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ブラックボックス・ラヴァーズ / 長編小説 -9(完)-

▼前話(第8話)


 雨粒が鬱々と、傘の表面を間断なく小突いている。
 もうすぐ六月が終わる。梅雨はまだ明けそうにない。
(本当に、なにもかも終わってしまったのね……)
 亜麻は見慣れた家屋の前に佇んでいた。
 洋風モダンの小綺麗な住宅。
 つい二週間ほど前まで、そこは亜麻の居候先――瀬戸家の家だった。
 しかし今では、生活感が失われ、外壁には空家を意味する看板が掲げられている。
「亜麻」
 聞き慣れた呼び声が雨音の間隙を縫った。
 声の主は真子だった。数日前まで中間服だった真子も、今日は亜麻と同じセーラーワンピースの夏服に身を包んでいる。
「随分朝早く出たと思ったら、こんなとこでなにしてんの」
「真子……」
「捜すの苦労したんだけど。ラインも返してくれないし」
 どこか責めるような口調だった。亜麻は傘をわずかに傾けて視線を逸らす。
 真子は傘の中で小さく溜め息をつき、亜麻の隣まで近づいてきた。
「そろそろ行かないと遅刻なんだけど」
「…………」
「もうあいつらはいないじゃん。それとも、まだ未練でもあるとか?」
「いえ、未練なんて……ただ、もう本当に、終わったのだと思って」
 亜麻は再び、傘の中から眼前の家屋――すっかりもぬけの殻となった瀬戸の家を見上げ、悟るように目を瞑った。


