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ブラックボックス・ラヴァーズ / 長編小説 -1-

▼あらすじ
 自他共に認める学校一の美少女・藤堂とうどう亜麻あまは、家庭の事情により同級生である瀬戸せと和真かずまの家に居候することになる。自らの可憐さに絶対的な自信を持つ亜麻だったが、自分の存在にまったく照れる様子を見せない和真のことが気になり始める。そのことを親友の霧崎きりさき真子まこに相談するものの、単に興味を持たれていないだけではと一蹴される。プライドを逆撫でされた亜麻は、和真が硬派を気取って好意を隠しているだけだと思い、和真の本心を探るべく奔走し始めるが……。予測不能/衝撃必至の青春恋愛ミステリー。



 校舎裏は常に日陰である上、時折強い汐風が吹き抜ける。
 藤堂とうどう亜麻あまは校舎裏があまり好きではなかった――より正確に言えば、この時季の校舎裏はだろうか。
 季節は春先。四月中旬。
 冬を乗り越え、空気がようやく温み始めた時季と言えど、長く留まるにはまだ肌寒い。
 それでも今日の昼休み、亜麻は校舎裏まで赴く必要があった。
(なるべく手短に済ませたいわね。真子まこも待たせているわけだし)
 亜麻は速足を心がけて校舎裏へと向かった。
 ――約束の相手はすでに待ち構えていた。
 同級生の男子だがクラスは違うため名前は覚えていない。そういう相手から呼び出されることは、亜麻にとっては日常的だった。
「と、藤堂さんっ」
 亜麻が姿を現すと、件の男子はどもり気味の声で出迎える。
「ありがとう、本当に、来てくれたんですね」
 見るからに奥手そうな男子だった。
 背丈は亜麻と同じくらいで、男子の中では低い方だろう。高校生というよりは中学生に近いような少年顔で、小洒落ていない分不快感もないため、女子によってはこういう男子を好む者もいるかもしれない。
 いずれにしても、亜麻の趣味ではない。
 彼女にとって重要なことは、いかに早くこの校舎裏から立ち去ることができるか、それだけだった。
(こういう子は、話が長引く傾向にあるから面倒ね……)
 などという所感を、亜麻はおくびにも出さず、
「もちろんよ。それより、大事な話って?」
 と、安堵を誘うような優しい声と表情を心がける。
 本当はどんな要件か分かっていたが、話を手短に終わらせるため、あえて訊ねてみせた。
「あ、えっと、その……」
 その男子は何度も目を泳がせていたが、やがて意を決したように視点を亜麻に定め――、
「ずっと、前から、好きでした! 付き合ってください!」
 深々と頭を下げ、そう懇願してくる。
 ――異性からの告白。
 今月はこの男子が初めてだったが、先月はやたらと多いイベントだった。そのほとんどが、卒業間際に玉砕覚悟でやってきた上級生ばかりだったが。
 いずれにしても、この男子に対する答えは思案するまでもない。
「打ち明けてくれて、ありがとう。凄く嬉しいわ」
 亜麻はいったん微笑みを向けたのち、
「でもごめんなさい。あなたとお付き合いすることはできません。それが私の、正直な気持ちです」
 努めてしおらしい声で、告白を断った。
 見事に散った男子は、ゆっくりと落胆した面持ちを上げ、
「そうですか、やっぱり、自分なんかじゃダメですよね。自分なんかが藤堂さんみたいな人と、藤堂さんほどの美少女と付き合おうなんて……」
 ぶつぶつと、気落ちした声で呟き始める。
(あたしほどの美少女、ねぇ)
 対して、亜麻は男子の言葉に得心し、内心気をよくしていた。
 ――藤堂亜麻は確かに美少女だった。
 端正な顔立ちに艶のある長い黒髪。スタイルは秀麗で、女性らしい凹凸は制服の上からでも分かるほど優艶なシルエットを形作り、全体の均整も取れている。
 誰もが羨むプロポーションながら、悪戯に誇示することもない慎ましいセーラー服はお嬢様然としていて奥ゆかしい。性格も、表向きは●●●●外見通りの清淑さで、美少女という評価に疑いの余地はない。
(そうよ、あたしは美少女なのよ。それは、絶対に間違いないの)
 自己暗示させるように心の内で自賛する亜麻。
