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最期を支える人々  −母余命2ヶ月の日々−

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2016年7月の記事一覧

2015.7.12 「なんで私が。」

 整形外科に入院して2週間後、医師から説明があるとの連絡を受け、母と面談室に向かった。主治医の横には外科の医師がいた。

 彼は、胃カメラの画像を見せながら、スキルス胃がんであること、手術では直せないステージであることを告げた。その鮮やかながんは、ほんの少し残った正常な部分と比較すれば、素人目にも病状が深刻であることを示していた。

 母は「なんで私が。間違いでしょう?」と小さく叫んだ。医師は「そ

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2015.7.12 「余命2ヶ月です。」

 混乱する母に看護師がつきそい病室へ戻る。残された私に医師が「非常に厳しい状況です。」と告げた。余命は2ヶ月とみており、抗がん剤が効いたとして延命できるのは2ヶ月であること。高齢で体力がないため、とくに点滴の抗がん剤による副作用に耐えられない可能性が高いことが告げられた。

 「楽に死ぬつもりが、苦しむというのではおかしい。何のために治療をするのかわかりません。残された時間を穏やかに過ごすために、

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2015.7.13 「どう理解されていますか。」

 抗がん剤に挑戦する道、しない道。どちらが良いのか。母は生きようとして抗がん剤を選ぶだろう。その希望を奪うのは酷だと思った。

 ひとりで抱えきれなくなった私は、K病院のがん相談窓口を訪れた。突然の相談だったが、専門の看護師が快く受け入れて下さった。

 事情を話すと、「昨日の先生のお話をご自身が理解された通りにお話いただけますか?」と言われた。看護師はカルテの内容と私の話とに齟齬がないか確認して

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2015.7.13 「病院で挑戦したい。」

 がん相談室を出て、病室に向かうと、母は既に飲み薬の抗がん剤に挑戦すると決めていた。「家でも大丈夫かな。」と聞くと、「治療は病院でする。終わったら家に帰る。」と言った。

 病室に病棟師長が訪ねてきて、私と話したいという。面談室で二人になると「昨日は厳しいお話を聞かされたと思います。大丈夫ですか。」と労ってくださった。私が見舞う前に母の意思を確認したようで、私の意向を確認したいとのことだった。本人

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2015.7.16「食べて確認しなさい。」

2015.7.16「食べて確認しなさい。」

久しぶりに病室で母の笑い声が響いた。曰く、「全くここの栄養士さんったら、何にもわかってないのよ。」

 夕飯に出たキウィが固くて残したら、「すっぱいものは苦手ですか。」と聞かれたという。それに「うどんはお好きですか?柔らかいご飯もありますよ。」と煩いらしい。母は仕事がないと可哀想だからと、1回だけおじやを頼んだそうだ。同室の患者さんと「私たちに聞く前に自分で食べて味を確認しなさいって、言っているの

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2015.7.18 「A先生が診てくれるなら」

病院で抗がん剤に挑戦したいと伝えた5日後、主治医との面談が設定された。冷静に話ができるよう、主人にも同席してもらった。

 20分ほどの話し合いだったろうか。結論は、ひとまず退院、だった。自宅で暮らしてみて、辛ければ抗がん剤はしない、落ち着いて暮らせれば挑戦するということになった。

 主治医は、抗がん剤を投与すると必ず生活能力が低下すること、このため、いま病院で始めてしまうと家に帰れなくなる可

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2015.7.18 「何でもいいのですよ。」

2015.7.18 「何でもいいのですよ。」

 退院が決まった。もとより離れて暮らす私がひとりで介護できるわけがない。あらゆる在宅サービスを利用して母を支えるチームを作り、乗り切っていこうと考えていた。すでにケアマネジャーとは連絡を取り合い、24時間の看護、介護体制を整える準備を進めていた。

 なかでも食事が療養の要だと思った。食事で体力を回復させることを期待している母、そしていずれ食欲が低下していく母にどんな食事を用意すれば良いのか想像も

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2015.7.21 「食べられていますか」

 自宅で過ごす母を支える体制を整えるには、病棟からの情報では足りなかった。いまどうしているかではなくて、どんな能力がどの程度のスピードで落ちていくのか、そのことで何が起き、どんな準備が必要なのかを知りたかった。

 再び、がん相談窓口に向かった。専門看護師に「亡くなる日まで、食事と排泄の能力がどう落ちていくのか知りたいのです。」と聞いた。スピードは人によるが、能力は段階的に落ちていき、その都度、で

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2015.7.23 「24時間、駆けつけます。」

2015.7.23 「24時間、駆けつけます。」

退院を2日後に控え、夜間対応型訪問介護の随時訪問を行う会社と契約を結んだ。

 ひとりで寝ている母に何かあったとき、本人が通報し、対応がされる体制が必要だった。いずれ、排泄に介助が必要になったときの準備でもあった。本人に意識があるうちは、「排泄の失敗」と「安易なおむつの使用」は避けたかった。それは生きる気力を奪うと思うからだ。

 通報は、固定電話に接続された送受信機を通じて行う。ボタンを押すとオ

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2015.7.25 「ひと口でも多く」

緊急入院から4週間。抗がん剤投与の可否を診断する診察予約を2週間後に入れ、退院した。

 リビングに移したベッドで横になり、準備しておいた歩行器で食卓やトイレに行く動作を確認した。本人が思うほど体がついていかず、見ている私はひやひやしたが、本人は自由に過ごせることに心底ほっとしたようだった。

 午後は複数の介護事業所、主治医の訪問があり夕方までバタバタと過ごした。母は主治医と話すのを心待ちにし

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2015.7.28 「娘さん、大丈夫ですか。」

 訪問看護ステーションからの来訪初日。看護師は母が病気をどう理解しているか、どう過ごしていきたいかを丁寧に聞き取り、訪問計画をまとめた。母は、病気と病状の知識を持ったひとと話せることを、心強く感じたようだった。

 最後に、看護師が「娘さん、何かご質問はありますか」と声を掛けてくださった。耳学問で、訪問看護師はいつでも電話一本で駆けつけてくれることを知っていた。でも、どんなときに電話したらよいのか

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2015.7.30 「私、来ました。」

 自宅で過ごしはじめて5日間。短い間にも母の様子は少しずつ変化していた。まぶたがむくんで開けづらくなったこと。手のむくみで、薬をパッケージから取り出せなくなったこと。ベッドから食卓への歩行時に転倒したこと。じわじわと症状は進行していた。

 そんな生活を支える訪問介護はほぼ毎日毎食時にお願いしていた。週に19回のシフトを、3社・18名のヘルパーが支えてくれた。

 その中に、同居していた叔母が生活

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