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ブラックボックス・ラヴァーズ / 長編小説 -2-

▼前話(第1話)


 瀬戸家で居候を始めて、三日。
 この間に、亜麻はこれまでなんの興味もなかった、瀬戸和真という男子について軽く調査した。
 瀬戸和真、亜麻と同じ高校二年生。クラスは隣。
 二年生にしてバスケ部のエース的存在らしく、スタイルもよくてルックスも精悍。口数は少ないが性格は優しいらしく、女子受けもいいとのこと。人間性について悪く言う生徒は一人もいなかった。
 家族構成は父、母、妹がいる四人家族。ただし父親は単身赴任中らしく家にはいない。この不在中の父親が亜麻の父親と知り合いで、亜麻の居候を快諾した人物だと聞いている。が、亜麻も会ったことはないため詳しくは知らない。
(今のところ、分かっているのはこれだけかしら……特に不審な点は見当たらないけど、妙な気もするわね)
 亜麻は少し不思議に感じていた。
 現時点では、瀬戸和真の本性が見えてくるほどの情報は得られていない。女性受けはいいという話は聞けど、恋仲にある女子がいるという話は聞かない。
 無論、瀬戸和真が誰と付き合っているかなどどうでもいいが、バスケ部のエースでそれなりに人気のある男子に彼女がいないのは、やや納得がいかない気もした。あまり女子に興味がない人間なのか、あるいは学校の誰にも気づかれないように付き合っている相手でもいるのか。
 もっと多くの生徒に聞いて回るなどすればいいのかもしれないが、それはあまり得策とは呼べなかった。気があると思われるのは御免被りたいし、居候の事実が公になるリスクもある。たかが一人の男子を相手に危険な橋は渡りたくない。
(やっぱり、生活する中で本性が分かるような機会を待つ以外にないのかしら……気の長い話ね。好きじゃないわ)
 と、物思いに耽っていた時。
「亜麻ちゃん、どうかしたの?」
 声を向けられ、亜麻はハッとなる。
 顔を上げると、目の前に座っている奈々子が心配そうな顔をしていた。
「味噌汁、お口に合わなかった?」
「いいえ、とってもいいお味です」
 そう取り繕って、味噌汁をすする亜麻。
 その様子を見て、奈々子も「よかった」と安堵したようだった。
(いけない、今は食事中だったわ……)
 反省しつつ、亜麻はちらりと食卓を見回す。
 奈々子は向かいに座っている。その隣では結奈がゆっくりと箸を進めている。時折亜麻と目が合うと、気まずそうに目を泳がせたり俯いたりしている。
 そして、――亜麻の隣には、瀬戸和真が座っている。
 これがここ数日の、瀬戸家のスタンダードな食卓だった。
「和真、おかわりはいい?」
 と、奈々子が訊くと、
「じゃあ、頼む」
 と、和真が茶碗を手渡す。
 瀬戸和真は細身の割に大飯食らいで、いつも三杯以上おかわりしている。
 部活で消費したエネルギーを補給するためだろう、と亜麻は分析していた。
(って、そんなことはどうでもいいのよ)
 和真を横目に、亜麻の内心はどこか恨めしい思いだった。
(この男、隣に座っているあたしには目も暮れず、ばくばくとバカみたいに食べてばかりで、毎度毎度アホみたいにおかわりして。少しは恥ずかしいとか、はしたないとは考えないのかしら……)
 不機嫌さばかりが募る。
 そんな様子に気づくそぶりもなく、和真は先ほどおかわりしたばかりのご飯すらも平らげようとしていた。
(いいえ、冷静に考えるのよ亜麻。これも瀬戸和真なりの照れ隠しに違いないわ。味覚に全神経を集中させることによって男としての昂ぶりを抑えるという……そうでもなければ、あたしの隣に座っていて平然としていられるはずがないじゃない)
 と、自分を納得させていた時。
「あ、そうだわ亜麻ちゃん。今日届いた荷物のことなんだけど」
 奈々子が、思い出したように言った。
「なるべく早く片付けてもらっていいかしら。あのままだとお掃除もできないから」
 瀬戸家の玄関には、亜麻の私物が入った段ボール箱が積まれたままになっている。
 今日の夕方に届いたばかりではあるが、できるだけ早く片付けなければ、と亜麻も思っていた。
「はい、分かっています。なるべく早く片付けますので」
「そう? でもあの量を一人じゃ辛いでしょうから……和真、手伝ってあげたら?」
「ん?」
 奈々子に提案され、食事に夢中だった和真が顔を上げる。
「なんの話だ?」
「亜麻ちゃんの荷解きの話よ。玄関に段ボール箱が積まれているの、気づいているでしょ?」
「ああ、あれか」
「あれ全部、亜麻ちゃんの引っ越し荷物なのよ。和真、運ぶ手伝ってあげたらって」
 説明を受けると、和真は「ああ」と低い声を出し、
「確かに、一人じゃ大変そうだな。手伝おう」
 と、隣にいる亜麻を見てくる。
 その瞬間――、
(遂にぼろを見せたわね、瀬戸和真!)
