見出し画像

けテぶれの実践と批判

割引あり

はい、始まりましたけテぶれチャンネル。皆さん、こんにちは。パーソナリティの葛原祥太です。このチャンネルでは、全国の子供たちが自ら考え、自ら学び、自ら生きられるようになるために考えられた実践、けテぶれQNKS心マトリクスについてのお話をしていきます。


けテぶれの起源と実践者の体験

古くからの友人であるセイメイさんという方がTwitter(X)上におられて、緑のお地蔵さんのアカウントの方ですけれども、その方とは本当に古くからの付き合いです。いつからかというと、私が教育について、フォロワー数十人の時からいきなり顔出しでけテぶれとか言い出して、本当に奇抜な発信を繰り広げていた時代からです。その発信の価値を受け取ってくださって、セミナーをしませんかということを言ってくださったんです。それが非常に嬉しくて、是非やりましょうということで、京都で100人の先生方を集めてセミナーを開催し、無事成功しました。その辺からの付き合いで、非常にお世話になっている方なんです。

watcha京都(2018)

大学教授の批判と実践者の反論

だからこそというか、もうずっとけテぶれをやってくださって、実践に取り入れてくださって、その効果についても知ってくださっているという方なんですが、最近のツイートが非常に興味深かったです。何かというと、大学教授と話をする機会があって、けテぶれの話をしたら知っておられて、本も読まれていたそうです。その上でその大学教授が何て言ったかというと、「これこそが正しい学習法だ」とやっているところがもう違和感があって無理だという話をしていたらしいんです。

それに対してセイメイさんの見解が非常に嬉しくて、ご紹介すると「その気持ちは分かる。自分もそういう気持ちになった。しかし実際の指導レベルにおいて、この『一旦これだよ』って示してあげることの効果を私は実感している」ということを言ってくださいました。いろんな学習法があるのは本当にその通りでいいんです。唯一絶対の方法なんてないんです。ただそうやって相対主義に陥って「色々あるよね」って言っていたら現場は何も進まないんです。その中で1つ、最もある程度妥当なラインで「これが勉強法だよ」って言って決めて、それを共通言語にして子供たちと共に実行していくという教育的効果は計り知れない。


〜「葛原書房」おすすめのご利用方法〜

葛原書房では、月平均20本もの記事が投稿されています。個々の記事を購入するよりも、『けテぶれチャンネルBooks読み放題プラン』がおすすめです。

VoicyのPremium放送で話された内容が日々文字起こしされて届きます。
7月からは「心マトリクス連続講義」の内容がPDFデータで順次入手可能。
「心マトリクス連続講義」終了後は、一冊の本として完成。
他の実践についても順次連続講義で詳細に解説。
オンラインサロン「けテぶれサロンPlus+++」への参加権利も。

読み放題プランの特典一覧

このプランは、葛原実践の深い理解と継続的な学習を支援する総合的なサービスです。

けテぶれQNKS心マトリクスは相互に密接に連携しており、葛原書房の記事や講義もこの考えに基づいて作成されています。

葛原実践を体系的に学びたい方、最新の内容をリアルタイムで追いたい方には、ぜひ「読み放題プラン」をおすすめします。

→読み放題プランはコチラ


これをすることによって初めて子供たちは自分ができる。その上で土俵が生まれ、その上で学習努力を積み上げ、その上に多様な学習方法を学んでいくことができる。何を土台にするか、自分にするかという時に、けテぶれという枠組みは非常に有効であり、それを学習空間に提供することは非常に意味があることだということを実践を通じて私は知っている、みたいなことを言ってくださったんです。

で、「けテぶれじゃない」「けテぶれではない」という思考を、根拠を持って、自分の実感を持ってけテぶれを否定するみたいな動きを、多分葛原さんは歓迎するだろう、みたいなことを最後に締めくくりで言ってくださっていて、もう本当にその通りなんです。

