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ブラックボックス・ラヴァーズ / 長編小説 -8-

▼前話(第7話)


 真子に啖呵を切ってから、およそ二週間が過ぎた頃――。
(そろそろ、獲れ頃といったところかしら)
 誰よりも早く瀬戸家に帰ってきた亜麻は、一人密かにほくそ笑んでいた。
 素早く二階へと上がり、自分の部屋にスクールバッグを置く。
 それから彼女は、――瀬戸和真の部屋に侵入し、十日ほど前に取りつけていた隠しカメラ●●●●●を回収した。
(まさかあたしの方が、こんな手段を取ることになるなんてね……他人の部屋にカメラを仕掛けるなんて、気が引けるなんてものじゃないわ。だけどこれも、瀬戸和真が本当に異常性癖者かどうか確かめるためよ。仕方のないことなのよ)
 これこそ、亜麻が真子に話していた方法。
 瀬戸和真がロリコンか否かを調べるための秘策だった。
(そもそも他人の性癖なんて、そうそう明らかにできるものではないわ。親しい仲間内でもひけらかすことのないとてもパーソナルな情報でしょう。しかもそれがロリコンという、社会的タブーに抵触しかねない嗜好なら殊更にね。
 じゃあどこでなら自分の性癖を曝け出すのか。――これはもう、自分の部屋以外にありえないわ。本来であれば誰にも見られることなく一人になれる空間ですものね……)
 小型カメラを回収した亜麻は、自分の部屋へと戻ってパソコンを立ち上げる。
 他人のプライベートを盗み見る――それが非合法な手段であることは、亜麻も重々承知の上だった。
(本当はただ部屋に忍び込んで、あの男の性的嗜好が分かるような物的証拠を見つけられればよかったんだけど……そこはさすがに現代っ子といったところかしら、卑猥な本一つ見つからなかったわ。ネットの情報だと、最近はネットにもいやらしい画像や動画は転がっているし、電子書籍だってあるから、性的なコンテンツはすべてスマホで賄えるらしいわね。瀬戸和真も恐らくそうなのでしょう。つくづく用心深い男だわ)
 瀬戸和真の部屋にある本はバスケ関係かファッション誌、数冊の参考書くらいで、亜麻が期待するような本は見当たらなかった。
 強いて言えば、ファッション誌の中にはグラビアアイドルの広告ページがあったりもしたが、その程度では性的コンテンツとは呼べないだろう。
(あの程度のグラビア広告で、思春期の無尽蔵な性欲が解消されるとは到底思えないわ。それに広告の子たちはスタイルや雰囲気もバラバラで、特定の性的嗜好に偏っているわけでもなさそうだった。そういうページだけ開き癖がついているわけでもなかったし……となるとやっぱり、スマホを通して楽しんでいるのでしょう)
 いくらなんでもスマホの中身を覗き見ることはできない。和真のスマホは常に、和真の手中にある。仮に放置するタイミングがあるとしても、検索履歴などを調べられるほどの時間は得られないだろう。パソコンの時と同様、パスコードをかけている可能性もある。
 となればもう亜麻にできることは、実際にスマホで性的コンテンツを楽しんでいる瀬戸和真の姿を盗み見ることだけ。
 すなわち、隠しカメラを部屋に設置することであった。
(それにしてもまさか、カメラ探知機のテスト用に買っておいた小型カメラが、こんな形で役立つ日が来るなんてね……ちゃんと撮れていればいいのだけど)
 USBケーブルを用いて、カメラをパソコンに繋げてみる亜麻。
 まもなくカメラの内臓メモリに収納されたフォルダが表示される。中には一時間ごとに区切られた動画データが記録されており、およそ十日分ともなると夥しいほどの数だった。
(これ全部、瀬戸和真のプライベートなのよね。本来なら絶対に覗き見てはいけないプライベート……いいえ、今は考えないようにしましょう。早く確認するのが先決よ)
 明確な罪悪感を覚えつつも、亜麻は小さく深呼吸してから画面を見直す。