 亜麻の脳内に電流が走る。
(大変そうだからですって? いいえきっと違うわ。瀬戸和真、あなたはあたしに恩を売りたいのでしょう? 格好いいところを見せてポイント稼ぎをしたいのでしょう? それであわよくば、逆にあたしを惚れさせたいと思っているのでしょう?
 きっと奈々子が手伝うように仕向けてくることも計算の内だったんだわ。長年一緒に暮らしているのだもの、母親の思考パターンくらい熟知しているはず……ふふっ、見え見えの魂胆よ。やはりこの男、あたしに気があるのね!)
 亜麻はにやつきそうになる頬をぐっと堪え、
「いいえ、大丈夫よ。あれくらいなら一人でも問題ないから。どの箱もそんなに重くはないし」
 と、遠慮の微笑を浮かべて誤魔化す。
「大丈夫なの、亜麻ちゃん?」
 奈々子が心配そうに確認してくる。
 亜麻は「はい」と頷き、
「瀬戸君は部活で疲れてるでしょうし、それにあれは自分の荷物ですから。ちゃんと自分で運び入れる責任があると思いますので」
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……」
 やはり不安が眼差しのままの奈々子。
「しかし数もあるし、一人で階段を何往復するより早いと思うが」
 和真も、やや不思議そうな声で忠告してくる。
 その反応で、亜麻は俄然得意げになる。
(あら、瀬戸和真も意外に食い下がるわね。そうまでしてあたしにいい格好したいのかしら。それともなにか別の理由でも……ほかになにか、荷物運びを手伝うことによって生じるメリット……ハッ!)
 ――亜麻は一つの結論に辿り着く。
(そうだわ、荷物運びを手伝うということは、この男があたしの部屋に入るということ! ごく自然に、合法的に!)
 亜麻の心が一気にざわつく。冷や汗がどっと額に噴き出した気がした。
(男って、なんて怖ろしい生き物なのかしら。まさに一石二鳥の所業。きっと思考回路が性欲で作られているんだわ……)
 と思いつつも、亜麻はすぐに心を落ち着かせる。
(だけど、……そうよね、あたしのような美少女の部屋に入る機会なんて十二回生まれ変わって一回あるかどうかってレベルでしょうし、そりゃあ必死に食い下がりたくもなるわよね。まったく、あたしも罪な女だわ)
「どうした、急に黙り込んだりして」
 と、訊ねてくる和真。
「いえ、なんでも」
 亜麻は微笑みを向けて取り繕い、
「とにかく、荷物は私一人で大丈夫だから。気持ちだけもらっておくね」
「……そうか」
 短く告げると、和真は再び箸を進め始める。
(これで、真子に報告できることが一つ増えたわね。でもこれだけじゃ不充分だわ。もっと明確に、この男があたしに惚れている証拠を見つけてやるんだから)
 密かに笑みを堪えつつ、亜麻も皿に残っていたおかずを口へ運んでいく。
(それと、荷物も運んでしまわないといけないわね。今晩中に、部屋に並べるまでできればいいけれど……)


 結論から言うと、今晩中に運び込むのは無理のようだった。
 どの箱もそんなに重くはない、というのはもちろん亜麻の出任せで、実際はどの箱もかなりの重量だった。段ボール箱を三つ部屋に運んだ時には、亜麻の非力な腕は限界を迎えていた。
(ぐぅ、さすがに、辛いわね)
 三つ目の段ボール箱を部屋に運び入れ、大きく息を吐く亜麻。きめ細かな肌にはじとりと汗が滲んでいる。
 スタイルを維持するために必要なトレーニングは行っている亜麻だが、それでも華奢な乙女に違いはない。
 一人ですべての荷物を運ぶには、彼女の腕はあまりに細過ぎるのだった。
(結局ほとんど運べなかったわね……厚意を無下にしておいて、情けない話ね)
 想像以上の疲労感にまた大きな溜め息をつく。つき切った末、今日はもうお風呂に入って休むことにした。
 洗面所を兼ねた脱衣所に入り、戸を閉め、手際よく衣服を脱いでいく。
 一糸まとわぬ姿になって風呂場に入った瞬間、縦長の鏡面に自身の裸体が映り込み――亜麻は自信たっぷりにほくそ笑む。
(いつ見ても完璧なスタイルだわ……学校の男子たちが言い寄ってくるのも無理ないわね)