 しかし、今は悦に入っている暇はない。男の子の哀れな姿を慰める時間もない。
 亜麻は男子のもとに近寄り、
「そんなに、落ち込まないで」
 言い聞かせるような声と共に、彼の手を取った。
「と、藤堂さん……っ」
 突然手を握られ、その男子は分かりやすく顔を真っ赤にする。
 予想通りの反応に、亜麻はほくそ笑むのを我慢しつつ、
「勇気を出して気持ちを伝えてくれたことは、本当に嬉しかったから……よかったらまた、声をかけてね。今度は、お友達として」
 と、柔和な微笑みを向ける。
 気落ちしていた男子は、表情を一転。
 嬉しさを隠し切れない、なにか満ち足りた面持ちとなっていた。
(そう、そうよ。これが正常な反応なのよ……あたしのような美少女と、手を繋げたんだから)
 密かに自尊心を満たした亜麻は男の子から手を離し、
「それじゃあ私、用事があるから」
 と、足早に校舎裏をあとにした。


 昼休み、亜麻にはすでに友人との先約があった。四限目が終わったらいつもの場所で待っていてほしいと亜麻から頼んでいた。告白で時間は取られたものの、休み時間はまだ充分に残っている。
 待ち合わせ場所は、高校の図書室の奥にひっそりと設けられている図書資料室。
 中へと入って本棚の通路を抜けると、テーブルとソファが置かれているこぢんまりとしたスペースがある。まるで隠された応接室のようで、ソファにはボブカットの小柄な女子が座っていた――同級生の霧崎きりさき真子で、亜麻の本性●●を知る唯一の友人だった。
 亜麻も向かいのソファに腰を下ろしながら、
「ごめんなさい、待たせたかしら」
「別に。私も今さっき来たとこ」
 真子は相変わらずのアンニュイな声で答え、
「どうせまた、告白かなんかでしょ?」
「さすがは真子ね。四限目の授業中にいきなり手紙が回ってきて呼び出されたのよ」
「そんなことだろうと思った。でもこの時間ってことは手短に済ませてきたんでしょ?」
「当然よ。言うことなんて初めから決めていたもの」
「そ、断ったんだ」
「にしたって、もうちょっと早く切り上げられると思ったんだけどね。中々本題に入ってくれなそうな子だったから苦労したわ。それに場所も最悪。さっきの子に限った話じゃないけど、どうしてみんな校舎裏なんかを指定したがるのかしら」
「そりゃ、定番だからじゃない? 告白イベント的には」
「遠いし肌寒いし、こっちはいい迷惑よ」
「遠くて肌寒いって言うなら、ここも大差ない気もするけどね」
「確かに、ここも少し肌寒いわね。夏には避暑地としてよさそうだけれど。暖房はないのかしら」
「たかが資料室に期待し過ぎだっての」
「これだけ立派なソファとテーブルがあるんだから、期待したくもなるわよ」
「司書さんの休憩用だから、大して立派じゃないけど。そんなに寒いんなら仕方ないね」
 真子は持参していたポーチを持って立ち上がると、おもむろに亜麻の方のソファに移動し、隣に腰を下ろしてくる。
 亜麻は真子が座れる分だけスペースを空けながら、
「人肌で温もろうってこと?」
「これでダメなら毛布でも持ってくるしかないね」
「春先なんだからこれで充分よ。毛布は冬場に取っておきなさい」
「はいはい、お隣に座れて光栄至極です」
 淡々と答えながら、真子はポーチから取り出した弁当箱を準備し始める。どうやら今から昼食を取るらしい。
 この資料室は主に閉架された本を収納するための部屋であり、ドアはあれど窓はない。光源は古いままの照明器具だけのため、昼休みであっても室内は薄暗く、空気もひんやりしている。
 二人はこの資料室に度々出入りしている。真子が図書委員のため、室内に入るための鍵は書庫整理を理由にすればいつでも借りることができた。
 利用するのは特に昼休み。静かに昼食を取りたい時や、内緒話をする時が多かった。
 今日の目的は、どちらかと言えば後者。
「それで、内緒話ってなに? 私にしか相談できないことって」
 真子が本題について訊ねると、亜麻は「そうだったわね」と気を取り直し、
「あたしって、学校一可愛いじゃない?」
 と、訊いた。
「え? ああ、うん、そうだね」
 突拍子もない問いかけに、真子はとりあえずと言った風に頷く。