 一時間の動画データは一つで約400MBあり、十日分なら単純計算で100GB弱はある。カメラに内蔵されているメモリ容量が200GBのため、およそ半分はこの十日分の撮影データで占められていた。
(この日のために布石は打っておいたわ。わざと家を空けることを多くしたり、次の日の予定を家族が一堂に会す夕食の際に奈々子に伝えたりしてね。それで瀬戸和真もあたしが家にいない時間帯を把握できたはず。あえてそういう隙を作ってあげれば、性的コンテンツを楽しむ時間も増えることでしょう……あとはカメラを仕掛けた場所が適切だったかどうかだけれど、こればっかりは映像を見てみないことには分からないわ)
 亜麻がカメラを仕掛けたのはベッドライトの裏だった。あまりこまめに掃除していないのか少し埃かぶっていたため、滅多なことがなければ触られることはないだろうと設置場所に選んだ。
 また、もしも瀬戸和真が性的コンテンツを楽しむのであれば、恐らくベッドの上ではないかとも考えた。ベッドライトがある位置からであれば、瀬戸和真の体勢次第ではスマホでなにを見ているのかも把握できるのではと期待していた。
(ほとんど無人状態の部屋が映っているだけね……まあそれも当然かしら。瀬戸和真が部屋にいるのなんて、眠っている時間を除けばそこ数時間程度なんだから。一から全部見ていたんじゃ埒が明かないわね)
 時間の無駄だと思った亜麻は、動画サイトのようにサムネイルを表示させる方法はないかネットで調べてみた。
 その結果、フォルダ内のファイル表示方法を変更すれば可能であることを知る。これで瀬戸和真が室内にいる映像かどうか、サムネイルを見るだけで判別することができる。
 サムネイルはおよそ三つの状態に分類された。明らかに誰も映っていない部屋の画、和真らしき人物が寝そべっている画、それから真っ暗でほとんどなにも見えない画の三つである。真っ暗なのは消灯してしまっている間の映像だろう。
 亜麻はフォルダをスクロールさせながら、二百個以上あるファイルのサムネイルをチェックしていく。その中から和真がベッドに寝転がってスマホを弄っていると思しきシーンを再生してみたが、性的コンテンツを楽しんでいる映像は中々見つけられなかった。
(むぅ……スマホの画面は盗み見られる画角だけど、瀬戸和真が見ているのはバスケかバラエティ系の動画ばかりね。あまりにも健全過ぎるわ。もっと日常的に快楽に浸っているのかと思ったのだけど)
 徐々に焦り始める亜麻。盗撮という危険を冒しておいてたったこれだけの成果では、納得がいかない。
 しかしその時、映像の保存日時を見て、亜麻はあることに気がつく。
(……待って、待つのよ。今チェックした日と時間帯には、確かあたしも家にいたはず。もし瀬戸和真がそのことを警戒していたのだとすれば……そうよ、本当にチェックすべきなのは、あたしがいない日時に瀬戸和真が部屋にいる映像なのよ!)
 きらりと目を光らせ、再びフォルダをスクロールさせていく亜麻。
 今日までの十日間、亜麻はなるべく放課後は寄り道をして遅く帰るようにしていた。家にいない時間を極力作り、あえて隙を作るために。
 が、そもそも瀬戸和真は部活があるため、帰りが遅くなることが多かった。亜麻が寄り道をしたとしても、和真の方が遅いこともしばしばあった。
(だけど逆に言えば、部活が休みだった日であれば……その日なら間違いなく、あたしがいない日時に瀬戸が部屋にいた時間帯が発生するはずよ!)
 亜麻の記憶が正しければ、その日は確か二日前。
 データは古い順に並んでいるため、亜麻はかなり下の方までスクロールさせていく。
 そうして、保存日時が二日前のデータに差し掛かった時――、
(ん? なにかしら、この辺り……)
 これまでとは気色の違うサムネイル群が目に留まった。けれどサムネイルが小さいため、どういう状態なのか判然としない。
 亜麻は似たようなサムネイルの中から適当な時間帯の動画を選択し、おもむ ろ に   再   生  し て 











