見出し画像

小説『くちびるリビドー』の続編【1-1】を(ここで死んだらやっぱりまだまだ後悔するだろうから…)☞Let's世界に解き放つ♪☺︎♡



くちびるリビドー

2

(仮)











満たされれば
自然と溢れ出るのだろう?


(1)



 八重歯は、コンプレックスの一つ。

 特に上の歯並びは「致命的」とまではいかなくとも「機能性」からはほど遠い。それにこの薄っぺらい上唇も上顎も、たとえば恋人のそれらと比べると「私の口って、なんて未発達なのだろう」と繰り返し思い知らされる。そして最近、やけに思い出すのだ。

 子どもの頃、まだ全部の歯が生え替わらぬうちに、レントゲン写真を見ながら歯医者のオヤジは言った。「乳歯の奥に永久歯が待機しているのがわかりますか? こんなふうに大人の歯が生えてくるずっと前から、歯並びってもう決まってしまってるんですよ。残念ながら娘さんの歯並びについては、期待できそうにありませんねぇ」

 たぶん、このあと母は「まぁ矯正すれば整えられますから、考えておいて下さい」とかなんとか言われたのだろう。その後、歯医者の不吉な予言どおりに私の歯が生え替わっていくのを確認した彼女は、あるとき私に尋ねたらしい。「矯正する?」というその問いに、幼い私は「いい、やらない」と拒否反応を示したというが……まったく覚えていない。

「だって、歯の矯正って、お金がかかるんでしょう?」という考えが当時の私にあったかどうかは不明だが、とにかく痛そうなイメージだったのと、あんなふうに口の中に銀色の針金みたいなものを巡らせるなんて(ビジュアル的にも肉体的にも)絶対に無理、嫌だ! と感じていたことは、なんとなく記憶している。そして今でも同じように思ってしまうのだから、たとえ過去に戻れたとしても私の歯並びが改善することはないのだろう。

 そういうわけでこの象徴的な二本の八重歯は、脳内の「考えても仕方のないこと」というフォルダにぶち込まれたまま(そこには、ほかにも多くのことが投げ込まれていた)誰にも開封されることなく、長期的かつ平和的に放置され続けてきたはずだった。

 それなのに、今ではそれは「母乳にまつわるあれこれ」というフォルダの中にしれっと紛れ込んでいる。誤作動か、それとも無意識の粋な計らいなのか、過去をほじくり返そうとしているうちにこの脳みそは、パンドラの箱の中身までもを次々とふるいにかけ、分類し直し、移動させてしまったらしい。

 恋人の海外転勤が決まり、これから自分はどうするのか(たとえば「転職は?」「結婚は?」など)、ただ彼を待っているだけの日々を送るのか、いろいろと思い悩みはじめたら突然、子どもの頃に虫歯の治療で詰められた銀の欠片がパカッと取れた。

 銀歯なんてかっこ悪いし、詰め替えるならやっぱりセラミックとかかなぁ……なんて考えながら、最新の歯科情報に触れるべくインターネットを漁っていたら、出会ってしまったのだ。『マウスピース矯正』というやつに。そして、その「透明なマウスピース型矯正装置」を見て、詳しい説明を読んで、私は直感した。

 ――これだ! これ、やりたい!!!

 プラスティック素材でできていて、食事や歯磨きのときには取り外すことができて、装着していてもほとんど気づかれないくらい目立たなくて。段階的にマウスピースを作り変えていくからワイヤーよりは高額になるみたいだし、すべての歯並びに対応しているわけではないから私の歯並びでも適応可能かどうかは診てもらわないことにはわからないけれど、これならきっとやれる。やってみたい!

