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【街登山】吉野ヶ里に負けるな「片平中町遺跡公園」 麻生の公園完全制覇第5回

川崎市麻生区が長寿日本1なのは、公園がたくさんあるから。

というわけで麻生区の321公園をすべて回る企画、第5弾

運動になるから、なるべく高いところにある公園に行きたいのだが、私のような街登山家のベテランになると、地元のたいがいの公園にはもう行っている。

どこか高い場所にある、行ったことない公園はないか、と地図で探していたら、ありました、「片平中町遺跡公園」。

遺跡公園!

なんでも、4000年前の、縄文中期から後期の遺跡だという。

最近、佐賀の吉野ヶ里で石棺が発見され、邪馬台国の跡かと話題になった。

でもあれは、弥生後期で、せいぜい2000年前の話だ。

こっちは4000年前だからね。こっちの方がスゲー。邪馬台国どころか、「日本」がまだ影も形もない。

そのころの「麻生区民」の生活の跡が見られるという。


そりゃ見たい。というわけで、昨日は天気がよかったので行くことにした。


和歌森太郎が発見


片平の高台のあたりを「イトーピア」と言う。伊藤忠不動産が開発したからだ。

それについては、以前にnoteに書いたことがある。



この遺跡が発見されたのは1970年。今から53年前である。

1969年、伊藤忠不動産は、この地の開発にあたり、遺跡がないかどうか、東京教育大学考古学研究室に調査を依頼した。近くの鶴川などで、かねて縄文遺跡が発見されていたからだ。

1970年1月12日から4日間、東京教育大学文学部教授、和歌森太郎を調査団長として、現地調査がおこなわれた。


1970年、発見当時の片平周辺地図。まだ新百合ヶ丘駅も多摩線もない(いずれも1974年開業)。中央に柿生駅、その西の✖️印が仲町遺跡発見場所(『仲町遺跡』より)


調査団長の「和歌森太郎」という名に覚えがあった。子供時代に、聞いたことがある。

和歌森は柳田國男の衣鉢を継ぐ民俗学・考古学の大物だそうだが、東京教育大学の筑波への移転に抵抗した反乱教授としても知られる。私に聞き覚えがあるのはそちらの方だ。筑波移転反対闘争は、東大闘争などとともに、1960年代の代表的学園紛争の1つで、和歌森も当時、ニュースで有名人だった。

Wikiの「和歌森太郎」に、以下の記述がある。

文学部長を務めている際に筑波大学構想がおこり、同大学の筑波移転には強く反対し、また移転反対派の牙城であった文学部においてもその旗手として論陣を張り、評議会や理学部を中心とした推進派と対立したことから、1966年には学部長を辞任、同大学を去った。


このWikiの記述では、1966年に東京教育大学を去ったように読めるが、それでは1970年に片平に調査に来られない。実際には、学長に抗議して学部長を辞めただけで、大学には残っていた。

和歌森太郎は、家永三郎や朝永振一郎などとともに、東京教育大学のリベラルなイメージの象徴だった。2月11日の「建国記念日」に科学的根拠がないと抗議活動をしたりしていた。その後、都留文科大学の学長を務めて1977年、61歳で亡くなった。

片平に調査に来た1970年は、まだ移転反対闘争の最中だったはずだが、和歌森や家永らの反対派は、すでに敗色濃厚だった。(1973年に筑波大学は開校する)


話がそれました。

とにかくそういう時代に和歌森太郎らは、片平仲町遺跡を発見する。

和歌森の下、当時東教大助手で、のちに筑波大学教授、日本考古学協会会長を務めた岩崎卓也(2018年没)らが調査に参加している。

和歌森、岩崎ら仲町遺跡発掘調査団は、『仲町遺跡 川崎市片平所在 縄文時代遺跡の調査 1971』というレポートを1972年に出している(伊藤忠不動産発行の非売品)。