「なにを見ているんですか」












 聴覚器官に侵入してくる声。

 亜麻はハッと我に返った。

 目の前にはパソコンの画面。

 映像が流れている。

 亜麻が隠しカメラで盗撮した映像。

 気づけば、十五分ほどのところまでシークバーが進んでいる。

「なにを、見ているんですか」
 再び、声。ドアの方から。
 振り向くと、――結奈がいた●●●●●
 制服姿で、スクールリュックを背負ったままの結奈が。
 いつの間にか部屋の中に入ってきていて、ドアの前に立っていた。
「ゆ、いな――っ」
 そう呼んで、亜麻は自らの声に違和感を覚えた。
 どうしてか掠れているのだ。まるで起きたばかりのように潤いのない嗄声。
「…………」
 亜麻からの呼びかけに対し、なにも言わない結奈。ジッと亜麻を見つめている。
 その視線にある感情は、――紛れもない憎悪。
「ゆい、な……っ」
 再び、声を出す亜麻。またしても首を絞められたような、尋常ではない声。
 室内には動画の音声が響いている。パソコンのスピーカーから流れ続けている。
 ――ゆっくりと、結奈が近づいてくる。
 呆然とする亜麻の隣までやってきて、パソコンの画面を覗き込んでくる。
「なんですか、これ」
 そう訊ねて、結奈は微笑む。
 吐息が亜麻の耳朶に触れて、ぞくりとする。
「ねえ、――なんなんですか、これ?」
 パソコンを指差す結奈。操られたように亜麻も視線を戻す。
 画面に映し出されているのは、
 瀬戸和真から貪るように体を犯されている、
 結奈の姿だった。