 そんなふうに自分のために何かをしたいと思うのは、久々のことだった。純粋な欲望、欲求。与えられるものなら、与えてあげたい。その先の自分を見てみたい。

 歯並びを整えたところで何も変わらないとしても(これまでだってこの八重歯とともに生きてきたわけだし)、それでも私は、今後の人生について想いを馳せるよりも前にまず、今より美しい歯並びを手に入れてみたい。舌で、唇で、その感触を味わってみたい。

 思い立ったが吉日。「初診相談」というものを設けている歯科医院のホームページを熟読しながら、私の心はこのときにすでに決まっていたのだと思う。





「口の中を見られるくらいなら、尻の穴を見られたほうがまだマシだ」

 受付で渡された問診表を書き込みながら、心に漏れ出す本音を静かに見つめる。

 歯科医院に足を踏み入れるなんて、何年ぶりのことだろう。ウサギ顔をした受付の女の人は手術着みたいな濃いピンク色の服を着ているし、白を基調とした待合室は明るさと清潔感だけじゃなく癒しの空間としても完璧に演出されていて、いずれも子どもの頃に抱いていた「歯医者」のイメージからはほど遠い。……とはいえ、落ち着かないことには変わりないのだけれど。

 これを書き終えたら、診療室での問診。女性コーディネーター(って何だ?)が詳しく話を聞いてくれるらしい。次に顔写真の撮影(歯並びには顎の骨の形が大きく関わっているから)と、口腔内の写真を撮って(これがなにより気が重い。だけど目的遂行のためにはそんなこと言ってられない)、いよいよ治療台に横になり医師による状況確認へと進む。

 すべての流れは、ホームページにわかりやすく記載されている。緊張する必要なんて、ひとつもない。ここは歯の病院だ。あらゆる歯並びの人が、やって来ては口をあける。

 それでも、他人に口の中を見せることへの抵抗感は減少などしてくれない。

 私の歯並びを見て、彼や彼女はこっそりと思うだろう。――残念な、歯並びですね。

 あのときの歯医者のオヤジの態度が蘇る。子どもながらに、いつも馬鹿にされているような気がしていた。偉そうで、虫歯を作るようなやつはみんな親も子どももダメ人間なんですって、そう言われているような気分になった。歯並びが悪いなんて、人生終わってますね。私が治してさしあげましょうか?

――いらないよ。あんたの顔なんて二度と見たくない。

 どこかに、そんな想いがあったのだろうか。いつからか私は、できるだけ「歯医者」という存在とは関わりを持たずに生きていけるよう、丁寧に、特に夜には時間をかけて歯を磨くようになった気がするが……歯並びまでは変えられない。

 書き終わった問診表を差し出すと、受付のお姉さんは薄茶色の瞳をにっこりさせて「お掛けになって、もう少々お待ち下さいね」と、励ますように私を見つめた。

 そうだ、私は自分の意志でここへ来たのだ。今より少しでも「心地悪くない歯並び」になれるなら、恥ずかしさなんて丸ごと呑み込んで、臆することなく口をあけよう。

「日野さん、中へどうぞ」

 トイレを済ませ、洗面台の前で小さな紙コップ片手に何度も口をゆすぎ、ふ~っと息を吐き出して、戻ったらすぐに名前を呼ばれた。――大丈夫、ここからの流れは頭に入ってる。伝えたいことも全部、考えてきた。緊張はしていない。

 診療室に入ると、あちこちから「こんにちは~」の声(こういうのを最近は「アットホームな雰囲気」と呼んでいるのだろう?)。おそらく、席は3つ。パーテーションで仕切られてはいるものの音は丸聞こえで、歯の病院ならではのブーーーンとかギュイーーーンとかいう機械音が空間を満たしている。しかし矯正専門歯科だからなのだろう(ここでは虫歯治療などは行っていないから)、歯の神経を直接刺激するようなあの高音の《キィィィーーーン》は聞こえてこない。

 施術中と思われる手前の二席(もちろん見えない)の後ろを通り過ぎ、私は一番奥の席へと案内された(最初はカウンセリングルームとかで話をするのかと思ったら、違った)。診療室は予想よりもずっとコンパクトな造りらしい(確かに……来院したときも、扉をあけたらすぐに受付カウンターだったし、待合室も想像していたより狭かった)。

「お荷物は、そちらに置いて下さい」

 とにかく、まずは問診だ。マスクをしていて顔がほとんどわからないけれど、担当の女性(「歯科衛生士のマツダです」)は気さくで話しやすく、私はスラスラと質問に答えていく。