それは、麻生区のどの図書館にも置いてあるので、私も読んで予習して行った。

本の中で、仲町遺跡の地理を、以下のように説明している。


(仲町遺跡は)標高およそ80m地点にあたる。遺跡北東から南東方面にかけては、山丘の標高も50m内外と低くなるため(中略)あたかも独立した山丘のように望見することができる。(『仲町遺跡』p2)


今は宅地で埋められ、わかりにくくなっているが、開発前の当時の写真でみれば、遺跡があるのはたしかに「山」の上である。

1970年当時、南側から見た仲町遺跡遠望(『仲町遺跡』より)


「街登山」にとって格好の目的地だ。

ちなみに、「片平(かたひら)」とは、麻生川(片平川)の北側が「山」で(いま多摩線が通っている方)、南側、つまり「片側」だけ「平ら」だから付いた名前です。

遺跡のあるのは、その平らな方ですが、その中でも、いちばん高い所にあるわけですね。


現在の地図を見ると、近くに「片平中町第1」「片平中町第2」「片平中町第3」の3つのナンバリング公園がある。

せっかくだから、全部片づけようと思った。柿生駅から行くと、第2→第1→遺跡公園→第3、と回るのがよさそうだ。


柿生駅からの経路


これらの公園を見逃していたのは、地図でわかるとおり、町田市との境、つまり神奈川と東京の県境にあるからだ。

だから、このあたり、少し歩くと、東京の公園と神奈川の公園が混じっているが、今回行くのはすべて神奈川、麻生区側の公園です。


まず中町第2公園を目指す


片平側沿いからこの坂を上がっていく


ちょっと道に迷ったけど、着きました第2公園


片平中町第2公園


最小限の遊具、水場だけがある公園ですが、比較的きれいに整備されていました。

片平中町第2公園


片平中町第2公園


片平中町第2公園 麻生区片平3丁目17-1
      面積 239m2


このあたりで目立つのは、商船三井の大きなグラウンド。あたりはコンビニもない、閑静な住宅街ですが、この日は商船三井グラウンドで野球やテニスをする人の歓声がひびいていました。

商船三井柿生グラウンド


少し戻って第1公園


商船三井のグラウンドにぶつかると、少し坂を降りる形で戻って、片平中町第1公園にいたります。

片平中町第1公園


この公園はユニークですね。遊具は一切なし。ベンチ(と水場)だけがあります。いさぎよい。

しかも、なかなか座り心地のいいベンチでした。きれいに整備されているし。

愛煙家なら、ここに座って一服したいところでしょうが、横の立て札にタバコは吸うなと書いてあります。

片平中町第1公園のベンチ。向かい側にもう1つある


片平中町第1公園 麻生区片平3丁目15-1
      面積 295m2
      ベンチと水場のみ トイレなし
      


いよいよ遺跡公園!


で、ついに遺跡公園に着きました。

片平中町遺跡公園


「2階建」になっていて、下のスペースに遊具があります。

片平中町遺跡公園の遊具スペース


遺跡スペースへは、この80段の階段を上ることになります。

遺跡スペースに上る階段


それにしても、元編集者としては、「中町」と「仲町」と、表記がバラけてるのが気になりますね。

「中」と「仲」は異体字の関係ではなく、別字だから、「仲」を「中」と書いたら、試験ではペケだけどね。こういうところはちゃんとしてほしいね(「仲」に統一すべきでしょう)。

それはともかく、期待に胸を膨らませて階段を上りました。

遺跡スペースの案内板


で、遺跡スペースに上ると・・なんもわかりません!

荒れ放題の遺跡スペース


草がぼうぼうに生えているだけで、遺跡がどこにあったかもわからない。(案内板も汚れまくって、遺跡の写真も見にくい)