「亜麻は可愛いし美人だと思う」
「なんだか淡泊な肯定に聞こえるのは気のせいかしら。本気でそう思ってる?」
「私の意見なんてどうでもいいじゃん。現に亜麻はモテてるわけだし」
「確かにそうね。去年あたしがもらったラブレターの数、知ってる?」
「三十七通でしょ。男子から二十九、女子から八」
「さすがはあたしの親友。内訳までご存知とはね」
「で、今年はまだゼロ通」
「そんな情報はいいのよ」
 亜麻は少しだけむくれ、
「二年生になってからぱたりと途絶えちゃったの。今日みたいに、面と向かって告白してくる子はまだいるんだけど、どうしてラブレターだけ来なくなったのかしら」
「さあ? 亜麻の熱狂的なファンが、亜麻宛てのラブレターを見つけ次第打ち捨ててるとか?」
「そういう子がいてもおかしくはないわね。ラブレターはすべて下駄箱か机の中に届くばかりだし、あたし以外の人間でも簡単に盗み出せるもの」
「いや冗談のつもりで言ったんだが。そんなマジで考え込まなくても」
「いいえ、さすがあたしの親友だわ。その線で調べてみてもいいんだけど、今のところ特に困ってもいないのよね。むしろありがたいくらいだわ」
「ふぅん。亜麻ってラブレターの数はステータスくらいに考えてると思ってたけど」
「もちろんそうよ。あたしが学校一の美少女だってことを裏付ける重要なステータスの一つだわ。だけどあたしって、すべてのラブレターに必ず返事をするじゃない?」
「そういやそうね。手間だとも言ってたっけ。変なとこで律儀だよね」
「仕方ないじゃない。好意の裏切り方はとても大事なの。正しく断ることができれば憧れに昇華させてあげられるけど、間違えたら憎しみに変わりかねないもの」
「亜麻らしい美学だね。まるでアイドル気取りっていうか」
「なにか言った?」
「言ったけど振り返らない。で、そんな自慢めいた話を今更して、亜麻はどうしたいわけ? 私、早くお弁当食べたいんだけど」
 真子が弁当箱を開こうとする。
 そんな彼女の手を、亜麻がパッと押さえつけ、
「待って真子。ここからが本題なのよ」
「ねえ亜麻。亜麻が思ってるより昼休みって短いんだよ?」
「昼休みは五十分よ。それくらい把握しているわ」
「皮肉が通じない聴覚器官ってむしろ長所だよね」
「耳がいいってことね。ありがとう」
「どいたまどいたま。で、本題ってなに?」
「だから、あたしって学校一可愛いじゃない?」
「いただきます」
 真子が弁当箱を前に両手を合わせる。
 亜麻はすかさず、真子の弁当箱から箸を抜き取り、
「待って真子。ここからが本題なのよ」
「はいはい。亜麻は宇宙一可愛いくて美人だから」
「学校一よ。それくらいは弁えてるわ」
「それは弁えてるって言えるのかね」
「とにかく今から言うことは、真子があたしの親友だから打ち明けるんだけどね、……あたし今、実は居候してるの」
「は? なんで?」
「色々と事情があってね。まあ、居候自体は別にいいんだけど、……その居候している家が、瀬戸せと和真かずまのところなのよ」
「瀬戸って……もしかして、隣のクラスの瀬戸? マジで?」
「あら、知ってるの?」
「中学一緒だったからね。話したことはほとんどないけど……でも、居候がマジなら大スクープじゃん。瀬戸ってバスケ部のエースで、女子から割と人気がある男子だったと思うけど」
「そんな情報はどうでもいいわ。大事なのはこの学校一可愛いあたしが、同級生の男子と同じ屋根の下で暮らしているって事実だけよ」
「いや、どうでもよくはないんだが。ていうか、なんでそんな大事なこと今まで言わなかったの?」
「本当はあまり他言したくなかったのよ。変な噂が広まったりしたら面倒でしょう?」
「まあ、確かに言いづらい悩みではあるか」
「でしょ? でも色々考えて、やっぱり真子だけには相談しようと思ったのよ。親友である真子にはさ」
「そういうこと真顔で言っちゃうとこ、亜麻って人たらしだよね」
 やや気恥ずかしそうに真子は言って、
「それで亜麻は、具体的にはなにに悩んでんの? ジェンダー系? 肩身が狭い系?」
「その二択はよく分からないけど、まあ、話せばこういうことよ――」
 と、亜麻は居候が始まった頃の話を語り始めた。