「どうしてあなたが、こんな動画を見ているんですか?」
 普段とは違う、低い声だった。
 それが結奈の口からこぼれたものとは思えないほど――。
 亜麻はなにも返答できず、ただ呆然とパソコンの画面を見つめていた。
 結奈が、実の兄であるはずの和真からレイプされている映像。
 ベッドの上で、獣のように絡み合っている二人。
 あまりに過激な映像に、亜麻の思考はフリーズしていた。スピーカーから流れる音声、――結奈の淫らな喘ぎ声や、ベッドが激しく軋む音が、亜麻の聴覚器官にまとわりついていた。
「ねえ、――質問に答えてよ。どうしてこんな動画、見ているの? どうやって撮ったの?」
 そっと、亜麻の両肩に手を添えてくる結奈。
 長い爪が肌をなぞり、亜麻を体の底から震えさせる。
「ねえ、ねえ。なんでもなにも答えないの? なんで黙ってるの? 聞こえないの? こんなに近くで訊いてるのに。ねえ、ねえってば、ねえ」
 徐々に、徐々に。
 肩に立てられた爪が角度を変えていく。指に込められた力が強くなる。
「盗撮だよね。これ」
「いッ……!?」
 皮膚をえぐられ、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
 亜麻はとっさに結奈と目を合わせ、肩にのせられた手を振り払おうとする。
 が、――結奈は離そうとしない。
「ようやくこっち、向いたね」
 次の瞬間、――亜麻の天地がひっくり返る。
 結奈に両肩を掴まれたまま、椅子ごと床に叩きつけられる。
 その勢いのまま、亜麻の体の上に結奈が覆い被さってくる。
 まるで動画の中で、瀬戸和真が結奈にしているように。
「ねえ、答えてよ」
 結奈の真黒い髪、その鋭い毛先が亜麻の頬を撫でる。
 その間に垣間見える表情は、微笑んでいるようにも睨んでいるようにも見えた。
「なんであんなの撮ってるの。なんであんな動画持ってるの。なんのためにこんなことしたの。ねえ、ねえってば」
 次第に声音を強め、結奈はそっと亜麻の喉元に手をかける。
 その細い指先にぎゅっと、力が込められる。
「ぎっ……!」
 自らの首を絞められたことで、亜麻はようやく確信を得る。
 結奈が自分に向けてきている感情、――明確な殺意によって構成された憎悪を。
「は――離して!」
 亜麻はとっさに結奈の腕を掴み、振り解こうとする。
 のしかかられていたため一筋縄ではいかなかったが、結奈の体重が軽かったこと、腕力では亜麻が勝っていたことが功を奏し、逆に突き飛ばすことに成功する。
 結奈は鈍い音と共に、床の上にへたり込み、
「…………」
 立ち上がった亜麻を、恨むような目で見上げる。
 ――ぞっとするほど冷たい眼差しだった。
「……なんで、こんなことをですって? それはこっちの台詞よ!」
 亜麻は震える指先をパソコンの画面に向け、
「なによ、これ。一体どういうことよ。なんであなたが、瀬戸和真に犯されて……」
「犯され、て?」
「ええそうよ、こんなの犯罪じゃない! 強姦じゃない! 部屋の中でこんな、一方的に……それも、実の兄妹でなんて!」
「違うよ、全然違う」
 結奈は薄らと笑みを浮かべ、否定する。
「結奈は犯されてなんかいないよ。だって全部、――結奈が望んだことだもん●●●●●●●●●●●
「え……?」
「お兄ちゃんはね、優しい人なの。誰よりも格好よくて、誰にでも優しくて、誰からも好かれちゃう……たくさんの悪い虫からも」
「悪い虫、ですって……?」
「そうだよ。お兄ちゃんに言い寄ろうとする虫、お兄ちゃんに色目を使って誑かそうとする虫たち、――結奈からお兄ちゃんを遠ざけようとする、悪い害虫たちのことだよ。分かるでしょ?」
 あらん限りの侮蔑を孕ませた双眸。
 深い憎しみに満ちた眼差しが、亜麻の姿をはっきりと捉えている。
「だから全部、結奈が追い払ったの。お兄ちゃんの視界から取り除いてあげたの。みんな、お兄ちゃんと結奈にとっての害でしかなかったから……あなたも、その内の一匹」
 蠱惑的な声で笑う結奈。
 あどけなさが残る顔には似つかわしくない、妖艶な響きを帯びた声だった。
(追い払った、取り除いたってですって? それじゃあまさか……) 
 亜麻の脳裏にふと、二週間前の出来事がよぎる。
「安達真奈も、その一人だというわけ?」
 そう問いかけられると、結奈はまた目つきを鋭くし、
「知ってるんだ、あの女●●●のこと。誰に聞いたの? まさかお兄ちゃんからじゃないよね。……もしかして、あれを見たの? 結奈が隠してた、USB」
「じゃあ、あのブラックボックスというのも……」
「そっか。見ちゃったんだあれ。凄いね、ちゃんとパスワードかけてたのに。もしかして、ノート●●●の方も、見たの?」
「ノート……?」
 なんのことか、亜麻には分からない。
「そこまでして見たかったんだ……結奈たちのこと、知りたかったんだ」
 あははっ――と、再び笑う結奈。
 禍々しい微笑みが、亜麻の表情をいっそう強張らせた。
「あれは……あのファイルは、一体なんなのよ! あたしの名前まで……それに、あの記号も」
「知りたい? ――あははっ、でも教えてあげない。もうこれ以上、なんにも」
「なっ――」
「だってもう、全部見ちゃったじゃん。結奈たちの全部。愛し合ってるとこ、全部ゼンブ」