教育現場での共通言語としてのけテぶれの価値

本当に何でも色々あるのは本当その通りなので、それを学問的な知識とかお勉強だけの知識でけテぶれ=計画テスト分析練習のサイクルだっていうそれくらいの情報に対して、「いやそんなの学びの真理じゃない」とか言われてもそんなの「知ってます」以外言うことないんだけど、それを子供たちが実行する中で「いや先生、けテぶれじゃなくて『けれテぶ』だ」とか、もしくは「もどけみぽ」だとか、色々言うことに対しては、「うん、めっちゃいいじゃん!」という話です。「じゃあもうそっちで行こう!」ということができる、この違いです。

理論と実践のバランス

学問的知識でお勉強だけで頭でっかちでけテぶれなんてみたいなこと言われても「そんな知ってます」と。むしろ、そんなことも知らずにこんな提案するわけないじゃんみたいな話です。学習科学分野とか先行研究とかも当然全部、全部じゃないですけど一通り目を通して妥当性をずっとずっとずっともう10年間ずっと疑い続けながらブラッシュアップしながら、ここまで発信をやめずに来てるわけです。

それを「学習方法なんてそれ唯一絶対なものなんてないんだから、けテぶれなんて違う」みたいなこと言われても「うん、現場立ってみたら?」という感じです。そして「じゃあけテぶれっていうこの枠組みが解決しうる範囲の大きさ知ってる?」みたいな話です。どこまでの範囲を包括して、どこまでの問題を今教育界が抱えている本質的な問題を解決しうる手立て、方法、そしてあり方、哲学として提唱できているか分かってますか?という話です。

研究者の責任:社会貢献と実行可能性

論文のお勉強だけの知識で「けテぶれなんて」みたいなこと言われても「はいはい」という程度にしか、ごめんなさいね、受け取れません。

あまりにも尖っていたのでここで収録をやめておりました。だいぶ放置して下書きに保存されていたやつを繰り返して追加収録をして、出そうかなと思っている次第でございます。

けれども、1チャプター、さっきのチャプターは別にその学術分野を否定するわけで全くございませんので、そこだけはご留意ください。私、大学院2回行ってますので、論文読むのが大好きです。そういう学問的な知識の構築とか、巨人の肩の上に乗って1つずつ、1歩ずつ、そういう新しい地を踏み固めていくみたいな、論述というか思考体系というのは非常に有意義であるし、そうやって確実に踏み固めていこうとする思考活動というのはいいんだと思って僕も色々見てはいます。

特にけテぶれ実践者には学習科学ガイドブックを読むことをありとあらゆるところでおすすめしています。けテぶれ、QNKS実践をある程度理解して実践した方にこそおすすめしています。その視点からものすごく読みやすくなります。気になる方は読んでみてください。僕の実践が学習科学分野の知見を「普通の小学校の1教室」で、「小学生の子どもたちにも理解し実践できる形で」具現化している実践であることがよくわかっていただけると思います。

現場と向き合う研究者の魅力

でも、大学院行ってて思うのは、やっぱり教授、授業を受けていても喋っていても、やっぱり面白い教授と面白くない教授っていうのがいるんです。それはなんか個人的な好みというよりかは、よく見ているとはっきり言って違いがあって、論文書いてるかどうかです。そこはかなり違うんです。やっぱりリアルタイムで論文をたくさん書いている教授というのは話が面白いんです。それはどういう面白さかというと、そういう教授は自分のフィールド、研究者としてちゃんと現場と対峙してるわけです。現場と対話してるんです。そういう教授は、現場の不実性とか曖昧さにとってもよく理解があるし、それともう日々勝負している感覚がかなりリアルタイムに感じられるので喋っていて面白いんです。やり取りができるんです。