 今年の四月上旬。
 高校二年生に進級してまもなく、亜麻は瀬戸和真の家で居候を始めた。
 住宅街の一角、洋風モダンの一戸建て。この付近の住宅はすべて似たような造りで、その中で極めて新しくも古くもない平均的な二階建ての家屋だった。
 亜麻はこれまでマンション住まいだったため、一戸建てで生活するのはこれが初めてとなる。
(平凡な家だけど、広さ的にはまずまずね。学校からもそう遠くなかったし、住まいに関してはひとまず好条件じゃないかしら)
 素直な所感を浮かべる亜麻。
 カーポートの隅に自転車を置き、玄関へと向かってインターフォンを押した。
「初めまして、亜麻ちゃん。今日からよろしくね」
 と、まず亜麻を出迎えたのは、瀬戸奈々子ななこ
 瀬戸和真の母親で、高二の息子がいるとは思えないほど若々しい女性である。
 ウェーブがかったラセットブラウンの髪も艶やかに輝き、きめ細かな肌もハリがあって美しい。
「和真がいて、色々と過ごしづらい時もあるかもしれないけど、困ったらいつでも相談してね。力になれると思うから」
 常に微笑んでいるような穏やかな物腰が印象的で、亜麻も「はい、よろしくお願いします」と笑顔で返答した。
(気立てのよさそうな人でよかったわ。可憐さではあたしに劣るけど……)
 などと評していると、奈々子の背後からひょこりと、一人の少女が姿を見せた。
「あ、この子は娘の結奈ゆいな。中学三年生で、来年には亜麻ちゃんや和真と同じ高校を受験するの」
 と、奈々子が紹介する。
 結奈は奈々子に似て可愛らしい容姿の少女だった。おかっぱ頭に近い黒のセミロングの髪は、どことなく真子にも似ているかもしれない。まだ中三ということもあり、顔立ちや雰囲気には垢抜けた感がなく、中途半端なあどけなさが強く感じられる。
 その証拠に、結奈は自己紹介もせず奈々子の後ろに半身を隠していて、
「…………」
 と、無言のまま佇んでいる。
「ほら、結奈。ちゃんと自己紹介しなさいね」
 奈々子から促されてようやく、結奈は亜麻と目を合わせ、
「……瀬戸、結奈です」
「初めまして、結奈ちゃん。あたしは藤堂亜麻。今日からご厄介になるけど、できれば仲よくしてほしいわ」
「…………」
 結奈は頷かず、亜麻の顔をしげしげと見つめている。
(なにかしらこの子、あたしのことこんなに凝視して。あたしの美貌に見とれてるって線が濃厚だけど、この視線はどことなく違う気も……)
 亜麻は不思議がった。これほど見つめてくる理由を訊ねようかとも考えた。
 けれどまもなく、結奈は踵を返して二階へと上がっていった。
「ごめんなさい。あの子、ちょっと人見知りっぽいところがあって」
 奈々子が申し訳なさそうに言う。
 亜麻は「大丈夫です」と微笑み、
「難しい年頃ですし、いきなり私みたいな赤の他人が居候するなんて、驚いてしまって当然でしょうから」
「ええ、それもそうね」
 同調する奈々子。
(そうよ。あたしみたいな超が付くほどの美少女が一緒に住むんだもの。緊張して当たり前よね)
 亜麻はなんの疑いもなくそう思った。
(そうは言っても、あまり気を遣われるのも過ごしづらいわね。早く打ち解けられるよう、頃合いを見てこちらから働きかけてみるべきかしら。ちょっと不気味ではあったけど、可愛らしい子ではあったし、遠からずあたしの後輩になるんだったら仲よくなっておいても悪くないわね。
 まあともかく、結奈に関しては女の子だから別にいいのよ。問題なのは、この家にいるもう一人の住人なんだから……)
 と、その時。
 ――ガチャンと玄関のドアが開く。
「……ん」
 ちょうど、その問題の人物が帰宅した。
 瀬戸和真。――亜麻の同級生であり、この家で唯一の異性である。
 背丈はすらりと高く、亜麻との身長差を考えても180センチ弱はあるだろう。こちらも奈々子に似て中性的な顔立ちだが、切れ長でまつ毛の長い目元は、同い年の男子とは思えないほどクールな雰囲気をまとっている。
「藤堂さん……か。どうして、うちの玄関に」
 亜麻を見るや、落ち着いた声で訊ねてくる和真。
 これには亜麻も「え?」と困惑する。
(まさかこの男、あたしが来ることを知らなかったと言うの……?)