 ――およそ一ヶ月前。
 亜麻が瀬戸結奈に襲われた日の翌日、結奈の遺体●●が海浜公園で発見された。砂浜に打ち上げられているところを、早朝に散歩していた近隣住民が見つけたという。
 それまで、瀬戸結奈は行方不明となっていた。いつまで経っても帰宅しないことを不安に思った奈々子が学校や警察に相談し、夜中に捜索活動を行ったものの遂に発見できず、捜索は明朝に再度行われる予定となっていた。
 遺体が見つかった当初は自殺か他殺なのかはっきりしておらず、警察は事件と事故の両方の可能性を視野に入れて捜査を行った。しかし結奈の部屋の机から遺書●●と思しきノートが見つかると、警察は自殺の可能性が高いと結論づけた。
 ノートには中学のクラスメイトから受けている壮絶ないじめの事実が記されており、繰り返し『死にたい●●●●』という言葉が綴られていた。瀬戸結奈なりの遺書であると断定するのに誰もなんの疑いを持たない、極めて悲痛な内容のノートだった。
 いじめが原因で女子中学生が自殺した事実はあらゆるマスメディアで報道され、一時はセンセーショナルな話題として世間の注目を集めた。結奈が通っていた中学は当然のことながら好奇の目に晒されたが、それは瀬戸家も同様だった。いじめによって長女を奪われた被害者であっても、衆目は否応なく注がれる。
 次第に居心地を悪くした瀬戸家は、結奈の死からまもなく街を去った。父親が別の地方に単身赴任していたため、そちらに移り住むことにしたという。これに伴って瀬戸和真も転校となり、亜麻と瀬戸家を取り巻く日常は呆気なく幕引きとなった。
「あいつらが引っ越してくれたのは、亜麻にとっても好都合だったよね。気まずい思いをしなくて済むし」
 真子の言葉で、亜麻は再び目を開いた。
 梅雨時のじめりとした空気が瞳を纏い、不思議と涙腺が緩みかける。
「ええ……真子には感謝しているわ。おかげで、あたしは転校せずに済んだから」
 涙を堪えるため、亜麻は取り繕うような笑みを浮かべた。
 結奈の死後、瀬戸家に居候していた亜麻も事情聴取を受けることとなった。真子の家にいたアリバイは現然たる事実であり、なぜ急遽泊まることになったのかも真子が口裏を合わせたおかげで訝しまれることはなかった。
 唯一不安だったのは、USBや隠しカメラを所持していることを警察に知られることだった。幸いなことにどちらも亜麻の手中にあったため、真子に秘密裏に処分してもらうことで事なきを得た。
 カメラ探知機だけは瀬戸家の自室に残してしまっていたため、もし家宅捜索で発見された場合は『護身用に持っていた、とか言い訳すればいい』と真子に言われていた。
 しかし亜麻は事情聴取の段階で関与性皆無と思われたのか、部屋の中もつぶさには見られていないようだった。
 また、瀬戸家が引っ越すことになったあと、必然的に亜麻はどうするのかとなった。
 しかし、事前に真子が提案していた通り、高校在学中は真子の家にお世話になることで落ち着いた。それは後味の悪い顛末において、考えうる最良の結末のはずだった。
 ――が、亜麻の顔色はいつまでも晴れなかった。
「別に、私は亜麻の親友だし」
 真子はわずかに照れくさそうに答え、
「そろそろ行かないと遅刻するよ。今日は歩きなんだし」
 亜麻は「そうね」と相槌を打ち、学校へ向かい始めた真子の隣に並ぶ。
「やっぱり亜麻、浮かない顔してる」
 道中、真子が決めつけたように言ってくる。
「まだなにか、不安なことでもあるとか?」
「そんなこと、ないわ。あたしも、すべて終わってホッとして……」
「別に誤魔化す必要なんかないじゃん――それとも、あれ? もしかしてまだ、瀬戸のことが気になるとか? ……好き、だったから」
「それは、ないわ。瀬戸和真のことは、もう思い出したくないくらいだから」
 それは亜麻の本心だった。
 警察が捜査していた際、当然ながら奈々子や和真も聴取を受けていた。結奈がいじめを受けていたことについて、思い当たる節はなかったかと。
 これに対し二人は、どちらも思い当たる節はなかったと答えた――この時に亜麻は、瀬戸和真の本心を理解した。
「奈々子がなにも知らなかったと言うのは、分からない話でもないわ。結奈は学校や自分のことを、あまり家庭の中で話していないみたいだったから――だけど、あの男は違うわ」
「そうだね。瀬戸は、妹の傷心を知っていた。そこにつけ込んで関係を持った……それを知られたくなくて、警察になにも明かさなかった」
「つけ込んでというのは違うと思うわ。あの男自身は、結奈との関係を後ろめたく感じていたはずよ。こんなのはダメだって……だから口を閉ざした。実の妹とあんな関係だったということを、自分の中から葬り去りたかったのよ……結奈は愛し合っていると言っていたけれど、所詮それも、あの子の妄想だったというわけね」
「妄想ねえ……随分なメガロマニアだこと。やっぱり狂ってたんだね、あの女」
 吐き捨てるように、真子は言った。
「まあでも、瀬戸結奈にとってはその妄想だけが、辛い現実から逃避するための手段――逃げ込める場所だったのかも。決して理解されない愛だからこそ、あの部屋だけに閉じ込めておきたかった……」
 二人の歩調はどこか重々しく、学校へ到着したのも校門が閉まるギリギリの時間となった。下駄箱に着いた頃にはホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響き、すぐにでも教室へ行かなければ遅刻となってしまう。
 が、亜麻の足取りは上履きに履き替えても軽やかにはならず、顔色を曇天の空模様と似て陰鬱としていた。
「亜麻、大丈夫?」
「え……?」
「具合悪いなら保健室行けば? 私、先生に言っとくけど」
「いえ、具合が悪いわけでは、ないけど」
「そう? ――じゃあ、単に教室へ行くのが億劫なだけか。ふーん」
 勝手な具合に納得すると、真子は亜麻の手を取り、
「じゃあ、いつものとこ行こっか」
「え?」
「資料室。学校の中なら、あそこが一番落ち着けるでしょ」
「でも、そんな時間は……」
「どうせ遅刻だし、別にいいじゃん。鍵なら私、持ってるからさ」
 そのまま亜麻の手を引き、歩き始める真子。
 その強引な足取りが気遣いによるものだと思い至ると、亜麻は抵抗する気も生まれず、大人しく歩調を合わせた。