「子どもの頃は、八重歯も気にせず過ごしていたんですけど、大人になるにつれどんどん自分の歯並びが気になるようになってきて。実際、全然噛み合ってないし、無意識のうちに内側から舌で上の歯を押しちゃうんですよね。上顎が小さくて……」

 これって、母乳をたっぷり飲めなかったからだと思うんですよ。吸う力が育たなかったから、こんな未発達な感じの上顎になっちゃったんですかね? なんてことは、もちろん口にはしないけど、「生まれつき上下の顎のバランスが悪かったから、吸う力に恵まれなかったのか」「たっぷりと母乳を得られなかったことで吸う力が養われず、上顎が育たなかったのか」は、このところずっと私が想いを巡らせている問題だった。

 たぶん、あんなにも集中して母乳のことを考え続けたからこそ、今の私はそこから解放されていて(本当に、あの「こだわり」みたいなものはどこかへと消えてしまっていた)、もっとクールに、被害者気分ではなく客観的に、自分の中の「原因」と「結果」を見つめたがっているのだろう。

「それでは最初に、お顔の写真を撮らせていただきますので、お荷物は置いたまま、こちらへどうぞ」

 レントゲン室と思われる小部屋に移動し、丸椅子に座って、まずは正面。口を閉じて、薄く開いて、ニッと歯を見せて笑顔。アイスの棒みたいなものを横にして噛み締めながら、さらに一枚。同じように口を閉じたり歯を見せたりしながら左右の横顔の写真も撮って(そういえば、途中で何度か「もう少しだけアゴ引いて~」って言われたけど、このセリフ、子どもの頃にも写真を撮られるときによく言われてたっけ……)、とりあえず第一段階は無事終了。まだ余裕。

「次は、お口の中の写真を撮る前に、軽くクリーニングさせていただきますね」

 席に戻ると、想定していなかった「クリーニング」の言葉。紙エプロンのようなものを乗せられて、ブーーーンと椅子の背が倒れはじめるともう、体が自然と硬くなるのがわかる(同じような倒れる椅子でも、美容院でシャンプーしてもらうときとは全然違う。あのときでさえリラックスできない私なのに……)。右側に立つマツダさんと、スッと引き寄せられるワゴンのような小さいテーブル。その上に並ぶ、スティック状の謎の機器。

 頭上のライトがパキっと光り、先の尖った灰色のシリコンみたいなものに歯磨き粉のような白いものを付けながら、マツダさんが私の歯の表面を磨いていく。骨まで響く振動と、口の中に広がる強烈なミント味。痛みはないけど、気持ち悪くて飲み込めない。

 苦手な、あのフロスでぐいぐいやられるやつにも耐えて、やっとうがいができると思ったらコップに洗浄液のようなものが入っていて(舌がビリビリする不味いやつ)、おぇっと思いながら慌てて吐き出し、新しい水を注いで繰り返し口をゆすいだけれど手遅れで――。

「それでは日野さん、このままお口の中の写真を撮っていきますので、少々お待ち下さいね」というマツダさんの言葉を背に、私はすっかりと打ちひしがれてしまっていた。

 しかし、本番はここから。


(つづく)






☺︎ →→→(2)




(C)Kanata Coomi

〈↑こちら、まだまだ在庫あり♡〉




長編小説『くちびるリビドー』を楽しROOM
長編小説『くちびるリビドー』の「紙の本」ができるまで。


ここから先は

0字
note版は【全20話】アップ済み(【第1話】は無料で開放&解放中☺︎)。全部で400字詰め原稿用紙270枚くらいの作品です。ここでしか読めない「創作こぼれ話」なども気ままに更新中☆ そして……やっぱり小説は“縦書き”で読みた~い派の私なので、「縦書き原稿(note版)」と「書籍のPDF原稿」も公開中♪ ※安心安全の守られた空間にしたいので有料で公開しています。一冊の『本』を手に取るように触れてもらえたら嬉しいです♡ →→→2020年12月22日より、“紙の本”でも発売中~☆

「私がウニみたいなギザギザの丸だとしたら、恒士朗は完璧な丸。すべすべで滑らかで、ゴムボールのように柔らかくて軽いの。どんな地面の上でもポン…

この記事が参加している募集

推薦図書

文学フリマ

“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