 そう不安がっていると、奈々子が「なに言ってるのよ」と嘆息し、
「亜麻ちゃん、今日からうちに住むのよ。先月から話してるし、昨日だって一応言っておいたでしょう?」
「そう、だったか」
 まったく記憶になかったかのような様子の和真。
 その言動に、亜麻はきらりと目を光らせ、
(なるほど……これは、この男なりの駆け引きだわ)と、推理●●を始める。
(あたしは学校一の美少女、藤堂亜麻。あたしの可愛さに一目惚れしない男はいないはず。ゆえにこの男ももう、あたしに惚れていると考えるのが自然だわ。
 だけど瀬戸和真は、どうやら照れ隠しをするタイプの男子ね。クールに振る舞おうとしている言動にその傾向が表れているわ。
 この手の男子は相手に好意を抱いていると気取られたくない節がある。あたしが来ることを忘れていたふりをしているのがいい証拠よ)
 頭の中で一つの結論を出した亜麻は、そのことを気取られぬよう和真に微笑みかけ、
「瀬戸君、こちらの事情で申し訳ないけど、今日からご厄介になります。今日からよろしくね」
 と、手を差し伸べる。
 これは亜麻なりのサービス精神であり、ささやかないたずら心でもあった。
(あたしと握手できる男なんてそうそういないんだから。照れ隠しなんかしてないで、さっさと顔を赤くして照れまくりなさい……)
 が、亜麻の邪な期待とは裏腹に、
「ああ、よろしく」
 と、和真は簡単に手を握ってくる。
 ――亜麻は驚愕した。
 同時に、わずかな体温上昇を自覚する。
 和真は軽く握手を済ませると、後ろ髪を引かれる様子もなく玄関を去っていった。その際、シーブリーズの甘酸っぱい香りが亜麻の鼻孔をくすぐった。
「亜麻ちゃん? どうしたの、固まったりして」
 という奈々子の声で、亜麻は正気に返り、
「い、いえ。なんでもありません」
 取り繕いながらも、内心穏やかではなかった。
(あたしに微笑みかけられて、あまつさえ手も握ったというのに。
 どうして、あの男は……)
 密かに下唇を噛む亜麻。
 感じたことのない戸惑い、あるいは悔しさのようなものが、胸中で募っていた。


「というわけなのよ。どう思う、真子?」
 一通り話したところで、亜麻は意見を求めた。
 真子はいつの間にか奪い返していた箸で弁当を食べ進めながら、
「ごめん。どこに悩むポイントがあったのか分かんなかった」
「はあ? 本気で言っているの? お弁当に夢中でちゃんと聞いてなかったんじゃないでしょうね」
「いやちゃんと聞いてたし。ていうか、亜麻はお昼食べなくていいの?」
「あたしは今日、プロテインの日だから。四限目が始まる前にぐいっと飲んで済ませたわ」
「意識高いかよ」
「スタイル維持のためには当然の食事制限よ」
「卵焼きでもあげよっか? プロテインだけじゃさすがにお腹空くでしょ」
 真子は不作法な具合に箸で卵焼きを突き刺し、亜麻の口元に押しつけてくる。
「はい、あーん」
「されるわけないでしょ。おかしな誘惑はやめて」
 唇で卵焼きを突き返す亜麻。
 真子は「残念。自信作だったのにねー」と、言うほど残念でもなさそうに自分に口に運んでいた。
 亜麻は短い溜息をついて気を取り直し、
「そんなことより、瀬戸和真のことなんだけど」
「ええと、なんだっけか」
「あたしがどうして悩んでいるのかよ。そろそろ分かったでしょう?」
「てんで分かんね」
「真子、あなた推理小説とか読まないでしょう? 図書委員のくせにそれじゃダメよ。だからこの程度の話も推理できないんだわ」
「どこに推理する要素があったのか」
「だ・か・ら、おかしな話じゃないっ! 瀬戸和真はあたしに対して、まったく照れた様子を見せなかったのよ?」
「それのどこがおかしいわけ?」