 図書室は開いていたが、学校司書はまだ不在だった。真子曰く、始業前は図書室の鍵だけ開けて職員室へ行っていることが多いのだという。
「そういえば、もう一年なんだね」
 資料室に向かう途中、不意に真子が言った。
「私と亜麻が会ってから。あの時も雨が降ってた」
「ええ、梅雨時だったものね……」
 窓外の雨音が、かすかに強まったような気がした。
 真子は小さく笑みを響かせ、
「亜麻が借りた本は、確か『日曜日の沈黙』」
「そんなことまで覚えているの?」
「別に。文庫を借りる人はたくさんいたけど、ノベルスは珍しかったから。なんであの本を選んだの?」
「さあ……覚えていないわ。推理小説ならなんでもよかったのかもしれない」
「あっそう。亜麻らしいかもね」
「真子こそ、どうしてあの時、あたしに声をかけたの?」
「え?」
「あたしが本を借りに来た時に突然話しかけてきたじゃない。覚えているでしょう?」
 亜麻の何気ない疑問に、真子は少しだけ考え込み、
「どうだったかな。忘れちゃったよ、もう一年も前のことだし」
「記憶力がいいんだか悪いんだか分からないわね」
「カウンター業務があんまり暇で、退屈していたからかも」
「ただの退屈凌ぎであたしの本性が暴くだなんて……やっぱり真子は特別ね。侮れないわ」
「そんな、人をやばい奴みたいに」
「当時はある意味不気味だったわ。なのに今は一番の親友なのだから、人の縁とは度し難いものね」
「そういうこと真顔で言っちゃうとこ、亜麻は本当に人誑しだ」
 いつかも聞いたような台詞で、真子はやはり気恥ずかしそうにしていた。
 それから二人はがらんどうの室内を通り、真子の鍵を使って資料室へと入った。
「あー、涼しい。やっぱ夏場はいいね、ひんやりしてて」
 さっそくソファに腰を下ろし、一息つく真子。
 彼女の言う通り、資料室の中は梅雨じめりの外気とは違い清涼とした空気だった。亜麻のかすかに汗ばんでいた肌も徐々に心地よさを得ていく。
「そうね……教室のクーラーは効き過ぎているし、ここくらいの温度がちょうどいいわね」
 取り繕うように言って、亜麻も真子の隣に座った。
 いくらかの時間が流れた頃、資料室の外からかすかにチャイムが鳴る音がした。一時限目の開始を告げる鐘だった。
 真子は「あーあ」と棒読みっぽく言い、
「二人仲よくサボり犯になっちゃったね」
「ごめんなさい。授業に行きたいのならあたしは止めないわ」
「いやいや、私だって授業とかめんどいだけだし。それに、こんな状態の亜麻を置いて行けるわけないじゃん」
「え……?」
 亜麻が不思議がると、真子は少しだけ顔を近づけてきて、
「亜麻、やっぱりまだ不安そうな顔してる。こんなの全然亜麻らしくない」
「それは……」
「そりゃ、ショッキングな事件だったことは分かるけどさ。でも過程はどうあれ、亜麻の推理も的外れじゃなかったってことじゃん。その部分はいつも通りの尊大さで誇ってもいいんじゃない?」
「推理?」
「私が亜麻に対して疑ったことだよ。瀬戸が亜麻に興味なさげなの、亜麻自身が魅力的に思われていないからじゃねって私言ったじゃん。でも亜麻は、そうじゃなくて、なにか裏があるんだって最初に推理してたじゃん。結果的にそれは当たったわけでしょ?
 瀬戸はあんなイカれた妹がいたから、亜麻に必要以上の興味を向けることができなかった。そんなことが許される状況になかった。そうじゃない?」
「そう、ね……きっとあの男は、知っていたのね。自分が安達真奈や、ほかの女性と上手くいかなかった本当の理由――陰で結奈が嫌がらせをしていて、遠ざけるように仕向けていたことを」
「その所業を知っていたからこそ、亜麻に下心と取られるような言動をしたくなかったとか? まかり間違えば、今度は亜麻に危害が及ぶかもしれないから」
「そうだとすれば、あれほど徹底して、あたしに照れているようなところを見せまいとしていたのも頷けるわね。やっぱりあたしが感じていた違和感は、間違っていなかった……」
 考え込むように腕を組む亜麻。
 その所作を見て、真子は鼻を鳴らすように笑い、
「だいぶ探偵らしくなったじゃん。まだ表情は硬いけど」
 と、おどけるように言った。
「ともかく、やっぱ瀬戸も最低だったわけだ。すべて分かっていたんなら、原因に気づいていたんなら、対処すべきだったんだよ。瀬戸結奈を諭して、分からせるべきだったんだ」
