を引っぱるU字の器具も左から右へと入れ替えられて、現実は流れるように展開していく。
「左向いて、噛んだまま~」
――カシャ!
こうして訳がわからぬうちに右サイドの歯並びもカメラに収められ、鏡も器具も取り外されて正面へと向き直り、……ふぅ。これで終わりか? なんて思ったのも束の間。再び新たな器具が挿入され、マツダさんが一言。
「今度は、おっきい鏡入るんで、お鼻でゆっくり息して下さい」
また鏡!? 慄く私の視界に飛び込んでくる、靴の中敷みたいなサイズの鏡。それを(踵……に見えるほうから)口に入れるというのか? 難易度が、どんどんどんどん高くなる。
「ぐぅーっと引っぱりますよ。思いっきり大きく、アーン……」
やばい、無理だって! 私の口、そんなに開かないって!
「力抜いて~」
いやいやいや……力入れてるつもりないし。
正面を向いたまま下顎をぐっと開き、舌の上には奥まで挿し込まれた大きな鏡。そこに映った上の歯並びを撮ろうとしているなんて知らぬまま、一刻も早くこの状態が過ぎ去るよう、必死になって口をあける。
――カシャ!
「次はアゴ、そのまま上にぐぃーっと向きまーす」
うぅ~、苦しい。上唇、裂けそうだよ。薄っぺらくて、未発達で、このサイズには対応してないんだよ……(下の歯並びを撮影するために、今度は上顎のほうに鏡が当てられ、奥歯まで見えるように深く挿し込まれたまま、私はぐっと上を向かされていた)。
「お口の力、抜いて下さーい」
そんなこと言われても……力を抜くってどういうことか、どうすれば力が抜けるのか、わからなくなってくる。
「ハイ、オッケー」と唐突にカメラマン・ウッチー。
なにはともあれ、シャッターボタンは押されたらしい。
「はい、お疲れ様でしたー」と鏡を抜き取り、器具も外して、マツダさんが言う。
……お、終わったのか?
「それでは今の状態を、少しワタシのほうで診させていただきますネ~」というウッチーの言葉の意味を推し量るよりも速く、その雰囲気から、私の脳みそは察知する――どうやら、すべての写真を撮り終えたらしい。
そして次の準備と片付けのためなのだろう、ふたりがいったんその場を離れ、私は慣れない椅子の上でへなへなと全身の力が抜けていくのを感じながら、数分ぶりに自由になった唇と顎を試合後のスポーツ選手のように労った(……つ・か・れ・たぁ~。覚悟はしてきたつもりだけど、思っていたとおり大変だった。〝思っていた以上に〟じゃなかったのは救いだな。まさか「鏡」が入るなんて驚きだったけど。とにかく、最大の難関は突破したというわけね……お疲れ、お疲れ!)。
それから内村医師は「フムフムフム……」「ハイハイハイ……」などと声に出しながら私の口の中を確認し(眉間のあたりから顎の先まで、糸のようなものを伸ばして私の顔のセンターラインを確認したりもしていた)、私は彼の指示に従ってゆっくりと口を開いたり噛み締めたりしながら「さっきのように唇やら歯茎やらを剥き出しにされたあとでは、もはや恥ずかしさなど感じない……」なんてぼんやりと、そして「それよりも、こういうときって目を閉じたらいいのか、閉じないのならどこを見ていればいいのか、困る……」などと考えながら、他人に(特に男の人に)身を預けることの心地悪さに想いを馳せていた。
こんなとき――もしも私に父親がいて、私に触れるその手から見えない愛のエネルギーをいっぱいに受け取って育つことができていたら、何かは違っていたのだろうか? そんなこと、いくら考えたところで過去は変えられないわけだけど、何か……少しでも、今を楽にするヒントはないか、そんな視点で想いを馳せる。不毛さを追いかけるのではなく、小さな光を探す気で。
なにも特別に愛に満ちていなくたっていい。普通に父親として触れてくれれば、何かは健全に育つのだろう? けど「普通」って何だ? 多くの人が描くであろう「普通の父親」がどんなものなのか、私には想像がつかない。たとえば砂漠で生きる人々の暮らしを想像するときのように、知識や情報を集めてイメージしても、そこに実感を伴わせることはできない。仕方ない。それならそれで、生きていくしかない。単純に、機会がなかっただけ。もしかしたら「異常な父親」がいるよりずっと、マシなのかもしれない。
いや、そんな話じゃなく――とにかく私は男の人がどうにも苦手で、生理的に「なんかヤダ」と感じようものなら指一本触れられたくなくて(それって意外と健全?)、しかもそんなふうに生理的嫌悪感を抱かせない男の人って実はなかなか存在しなくて、日常的に薄い関わりしか持たない相手ならまだしも、こういうときには本当……どうしたものか。
この歯科医院でいいのか、この歯医者でいいのか、これから自分の体の一部を任せることになるのだから(特に歯科矯正となると通院期間も長くなるわけだし)真剣に判断したいのに、そのつもりで来たのに、やっぱり相手が「男」となると――この変な緊張と、無駄に加算されるストレスと――たとえばマツダさんなら平気なのに――、とたんに警戒心アップしちゃうんだよな~(女医さんを探せばいいのか? でも医者の世界は圧倒的に男が多い)。
あーぁ。恒士朗が歯医者だったらいいのに。美容師も、外科医も内科医も、私が関わらなきゃならない男はみんな、恒士朗だったらいいんだ――……ばかみたいだけど、最近よく考える。恒士朗なら、安心。警戒することなく体を預けられる。どんな話も先入観なしで聞いてくれるし、とにかくやさしいんだから……(あ、でも不器用なところはちょっと心配かも?)。
「では、エプロン外してさしあげて」というのが、待ちわびた診察終了の合図だった。
どの時点で考えることを放棄してしまったのか、散らばった思考はすでに空中分解されていて、この言葉を耳にしたときの私の頭はからっぽだったと思う。それよりも口の中に残っている謎の洗浄液のあと味が気持ち悪くて、もうずっと「はやく、気の済むまでうがいしたい!」が炸裂してる。……今、何時だろう? 初診相談は約一時間で終了するらしいから、まだ30~40分くらいしか経っていないはずだけど……ものすごぉーく長く感じる。〝歯医者さん〟ってやっぱり、しんどいなぁ……。
起き上がっていく椅子の背もたれにぎこちなく体を合わせて「こういうとき恒士朗みたいな人だったら、完全に脱力して身を任せていられるのだろうな……」とか思う。過敏すぎる自分の性質に向き合わされるたび、癖のように私は、対岸に彼を思い浮かべている。
胸の上のエプロンを、慣れた手つきでマツダさんが取り外す。
「このあとは先生のお部屋で詳しい話をしていくことになるので、少々お待ち下さいね」
そう言って彼女が立ち去り、私は即座にうがい用の紙コップに手を伸ばした。
ずっと握りしめていたわけではないけれど、用意しておいた小さなタオルハンカチは手の平に安らぎの感触を与えてくれていたはずだ。その薄桃色のパイル地で口元をぬぐって、はぁーーーっと大きく息を吐き出し、時刻を確認する。
14時30分に予約して来て、現在15時9分。映画一本分にも満たないなんて、なんだか信じられない。それでも、あとは「話を聞くだけ」だ。
(つづく)
(C)Kanata Coomi
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「私がウニみたいなギザギザの丸だとしたら、恒士朗は完璧な丸。すべすべで滑らかで、ゴムボールのように柔らかくて軽いの。どんな地面の上でもポン…
“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