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vol. 2 「平等」を考える。
「『平等』と『均等』は違う」
去年、サポーター活動をしていた小学校の道徳の授業で見た絵を時々思い出す。
3人の子どもがフェンス越しに野球の試合を観ている。
小さい子ども、中ぐらいの子ども、背の高い子ども。
フェンスが邪魔で野球がよく見えないため、3人とも台が必要である。
台を「均等」に与えるなら、3人とも同じ高さの台から野球の試合を観戦することになる。「平等」に与えるならば、フェンスから顔を出せるぐらいの高さの台をそれぞれの子どもの身長に合わせて用意することになる。このくらい当たり前の現象が、目に見えない差には適応されない。
「平等」とは何か。
辞書的に言えば、
かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと。(広辞苑)
英語だと、Equality。
Equality
the right of different groups of people to have a similar social position and receive the same treatment
道徳の授業では「均等」と言っていたが、この絵は「平等」と「公平」を対比していた。
Equity
the situation in which everyone is treated fairly and equally
Equity は、公平と訳されることが多い。
かたよらず、えこひいきのないこと。(広辞苑)
今回は、あえて「平等」という言葉を使う。「公平」よりこちらの方が馴染みのある言葉な気がするから。
言葉の意味は、使用場面の文化や時代を反映する。今回はあまり辞書的意味に囚われず考える。
今の時代の「平等」とは。
理想(平等)と現実のギャップは何か。まずはそれを把握することが大切だと思う。
さっきの野球観戦もそうだ。台の高さは人によって違う。だからまずはその人の身長とフェンスのギャップを知る必要がある。それからやっとできることがわかってくる。
仕事や行政などもっと大規模で考える「平等」は、このギャップを知るので精一杯。
だから個人単位で意識して考えるのが現実的だと思った。
例えば、小学校のある教室。
発達速度や学習速度は子どもたちによってそれぞれ。
でも、教室には30人以上の生徒。担任教師が1人で30人分の「台」を用意するのは難しい。ましてや教育委員会単位で検討してもらうのは現時点でかなり非現実的。
ここで、地域の人々や教職課程にいる学生サポーター、さらに保護者がこの「台」を用意する役割を一緒に担う。または、子どもたち同士が助け合うという考え方もある。計算問題を早く時終わった子が、悩んでいるクラスメイトにヒントを出してあげる。答えを教えるのではなく、ヒントという「台」を置いてあげる。そういう感覚が育つような教室や社会が、超理想だと。
必要なところに必要な分の支援を。
これは生産と消費にも当てはまることだと思った。自分に必要な分だけ買う。豊かを求めすぎて本質を見失ってしまう。
2020年の目標として、今あるもので生活することを心がけた。新しいものは欲しくなるけど、極力買わない。消耗品はしょうがないけど、趣味以外の買い物はじっくり検討してからするようにした。
平等とはだんだん話が逸れてきた気がする。
平等を実現するためには、必要分を把握する必要があると思う。
誰にどのくらい必要なのか。この必要分の基準はさっきの野球観戦の例と同じ。みんなが野球を観戦することができるために必要な分。
そういうこと日々考えていたいよね。
※ 画像引用サイト
https://interactioninstitute.org/illustrating-equality-vs-equity/
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