「優し過ぎたのよ……だから拒めなかった。結奈の境遇に同情して、絆されて、だから」
「だからって、実の妹とヤッていい理由にはならんでしょ。結局、瀬戸自身も楽しんでたんじゃないの? 男なんてそんなもんでしょ、どうせ」
「あの男は、そんな単純な人間ではなかったはずよ。短い間だけど、一緒に暮らしていたから分かるわ。あの男の優しさは本物だった……やっぱり、結奈が悪いのよ。結奈があれほど壊れていなければ、今頃は」
「もう、思い出したくないくらいだったんじゃないの?」
「ええ、そうよ。できることならもう、記憶から消し去ってしまいたい。本当はこれ以上、あの兄妹について、考えたくはないのよ」
「それじゃあ亜麻は、なんでそんな顔してるの? 本当はまだ、瀬戸のことを考えてしまってんじゃないの?」
「いえ、あの男のことじゃなくて……ずっと、結奈のことで不思議に思っていて。結奈はどうして、自殺したのか●●●●●●……」
「え――?」
「あの時の結奈は、自殺するような感じじゃなかったわ。あたしを激しく恨んでいて、逃げるあたしを地の果てまで追いかけてやろうって顔をしていた。だからどうしても、自殺をしたという理由がよく分からなくて」
「それも、亜麻に対する復讐●●のつもりだったんじゃないの――ほら、例のUSBのこと」
「ええ、その可能性もあるんだけど……」
 結奈が遺したノートには、いじめを行っていた主犯格の名前が何人かは記されていた。その者らは当然、それなりの社会的制裁を受けることとなった。
 しかしそれ以外の――無視やちょっとした嫌がらせなど、あまり目立たないいじめをしていた者、いじめとは違った形で結奈に苦痛を与えていた者の名前については、机に入っているUSBに記したという旨が、ノートには書かれていた。自分が受けた苦痛の酷さによって三段階に格付けしていることも。
 が、USBは亜麻が持ったままだったため、結果的に警察の手に渡ることはなかった。
 ノートには文書のパスワードも明記されていたため、もし警察に見つかっていれば、◎の亜麻もいじめの主犯格と同じような制裁を受ける可能性はあっただろう。
 結奈は自殺をすることで、自らを苦しめていた者たちに復讐を果たそうとした……というのが、真子の推測である。
 しかし、亜麻は納得していなかった。
「もしあたしに復讐するためなのだとしたら、ほかにも方法はあったはずじゃない? たとえば、あたしが盗撮していたことをばらすとか……」
「そしたら逆に、瀬戸との関係をばらされるって思ったんじゃ? それでどの道逃げ場がないから、いじめをしていた奴らも道連れにして陥れてやろうと考えたとか」
「だけど、結奈たちの関係は盗撮データの一部分だけ消せば闇に葬れたはずよ。そうする時間も充分にあった。他人に見られても問題ない部分の盗撮データだけを証拠にして訴えれば、あたしは一巻の終わりだったわ。そんな状況であの兄妹の関係をばらしたって、信じてもらえるはずがなくて無意味に終わるでしょう? だから、結奈は……」
「自殺なんかしていない、そう言いたいわけ?」
「……いいえ、断言はできないわ。あの時の、狂気に満ちた結奈の顔を思い出すと、精神的に追い詰められて、自ら命を絶ってもおかしくはない気はするから……」
 そう迷ったように言った時、亜麻はふと、自分の腕が震えていることに気づく。
 いつかと同じように。
「あの時あたし、結奈に言われたの。誰とも愛し合ったことのないお前になにが分かるんだって。……確かにあの子の愛は歪なものだった。不幸の中に生まれた、生まれてしまってはいけない愛情だった――でも、それでも、結奈は瀬戸和真を愛していたんだと思うの。それが間違った愛だと自覚していながらも……」
「間違った愛、か――なんか、出来の悪い少女漫画でも読んでるみたい」
 真子はふぅっと、自らを落ち着かせるように息をつき、
「でも、そうとしか言いようがないよね。あの二人の……いえ、瀬戸結奈が抱いていた感情は。世間には絶対に理解されない愛だったからこそ、あの部屋に閉じ込めておきたかったんだね。誰にも知られたくなくて」
「あたしが、こじ開けなければ……本当に、バカなことをしてしまったわ。開けてしまわなければ、結奈は死なずに済んだかもしれないのに。たとえ間違った愛だとしても、命までは、失わずに済んだはずだったのに……」