「愛し合っているですって? なに言ってるのよ、あなたたちは兄妹でしょう? おかしいじゃない。こんな、こんな関係って……」
「分かってるよ、そんなこと。だから誰にも言わなかった」
 ゆらりと、結奈は立ち上がり、
「近親相姦って言うんでしょ? 漫画で読んだよ、こんなことしちゃいけないって。分かってるよ。だからずっと隠してきた。外では普通の兄妹だった。結奈とお兄ちゃんが愛し合うのはあのお部屋でだけ。お兄ちゃんのお部屋でだけ。誰にも見られない、知られない、開かれることがない箱の中だけで愛し合ってきたの。……それなのに、お前は」
 一歩ずつ、亜麻の方へと近づいてくる。
 獲物との距離を詰めるように。
「お前は――見た●●知った●●●開いた●●●。結奈たちの愛を、無断で盗み見たんだ」
 亜麻は思わず後ずさる。近づかれた分だけ遠ざかろうとする。
 けれど狭い部屋の中、限界が来る。
 背後の壁に背が当たり、これ以上逃げられないことを思い知る。
「許さない……」
 当惑する亜麻、――その眼前に、結奈の手が迫る。
「許さない、許さない、許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない
許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない……」
 呪詛のように呟かれる言葉。
 そうして結奈の指先が、再び亜麻の首元に触れようとした時。
「……愛、ですって? これのどこが、愛なのよ」
 やっとの思いで、亜麻は言った。
 結奈はぴくりと手を止め、
「……どこが?」
「ええ、そうよ。こんなの愛なんかじゃない……理性を失った獣同士の見境のない蛮行よ! それも兄妹でなんて、絶対に間違っているわ!」
「ばんこう? 間違ってる? あははっ、おかしい」
 結奈は一笑に付し、
「お前になにが分かるの? 結奈たちのこと、なにも知らないくせに……お前なんかどうせ、誰とも愛し合ったことないんでしょ? ねえ、そうなんでしょ?」
「そ、そんなことは……」
「ふふっ、ほんとに? ――じゃあ、試してあげるよ」
「え――っ」
 と、声を上げられる間もなく。
 亜麻の口は塞がれた――結奈の、薄い唇によって。
 瞳孔の奥まで開かれるほど、亜麻は大きく目を見開いた。けれど視界は定まらず、結奈の唇の感触と、化粧っ気のない甘い香りが鼻孔を満たす。
 抵抗はできなかった。結奈の唇は軽く甘噛みするように艶めかしく動き、その度に亜麻の体は徐々に力を吸い取られるようだった。
 結奈のキスは次第にエスカレートし、亜麻の唇を割って舌を滑り込ませてくる。口内の粘膜に触れると亜麻の全身に快感が突き抜け、喘ぎ声が喉の奥でかすかに鳴った。体の芯から震えているのが分かった。
 長い時間が経ったような気がした――ようやく唇越しの温もりが亜麻から離れる。刹那、自分と結奈の口元で唾液の糸がぷつりと切れるのが垣間見えた。
「気持ちよさそう。害虫のくせに」
 手の甲で強く唇を拭う亜麻。
 口元は妖しく微笑んでいたが、瞳は憎悪に満ちたままだった。
「こんなキス、初めてだった? ……それとも、キスそのものが、初めて?」
 亜麻はなにも答えることができない。
 体全身が蕩けているようで、感覚を取り戻そうとするのに精いっぱいだった。
 その沈黙を、結奈は肯定とみなし、
「あははっ! やっぱりそうなんだ。愛し合ったこと、ないんだ……だから分からないんだよ。蛮行なんて言っちゃうんだよ。こんなにも純粋に愛し合ってるのに。誰よりもお互いのことを想い合ってるのに」
 白い両手を胸元で固く繋ぐ結奈。
 夢の中を揺蕩うような、うっとりとした顔を浮かべ、
「お兄ちゃんだけなの。結奈のことを分かってくれるのは……ぎゅって抱き締めてくれるのは。お前は悪くないって言ってくれるの。
 ……そうだよ、結奈はなにも悪くないの。全部あいつらが悪いの、結奈はなにも悪いことしてない。結奈は被害者だもん。なにもかもあいつらが悪いんだよ。だからお兄ちゃんが、結奈のことを慰めてくれたんだよ」
「な、なにを言って……」
 ようやく、声を出すことができた亜麻。
 結奈は聞く耳を持たないよう笑みを浮かべたまま続ける。
「だからね、結奈もお兄ちゃんを愛そうと思ったの。ずっと一緒にいて、悪い虫を追い払って、その分、結奈がお兄ちゃんの愛を受け入れてあげようって思った……ほら、ねえ、綺麗なお話でしょ? 純粋な愛でしょ? それがお前には分からないんだよね。ふふふっ、――可哀そうな人●●●●●●
「……ッ」
 冷笑する結奈を見て、亜麻は確信してしまった。
 ――これ以上はもう、ダメだと。
 この子の前にいてはいけない、関わってはいけないと。
「――嫌ッ!」
 亜麻は無意識に、結奈の体を突き飛ばした。また鈍い音が室内に響く。
 その隙に立ち上がり、パソコンからケーブルごとカメラを抜く。床に置いていたスクールバッグに突っ込み、急いで部屋を飛び出した。
 結奈の蠱惑的な眼差しから、一刻も早く逃れるために。
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない――」
 呪詛のように続く低い声が、耳朶の奥でずっと鳴り響いていた。