 細い腕、すらりと伸びた足。
 お椀をそのままひっくり返したかのような、張りのある乳房。
 贅肉のない腰つき、健康的に膨らんだ臀部に至るまで、まさしく微に入り細を穿つほど研ぎ澄まされたヴィーナス像のような肉体美――。
 と、亜麻は自己評価している。
(まあ、持って生まれた資質に加えて水火も辞せず努力しているんですもの。これくらいの体になるのは当然でしょうけどね)
 ひとしきり自得したのち、普段通りに体を洗い、湯船に浸かった。
 先ほどまで荷物を運んでいたせいか、疲弊感がずんと意識を朦朧とさせる。
 できることなら早く風呂から上がり、ベッドに寝転びたい気分だった。
 が、――亜麻は懸命に眠気を堪えた。
(ダメよ亜麻! 挫けちゃいけない)
 そう自分に言い聞かせ、唇を噛み締める。
 亜麻はあまり、長風呂が好きなタイプではない。極めて常識的な入浴時間の女子高生である。
 しかしこの日、彼女はあえて長風呂をすると決めていた。
 その理由は――、
(きっともうすぐ、瀬戸和真が覗きに来る●●●●●はずなんだから)
 というわけである。
(あたしは学校一の美少女であり、男子から見て眼福なスタイルを持つ女子高生。そんな女の子が、無防備にも裸を晒して湯船に浸かっているんだから……一般的な男子高校生なら、覗きの一つでも犯すのが道理ってものだわ)
 この必然的道理を誘発させることこそ、亜麻が学校の資料室で真子に語った秘策の一つでもあった。
(照れを隠すタイプの男というのは、言ってしまえばむっつりスケベの隠れ好色なのよ。好意を表に出したがらないからこそ、卑劣かつ狡猾な手口で欲望を果たそうとしてくるに違いないわ)
 静かに微笑みながら、亜麻は時が来るのを待った。
 瀬戸和真が自分に惚れていることの、確固たる証拠――。
 それを手に入れるために。
(さあ、あの男はどんな手を使って覗きに来るのかしら。こっそり来るか、ハプニングを装って正面から突入してくるか、はたまた窓か壁に風穴を空けて覗き込んでくるか……。
 どんな手口だって、必ず見抜いてやるんだから!)


 結論から言うと、瀬戸和真は覗きに来なかった。
 脱衣所に誰かが入ってきた気配はなく、外から覗かれたような形跡もなかった。
(とんだ空振りだったわ。絶対に来ると踏んでいたのに……)
 ドライヤーで髪を乾かしながら、亜麻は不満げな顔になる。
 限界まで湯船に使っていた彼女はやや湯あたりしていた。
 顔も茹で蛸みたく真っ赤になっていたので、ドライヤーの風をコールドにしてなんとか冷やそうとしていた。
(これじゃあまるで自滅したみたいじゃないのよ! 無駄に長風呂して気分悪くなって、あたしは一体なにがしたかったのかしら……)
 思わず、眉間にしわが寄る。
 そんな顔が鏡に映ったのを見て、亜麻はハッとかぶりを振った。
(ダメだわ、悲観的なったら。あたしは凄く可愛いんだから。こんな顔をしてしまったらダメ、台無しになっちゃう。
 きっと今夜は運が悪かったんだわ。そうよ、いくら瀬戸和真が同い年の男子だからって、年中お猿さんってわけじゃないわよね。今日はたまたま、偶然、覗きに行こうって気にならなかっただけよ。性欲お化けの男子高校生だってそういう日が一年に一度くらいはあるものよ。
 それとも恐れ多過ぎて覗きに来られなかったのか、あるいは現物よりも想像で楽しむ方が好きなタイプとか……うん、それらの線もありうるわね。むっつりスケベの行動パターンについて、もう少し真剣に考えるべきだったかもしれない)
 自分に言い聞かせるように頷く亜麻。ドライヤーを片付け、鏡でもう一度身だしなみを確認してから脱衣所をあとにする。
 廊下に出て、玄関そばにある階段を上がろうとした際、――異変に気づいた。
(あら? 段ボール箱が……)
 たったの、一箱しかない。
 亜麻は首を捻った。先ほど自分で三つは運んだが、まだいくつか残っていたはず。それが今は、たったの一箱しか置かれていない。
 どういうことか、と考え込んでいると、二階から和真が下りてきて、
「ああ、藤堂さん。風呂、上がったのか」
 と、声をかけてくる。