「――亜麻」
 遮るように、真子は呼びかける。
「溜まってるね、また」
「え……?」
「耳糞」
「――っ」
 顔を赤くして、ハッと耳を隠そうとする亜麻。
「よかった。やっと柔らかい表情になった」
「な、なによ、人が真面目な話をしている時にっ」
「似合わないからだよ、そんな顔。亜麻はいつでもふんぞり返ってるくらいでなきゃ」
「ふんぞり返ってって……大体それなら、こんな辱めっ……」
「とにかく、悄気た顔は似合わんてこと。亜麻は学校一の美少女なんでしょ? だから、ほら」
 ぽんぽんと、自らのスカートの上を叩く真子。
 亜麻はいつかと同じように恥じらいながらも、おもむろに上体を倒し、真子の太ももに頭をのせた。こめかみから伝わる真子の体温は優しく、亜麻の意識を静かな安らぎの中に浸らせるのに充分だった。
 しばらくして、綿棒が左耳の中をまさぐり始めた頃、
「もうやめようよ、こんな話。大体、なんでも考え過ぎなんだよ、亜麻は」
 真子の、なだらかな声が降ってくる。
「全部終わったことなんだから。瀬戸結奈の死が自殺だったかどうかなんて、私たちにはもう確かめようのないことじゃん。忘れちゃった方がいいよ、あんなこと」
「そう、なんでしょうけど……」
「すべてを明らかにしようなんて、どだい無理な話なんだよ。現実は、亜麻がよく読んでる推理小説とは違うんだから。その人が本当はどう考えてたのかとか、なんでそんなことをしたのかとか……そんなの元々、分からない方が自然で、当然のことじゃん? 知らないことや分からないことがあっても、そこまで気にしなくたっていいと思うけど」
「もしそれで、事件の真相が明らかにされなくても? 真子はそれでいいと言うの?」
「いいよ、別に。私はこうして、亜麻と元の日常に戻れただけで充分っていうか、儲けものだと思ってるからさ」
「儲けもの……」
 真子の言葉に、亜麻は少しだけ救われた気持ちになった。
(そうね。一歩間違えば、あたしが結奈に殺されていたかもしてないんだもの。そうでなかったとしても、カメラのことが明るみになって、最悪の事態になっていたことは間違いないわ。そうしたら、真子とこうして過ごせる時間だって……)
 わずかに、亜麻は目尻に込めていた力を抜き、
「ありがとう、真子。やっぱり、あなたがいてくれてよかったわ」
「どしたの、急に」
「感謝しているのよ。あなたがいなければ、あたしはきっと、酷い事態に陥っていたわ」
「え……?」
 少しだけ驚いたような声を出す真子。
 亜麻は続ける。
「あなたがずっと寄り添っていてくれたから、あたしは心を壊さずに済んだのだと思うわ。今日だって、こうして気を遣ってくれて」
「ああ、そういうことね」
 どこか安堵したように真子は言い、
「そんなの当然じゃん。親友なんだし……って、なんかずっとこんなことばっか言ってる気がするけど」
「ううん、いいのよ。あなたは本当に、唯一無二の親友よ。これからもよろしくね、真子」
「なにさまた、改まって。照れるじゃん」
「なら、少しは仕返しができたかしら。さっき辱められた仕返しよ」
「あーそ。今時な倍返しだことで」
 普段通りの物ぐさげな返答ながら、その声は本当に照れくさそうだった。
 ささやかな意趣返しを果たした亜麻は、ようやく気を楽にさせ、
「でも、結奈のことはやっぱり気にかかるわ。あたしの見立てだと、単なる自殺とは考えにくいのだけど」
「もう。名探偵さんは頑固だなぁ」
 皮肉っぽく笑いながら、器用に綿棒を操る真子。
 亜麻は時折くすぐったくなり、また以前のように体を丸くさせてこそばゆさを堪えた。
 けれど前回よりは心地よさが感じられ、気持ちが安らいでいくようだった。
「だっておかしいでしょう? あんなタイミングで自殺なんて。あまりにもあたしに都合がよ過ぎるわ……自殺じゃないとすれば、たとえば事故とか。あたしを捜し回っていて、それでたまたま、あの岬まで見に来て、誤って柵を越えてしまったとか。それとも……」
「さあ? 亜麻にとって瀬戸結奈の自殺が都合よ過ぎるって言うんなら、実は亜麻の熱狂的なファンが、瀬戸結奈をあの岬から打ち捨ててくれたとかなんじゃない?」
「そんなこと、あるわけないじゃないの。ラブレターじゃないんだから……そもそもあの時、あたしが結奈に追われていることを、知ってい た 子なん て