「亜麻、本気で言ってるの……?」
 と、半信半疑で訊き返してくる真子。
 亜麻は体をがくがくと震わせながら何度も頷き、
「ほ、本当よ……見たのよ、あたし。この目で確かに……」
 と、涙ながらに訴える。
 ――瀬戸家から飛び出した亜麻は、自転車で真子の家まで逃げてきていた。
 亜麻の尋常ではない様子を気取った真子は、亜麻を自分の部屋に通してなにがあったのかを訊ねた。しばらくの間、亜麻はすすり泣いてばかりだったが、呼吸が整い始めてようやく打ち明けることができた。
 隠しカメラを使って瀬戸和真の性癖を明らかにしようとしたこと、――その結果、パンドラの箱を開けてしまったことを。
「信じて、真子……あたしは、あたしは……」
「信じてないわけじゃないよ。今の亜麻の顔を見れば、嘘をついてないことくらい分かるから」
 真子はなだめるように言って、
「まさかあのクールな瀬戸が、裏では妹ちゃんとそんなことを……ということは、瀬戸が安達と別れたってのも」
「ええ……たぶん、結奈が……」
「原因ってことか。なるほど……にしても、亜麻が隠しカメラで盗撮なんてね。私が余計なこと言ったから……」
 確かに、カメラで部屋を覗き見るアイデアは、真子の言葉で思いついたもの。
 とは言え、それを実行に移したのは亜麻自身であり、真子が自責の念に駆られるようなことではない。
「それじゃああの日、安達は瀬戸の名前を聞いて怯えていたんじゃなくて……」
「ええ……恐らく、結奈の方ね」
 天真爛漫な雰囲気から一転、おぞましいものを思い出したかのような表情になった安達真奈。
 あの時亜麻は、瀬戸和真について訊こうとする前に――結奈の名前を先に出していた。
 よく考えてみれば、真奈の様子に異変が生じたのはその瞬間からだった。
「でも、本当にすべてが、妹ちゃんが望んだことなのかな?」
 ふと、真子が思いついたように言う。
「実は全部、瀬戸が妹ちゃんに強要して生まれた悲劇って線は考えられん?」
「どういう、意味……?」
「だって、妹が実のお兄さんを愛するなんて……そんな、漫画じゃないんだから。本当は、瀬戸は自分が原因で安達に振られて、その腹いせに、妹ちゃんを犯して……もしかしたら妹ちゃんは、瀬戸が自分の罪を正当化させるために、マインドコントロールされているだけかも――」
「や、やめて! そんな話、聞きたくないわ!」
「なんで? 亜麻が瀬戸のことを好きだから? 瀬戸が悪いって線を考えたくないってこと? だって亜麻が動画を見た時、妹ちゃんが瀬戸に犯されていたんでしょう? レイプしていたんでしょ?」
「分からない、分からないわそんなの! だってあたし、あんなの……キスだって、したこと、なかったのに」
「え――?」
 問い詰めていた真子の顔が凍りつく。
「なかったのにって、どういうこと? まさか、キスされたの? ……瀬戸結奈から?」
 亜麻は何度も瞬きをしたのち、やがて黙ったまま頷いた。
 真子はハッと息を呑むと、冷静さを取り戻し、
「分かった。亜麻の言う通り、瀬戸結奈はイカレてる。間違いなく」
 と、恐怖を滲ませた瞳で結論づけた。
「でも、だけど、実のお兄さんとなんて。異常としか言いようがないよ。常軌を逸してる。しかも亜麻にまで手を出そうとするなんて」
「結奈は、自分を被害者だって言っていたわ。どういう意味か分からないけど、自分はなにも悪くないんだって。だから慰めてもらったんだって……」
「被害者、――ということは、やっぱり」
「やっぱり?」
「私、亜麻に言われてたじゃん? あの文書について調べてって。時間ある時に色々と聞いて回ってたんだけど……半分くらいの名前が、中学生だったことが分かったんだよ」
「中学生……それってまさか」
「うん、瀬戸結奈と同じ中学。同級生だった。それで、文書の一番初めに書かれていた名前の子がさ、ギャルグループのリーダー的な子で。……クラスとかでも影響力があって、それから、かなり非道なことで有名なんだってさ」
「非道……」
「まあ中学生レベルのことだから、そこまで大それたことじゃないと思うけど。でもたぶん、瀬戸結奈は」
「いじめに遭っていたかもしれない、ということね……」
 亜麻の言葉に無言で頷く真子。
 あくまで憶測に過ぎない話、――だが、亜麻にも思い当たる節はあった。
(奈々子も言っていたわ。結奈は学校での話をほとんどしないって。それが引っ込み思案な性格だからじゃなく、いじめに遭っていたからだとすれば……)
「文書にあるほかの子の名前も、そのギャルグループ周りの子みたいだった。それ以外の何人かは、私や瀬戸と同級生か、近しい学年の子で……もしかしたら、瀬戸と関係があったり、多少なりとも仲がよかった子じゃないかと思う」
 真子は文書に関する推測を続けた。
「最初はなんで中学生の子の名前が、って思ったけど……瀬戸結奈が作った文書だったとしたら納得ね。あの記号のことも」
「え……?」