 和真の両手には軍手がはめられていて、額がわずかに汗ばんでいた。
「あと一個で運び終わる。藤堂さんはゆっくりしているといい」
「瀬戸君……もしかして、残っていた分、全部運んでくれたの?」
「全部じゃない。あと一個、残ってる」
 揚げ足を取るように言うと、和真は亜麻の横を通り抜け、ぽつんと残っていた段ボール箱を抱え上げる。
 そのまま二階へ戻ろうとする和真のあとを、亜麻はおもむろに追い、
「どうして? 私、自分で運ぶからって……」
「藤堂さんが苦労していたように見えたから。試しに一つ持ってみたら結構重かった。女の子が一人で運ぶのは危ない」
 亜麻の部屋の前まで着くと、和真は段ボール箱を下ろした。ほかの段ボール箱もすべて壁際に積まれていた。
「これで全部か」
 一息つき、シャツの裾で額の汗を拭う和真。
 ちらりと見えた彼のお腹には、細いなりにも六つに割れた綺麗な腹筋があって、亜麻は少しだけドキッとした。
(なによ、こいつ。意外といい体してるじゃない……)
 そういえば、バスケ部のエースなどと言っていただろうか。
 考えてみるとなるほど、筋肉質なのは当然かもしれない。
(でもこんな、見せびらかすみたいに……少しは恥じらいというものがないのかしら。それとも、運動部ってみんなこういうものなのかしら。あたしが必要以上に気にしているだけ……?)
 次第に頬が熱くなっていく亜麻。
 そんな彼女の狼狽に気づくこともなく、和真は「どうかしたか?」と訊ねてくる。
 亜麻がじろっと目を向けると、さすがの和真も申し訳なさそうに笑い、
「すまん、余計なお世話だったか」
「いいえ、そんなことないわ。とても感謝しているもの」
 亜麻は慌てたように答える。
「ならよかった。藤堂さん、自分の荷物を勝手に触られると、嫌がるんじゃないかとも思っていたから」
 いくらか安堵したように言うと、和真は踵を返し、
「じゃあ俺はこれで。俺も風呂に入るから」
「ま、待って、瀬戸君」
 亜麻はやや、震えた声で呼び止め、
「もしよかったら、部屋の中に入れるのも手伝ってくれないかしら?」
「え?」
「一度は無下にしておいて、今更頼める筋合いじゃないのは分かっているんだけど……やっぱり、一人だと難しいって分かったから。お願いできないかしら?」
「それは、構わないが。本当は部屋の中まで運ぼうと思っていたから」
「じゃあ、どうして廊下に?」
「今は、藤堂さんの部屋だ。無断で入るのはよくないと思った」
(それはその通りよ。無断で入っていたら絶対に許さなかったわ!)
 という本意は心の内に留め、
「ふふ、瀬戸君は気遣い屋さんなのね。大丈夫よ、今は荷物を運び込むお手伝いをしてもらうためだし、元々は瀬戸家の部屋なんだから。遠慮なく入って――」
 と、亜麻が無警戒にドアを開けた時。
 部屋の中のベッド上に、脱ぎっ放しにしていたセーラー服などが目に入り、亜麻は慌ててドアを閉じた。
(チッ、まずったわ! 部屋の模様替えを済ませてから片そうと思っていたから……まさかこの男、見ていないわよね……?)
 焦りを滲ませた顔で、恐る恐る和真に目を向ける亜麻。
 しかし悲しいかな、彼も室内の様相が見えてしまったらしく、
「……俺、結奈に風呂、先にいいぞって言ってくるから」
 不器用な口調だった。和真なりに時間を与えるための気遣いなのだろう。
 亜麻は思わず顔を赤くし、
「そ、そうね。ごめんなさい、私も少し部屋を片付けておくから」
「ああ、じゃあ、ちょっと待っててくれ」
「あ、それとね、瀬戸君」
 踵を返そうとした和真を呼び止め、
「できれば、荷物を運び入れたあとも少し手伝ってほしいの。組み立て式の棚とか、すぐに並べておきたいものもあるから……」
 めずらしく、亜麻はおずおずとした物言いになる。
 和真はわずかに呆けていたが、すぐに理解した面持ちになり、
「分かった。それも手伝おう」
 と、いつもの落ち着いた声で快諾してくれた。


▼次話(第3話)


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