「亜麻? どうかした?」

 ――真子の声。

 亜麻は視線だけで振り向く。

 その時の真子の表情は、

 これまで見たことがないほど、

 穏やかな笑みを湛えていた。

「まあでも、ラブレターを何通も処分するよりは楽だったんじゃない?
 背中を押してあげるだけで、よかったんだから」
 がさごそと、左耳の奥で音がする。
 また綿棒がくすぐったいところに触れ、亜麻の体は震え上がった。
 それは明確なおぞましさから生まれた震えではなく――背筋を撫でられたような感覚。
 名状しがたい不気味さと、魅惑的な安堵との狭間で生じた相反する快楽。
 麻薬めいた背徳的な震えが、亜麻の心身を甘く縛りつけていた。
「……もしも、あたしが」
 振り絞るような声で、亜麻は続ける。
「誰かと、愛し合ったことがあったのなら……結奈のこと、救ってあげることができたのかしら。もっと適切な言葉で、咎めてあげることができたのかしら」
「あんな歪な愛情を目の当たりにしておいて、亜麻はまだ、誰かと愛し合いたいとか思うわけ?」
「いいえ、……少なくとも、当分は」
「あっそ。――それなら、よかった」
 安心したように答える真子。
 綿棒がより耳の奥へと滑り込んできて、亜麻の肢体は「あっ」と、再び意図していない快感を覚える。
 ――その度に「ふふっ」と、支配的な笑みがこぼれ落ちてくる。
 窓を持たない資料室は開かれることがない小さな箱のように、二人だけの時間を静かに閉じ込めていた。




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