「たぶんだけどあれ、瀬戸結奈が恨んでる子の名前を書いたものだと思う。ファイル名はブラックボックスらしいけど、どっちかって言うとブラックリスト●●●●●●●って感じ。実際、◎がついていたのはそのグループのリーダー的な子と、瀬戸の元カノだった安達真奈と」
「あたし……ね」
「そう。明確な基準は分からないけど、亜麻は相当、恨まれてると思うよ。なにせ亜麻が瀬戸の家に居候に来ちゃったことで、瀬戸結奈は大好きなお兄ちゃんと愛し合う時間が減っちゃっただろうからね――瀬戸と愛し合うことは、絶望的な学校生活で傷ついた瀬戸結奈にとっては唯一の心の支えだった。至福のひと時だった。それを邪魔され続けた鬱憤が積もり積もって、今回のことで爆発しちゃったんだろうね。誰にも知られたくない、知られないはずの箱を無理やりこじ開けられて……」
 これもまた、ただの憶測。
 けれど亜麻にとっては、それが真実ではないかと思うほどの心当たりがあった。
(思えば初めて結奈と顔を合わせた時、あたしはまったく歓迎されていなかったわ。あれも人見知りされていたからでは、なかったということね……)
 あの時から亜麻は恨まれていた――疎んじられていたのだ。これ以上ないほどに。
 形容しがたいおぞましさによって体の震えが増す亜麻。
 見かねた真子がおもむろに腰を上げ、
「なにか飲みものでも持ってくるよ。逃げてきたんなら喉渇いてるでしょ」
「いえ、今は別に……」
「遠慮しなくていいよ。確か亜麻が好きな紅茶があったはずだから」
 気遣うように言うと、真子はいったん部屋を出ていく。
 ほどなく、アンティーク風のトレイにのせたティーセットを運んでくる。差し出されたカップから温もりに満ちた柑橘系の香りが立ち上っていた。
「はい、アールグレイ。お母さん曰くデカフェってやつらしいけど、味はたぶん美味しいと思うよ」
「あ、ありがとう……」
 素直に受け取りつつも、今は喉を通る気がしなかった――亜麻の首筋には、まだ結奈に掴まれた感触が残っている。殺意に満ちた眼差しは脳裏から離れることなく亜麻の手を震わせ、その度にカップとソーサーがかちかちと歯軋りのように音を立てる。
「どうしたの亜麻、飲まないの?」
「ごめんなさい……まだ少し、気が動転していて」
「なら、尚更飲んだ方がいいよ。気持ちも落ち着くと思うから」
「そうかもしれないわね……」
 気遣いを無下にはできず、亜麻はぎゅっと目を瞑って紅茶を口に含んだ。舌に触れると、亜麻好みの爽やかな味わいが口いっぱいに広がる。気づけばすべて飲み干してしまっていて、亜麻はふぅと息をついた。
「真子の言う通りだったのかもしれないわ。知らない内に喉が渇いていたのね……」
「美味しかった?」
「ええ。少しだけど、気持ちも落ち着いた気がするわ」
「そう。ならよかった」
 安心したように微笑むと、真子も手にしていたカップを口元で傾ける。
 久しく迎えた穏やかな時間だったが、それも長くは続かず――ポケットに入れていたスマホが振動すると、亜麻は現実に引き戻された感覚に襲われる。
 恐る恐るスマホを取り出して見ると、画面には『奈々子』の文字。
 亜麻は出るべきか迷ったが、真子が頷いているのを見て、通話ボタンをタップする。
『ああ、亜麻ちゃん。よかったわ繋がって。今どこにいるの?』
 奈々子の声は意外なほどいつも通りだった。どこか安堵しているような気配はあるものの、声から特段変わった様子は感じ取れない。
「ご、ごめんなさい……今は、友達の家で……」
『めずらしいのね、亜麻ちゃんがこんな時間までなんて』
「あ、その、泊まることになったの。急なことで申し訳ないんだけど……」
『そうなの? 本当に急な話ね……どうしましょう、ご飯が一食分余っちゃったわ。ああでも、たぶん和真が食べてくれるわよね。今日も部活で遅いみたいだし、お腹空かせてるでしょうから』
「ッ――」
 和真の名前を聞いて、亜麻は身の毛のよだつ思いがした。
 そんなことに感づきもしない様子で、奈々子は『それとね』と話を続け、
『亜麻ちゃん、結奈のこと知らないかしら?』
「え――」
『あの子も、家にいなくって。リュックはあったから一度は帰ってきたみたいなんだけど……亜麻ちゃん、どこに行ったか知らない?』
「し、知らない、わ……」
『そう……分かったわ。とりあえずお泊まりのことも大丈夫だから。お友達やそのお家の方のご迷惑にならないようにね』
「ええ……」
 電話が切れる。
 ――全身の震えは、とどまるどころか更に酷くなっていた。
「どうしよう、真子……あの子、捜してるんだわ、あたしのこと、今もずっと……捜し出して、あたしを殺す気なのよ! そうに違いないわ!」
「ちょっと亜麻、落ち着いて……」
「首、首を、絞められたのよ。掴まれて、爪を立てられて……そのまま、ぎゅって力が」
 と、思い出したくない感覚に身を支配されかけた時。
 再びスマホが振動し、画面に着信相手の名が表示される。