本来は、こういう遺跡(写真下)があったわけですね。

石が敷かれているのが特徴です。

『仲町遺跡』より


全体は、ちょっと「前方後円墳」を連想させる形だけど、もちろんそれとは関係ない(それより2000年前の遺跡)。

近世の柄のついた鏡に形が似ているから「柄鏡形」と呼ばれる。

炉を中心にした丸いスペース(円形部)と、たぶん出入り口だったと思われる「張り出し」がある。下図で「P」とされているのは柱穴。


『仲町遺跡』より


柱穴があるということは、この上に、植物の葉や皮を敷いた屋根を組んだのでしょうか。

こうした「敷石遺構」、または「敷石住居址」は、縄文時代後期、関東の西側で幅広く残っているようです。

仲町遺跡の発掘に先立ち、1965年に長野県小諸市で同様のものが見つかり話題になりました。

「敷石遺構」「敷石住居址」についてはググってもらうとして、住居というより、何か祭祀に使われたのではないか、と言われているらしい。(土器や石器も一緒に出てきているが、あまり多くない)

こうした高い場所は、当時も神聖だったのでしょう。

あるいは、もとは縦穴式住居だったのを、石を敷いて、宗教施設に改造したのかもしれない。


4000年前、縄文時代後期は厳しい時代で、寒冷化が進み、狩猟採集で生活していた縄文人たちは追い込まれていた。

このころまでは、富士山の噴火も活発でした。

たぶん、4000年前の「麻生区民」たちは、この小高い丘の上で、生活が改善されるように、みんなで祈っていたのではないでしょうか。

しかし、その甲斐はなく、縄文人たちはバタバタと死んでいきます。

食料である植物が寒冷化で枯渇し、飢餓で死んでいく仲間や子供たちの魂を鎮めるための場所だったかもしれませんね。

縄文時代終盤に人口急減したのは、最近DNA解析でも裏付けられました。


縄文時代の中期には、何らかの言葉(日琉祖語?)を話していたはずです。

石を敷いた場所は、彼らにとって特別だったでしょう。彼らは、炉を中心に車座に座り、苦境をいかに乗り越えるか相談したり、天に向かって何かを念じたりしていたのでしょうか。

この場所は、そういう4000年前の「日本人」の苦闘をしのぶ場所であるべきですね。

しかし、こんなに荒れているのでは、教育上も役に立たない。

これは、私が今選定中の「麻生区3大ガッカリ」に入っちゃうね。


麻生区のあたりでは、縄文時代の中期から後期にかけて活発な文化があったことが遺跡からわかります。鶴川や岡上からもこの時代の遺跡が出ています。

しかし、このあたりは、その後の弥生時代の遺跡は少ない。

弥生時代に稲作が始まりますが、ここは「山の中」だから、耕作には向かない。人々は山から降りて、海や水辺近くに移動します。

片平に住んでいた縄文人たちも、もし死滅したのでなければ(そうでないことを祈りたいが)、この遺跡のような施設を放棄し、山を降りて、多摩川のあたりとかに移動したのではないでしょうか。



片平中町遺跡公園 麻生区片平3丁目27-1
      面積 2345m2
      遊具あり、水場あり、遺跡あり、トイレなし


盛り下がったところで第3公園


その後、縄文人の生活に思いを馳せ、坂を下りながら、片平中町第3公園に寄りました。

第2公園と同じような、最小限の遊具を備えた公園ですが、第2公園より荒れている感じ。

片平中町第3公園


公園の看板も、このように草木に覆われて見えません。

片平中町第3公園の看板


片平中町第3公園 麻生区片平3丁目26-1
      面積 358m2
      遊具あり、水場あり、トイレなし


総評


柿生駅から4つの公園を回って、小1時間ほど。

遺跡公園にはがっかりでしたが、高度は十分あり、運動としてはちょうどいい感じ。

イトーピアには大きなお屋敷やレンガ造りの住宅など見所があります。このルートは、あまり知られていない坂の上の高級住宅街、イトーピア見学としてもいいのではないか。

「一戸建てしか建てない」というイトーピア宣言の看板

なお、いずれの公園にもトイレはなく、またコンビニも近くにないですが、柿生小学校横にある市立図書館柿生分館か、柿生駅近くのマルエツのトイレを借りることはできるでしょう。


<参考>
これまでの麻生区「街登山」「公園完全制覇」シリーズ

街登山のすすめ

向原の森公園

美山台公園

むじなが池公園

鶴亀松公園

麻生区3大がっかり


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