「だって、瀬戸和真はどう考えたってあたしに惚れているはずなのに、そんなそぶりをまったく見せなかったのよ? それどころか簡単に握手を済ませて、なんでもないようにすかした態度で去っていったのよ? 驚天動地以外のなにものでもないわ!」
「驚天動地とか今日日聞かない言葉だね」
「今日日って言葉だって今日日聞かないじゃない。とにかく瀬戸和真はなにか怪しいのよ。今日、別の男の子から告白されて再確認したわ。あの子みたいな初心な反応こそ正しいのよ。完全な美少女たるあたしに対しての正常な挙動なのよ!」
「そりゃ、前提が違うんでしょ。その男の子は亜麻に惚れてたからだけど、瀬戸は亜麻に惚れちゃいなかったからってわけ」
「なに言ってるのよ真子。瀬戸和真は男子なのよ? あたしに惚れないわけないじゃない。面白くないギャグはよしてよ」
「亜麻のポジティブさの方がよっぽどギャグなんだけど」
「なんですって?」
「なんでもないですって。まあ、亜麻のラブルジョワ的感覚は置いとくとして、瀬戸が亜麻にとってイレギュラーな存在なのはよく分かった」
「そうでしょう? さすがはあたしの親友ね」
「でもこの場合、惚れていない以外に理由なんて見当たらんじゃん」
「いいえ、惚れていないって線は考えづらいわ。理由は前述の通りよ」
「単に認めたくないだけじゃね? 自分になびかない男子がいるってことを」
「そんなことないわ。あたしはただ真っ当に、真実を解き明かそうとしているだけなんだから」
「じゃあ聞くけど、瀬戸が亜麻に惚れてるって証拠があるわけ? さっきの話の通りだと微塵もなさそうだけど」
「確かにそうね。今のところ、星はまったくぼろを出していない」
「星とまで言い出したかい」
「だけど、瀬戸和真は間違いなく、あたしに好意を抱いているわ。それはこれからの居候生活の中で必ず明らかにしてみせるつもりよ」
「どうでもいいけど、なんか趣旨変わってない?」
「あたしの見立てだと、瀬戸和真は素直に来ないタイプの人間だと思うのよ。照れを見せるのを嫌う部類の男ということ」
「あー、この冷凍ハンバーグおいしー」
「本来ならあたしほどの美少女と握手でもしようものなら、あの手のタイプでも照れを隠し切れないはずだけど、……瀬戸和真は中々の手練れね。今のところ、照れ隠しに一切の淀みがない。照れ隠し検定一級レベルの男と見ていいわ」
「そんな検定あんの? 初耳」
「あるわけないでしょう。ものの喩えよ」
「さいですか」
「でもまあ、ぼろを出すのも時間の問題ね。なにせあの手の男には、致命的な弱点●●があるんだから」
「弱点?」
「いえ、弱点なんて、大層に言うものでもないのでしょうけどね。男なら誰しも持ち合わせている要素、――その度合いが、あの手の男は強いってだけ。そこを狙い撃ちすれば、あたしに惚れている証明になるはずよ」
 きっぱりと、亜麻は言い切る。
 同じ頃、昼休み終了五分前を告げる予鈴が鳴った。閉め切られた室内にいる二人の耳にもかすかに聞こえてくる。
 真子は「ふぅん」と言って弁当を閉じ、
「よく分かんないけど、亜麻には亜麻の考えがあんだね」
「もちろんよ。誰がこのまま迷宮入りにさせるものですか。必ず真相を突き止めて、あの男の本性を暴いてみせるわ」
「正義は我にありって顔だね。今時イマドキ」
「とりあえず、この話はまた一週間後にでも経過報告するから。楽しみにしていてちょうだい」
「はいはい。またちゃんと聞いたげるから。でも今度は、も少しゆっくり弁当食べさせてほしいね」
「今に見てなさい瀬戸和真。あなたがあたしに惚れているって証拠、絶対に見つけ出してみせるんだから」
 無駄に意気込む亜麻の耳に、真子の忠告はまったく届いていなかった。


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▼最終話


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