 ――【非通知設定】

 誰からの電話か分からず、亜麻は通話をキャンセルしようとする。
 しかし指が震え、誤って通話をタップしてしまう。

 ――『どこ?』

 聞き覚えのある、妖しい声。
 亜麻は思わずスマホを落とした――その拍子にスピーカーがオンとなったのか、相手の声が明瞭に響き始める。

 ――『ねえ どこ』

 ――『どこにいるの』

 ――『お話 しようよ』

 ――『無視?』

 ――『ねえ』

 ――『ねえってば』

 ――『ゆるさないから』

 ――『ぜったい ゆるさない ゆるさないゆるさない』

 ――『ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさゆるさないないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさな

 延々と繰り返し始めた、結奈の声。
 亜麻はもう聞いていられなかった。
「嫌、嫌ぁ……!」
 スマホを拾い上げ、今度は確実に通話をキャンセルさせる。
 それから真子のベッドに投げつけ、その場にうずくまった。
 そこにはいない誰かから目を背けるように。
「……きっと公衆電話からだね。この辺りだと、たぶん海浜公園前のボックス」
 真子はベッドの隅で震え続けていたスマホを拾い、無理やりに電源を切った。
「これで大丈夫だよ、亜麻。少なくともここにいれば瀬戸結奈には分からない。自転車だって見えないところに移動させてあるし、もし突き止められたとしても、私が会わせないようにする。――だから、心配しないで、亜麻」
 泣きじゃくる子供を慰めるように、真子は言う。亜麻の震える両肩に手を添えながら。
 真子の優しさに身を委ねた亜麻は、緊張と疲れからかくらりとするような眩暈に襲われた。ひとまず真子のベッドに横になり、体を休めることになった。
「ありがとう真子……少し、疲れてしまったみたい」
「大丈夫よ亜麻。なにがあっても私は亜麻の味方だから。今はゆっくり休んで」
 その言葉に、亜麻はいくらか気を落ち着かせ、
「ええ……もう、あの家には帰れないわね。帰りたくもない……」
「そうなったら、うちに来るといいよ。お父さんたちは私から説得するし。亜麻の両親にだって、やっぱり同い年の男子と同じ屋根の下は気を遣うから、とか言えばたぶん分かってもらえるでしょ?」
「そう、ね……そうさせてもらえるなら……」
 安堵した途端、強い眠気を覚え始める亜麻。
 朦朧とする意識の中で浮かんだのは、
 ――狂気にも似た表情で和真との愛を語る、結奈の姿だった。
(もし、あの子とまた会うことがあったら……あたし、どうすればいいのかしら)
 胸中で渦巻く不安。
 それを察したかのように、真子が亜麻の手をそっと握り、
「大丈夫よ、亜麻。大丈夫、大丈夫……」
 と、また宥めるように言ってくる。
 まるで結奈から受けた呪詛のような言葉を、優しく塗り替えてくれるかのように。
(本当に、よかった……真子がいてくれて……)
 親友の言葉に一縷の希望を感じながら、亜麻の意識は緩やかに溶けていった。


 その後、亜麻が結奈と会うことは、二度となかった。



▼次話(最終話)


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