僕は実践者として現場に対峙して現場勝負してきたわけですから、別の角度で同じ対象に向かって勝負している者同士みたいな感じで会話が弾むんです。ただし、それをやめてしまった教授というのはやっぱりいるんです。全然面白くないです。つまり自分とその人と現場が切り離されていて、ただ論文とか本とかの知識だけで授業をしたりとか会話するという方は、申し訳ないですけど全然面白くなかったんです。薄っぺらい話が本当に1回向いたらもうその先に行けないみたいな、「この誰々どこどこ大学の誰々教授がこんなこと言ってて」とか「うんうん、だから」みたいな話なんです。「その結果どう思うんですか」とか「その研究ってこういうことどう繋がってるんですか」とか、こういう時に対して1歩掘り進んだら「うん、そこはまだ論文がないから」とか言うんです。「うーん」って感じです。

批判の前提条件:対象の深い理解と実践経験

なので、その違いはやっぱりあるので、やっぱり対象とちゃんと勝負してる人というのは、いつどこどの立場の方でも面白いなということです。そこから離れてしまって、なんか知識だけでなんとかしようとしてる人というのは盛り上がらないという話があるので、「なんだ、けテぶれなんて」みたいな話で言うと、「けテぶれなんて」って言える人って結局けテぶれやった人だけなんです。

だからなんというか、ちゃんと実践してみて、その中で成果とか課題とかが見えてきて、初めてそういうことって言えるわけじゃないですか。それを「けテぶれなんてPDCAの言い換えなんだから意味ない」とか「けテぶれ以外にも有効な学習方法があるんだからけテぶれだけじゃない」とか、もうなんか「はい、知ってます」っていうので流せちゃう。そこ以上行けないので「あ、そうですよね」「ええ」って話なんです。「あ確かにそうですね」で会話終わっちゃうんです。

対案なしに批判するなっていうのはちょっと確かに暴論、暴論というか乱暴っぽい感じもするんです。それって対案がなければ批判もできないのかみたいな話で、それ一面分かるのでいいんですけど、批判する時にその批判すべき対象についてちゃんとお勉強しましょうね、は多分言うべきなんです。一面的に本当に一瞬の姿しか切り取られずに、それについて批判するとかやるべきじゃないじゃないですか。

ちゃんとその人を批判するとか、人だけじゃない、物もそうですが、提案とかアイデアとかでもそうですけれども、批判しようと思ったらその対象を徹底的に隅から隅まで見て、それが含んでいる意味とか構造とかをちゃんと理解して、全部相対して理解した上で、やはりここの点については、ということがもしまだ述べられるのなら述べていくという発想は必要なんじゃないかなと思うわけです。

そういうことをしようと思った時に最も大切なのは、やっぱり「百聞は一見にしかず」ですし、僕はこの続きを言ってるんですけど、「百見は一行にしかず」、「百行を以て一識を得る」みたいな、勝手に作って言ってるんですけど。つまり「やってみろ」ということです。見るよりやってみろなんです。100回やったら「1」分かるよっていうことで、教育実践とかに関してはやはりやってみるっていうプロセスを経ないとなかなかその実践を批判するっていうところ次元まではいけないんだろうなという風に思うわけです。


だから対案なしの批判っていうのは別にいいとは思うんだけど、理解なしの批判っていうのはなかなか難しいよね。それ取り合ってもらえないよねって話なんです。なんか無限にやられてきましたので、やられる側からすると、僕も本当になんか若い時は本当だから知ってるだけで批判みたいなことを言ってたかもしれません。

これも結局やってみてわかるって話で、ちゃんと実践をちゃんと実践を非常に正直に、僕なりには正直に考えて構造化して、提案しようとしているっていうことをやってみると、分かるんです。その批判的な意見がどこまでちゃんと見てとか、どこまでの範囲を把握した上で言っているのかみたいなことはよくよく分かっちゃうし、取り合う必要がないというか、取り合えないに近いんです。「あ、これはちょっと組めないな」みたいな。申し訳ないから流すしかないので「あ、そうだね」ということで流しているんですけれども、そういうことがあるので、僕も人を批判する時とか何かを批判する時は、なるほどとちゃんと相手のことを理解して、全体の構造と意味と価値と意義っていうものを理解した上でじゃないとなかなかつけないよなっていうのは思ったりしているという話でございました。

けテぶれの本質:実践を通じた学びのサイクル

なんかだらだらと長くなってしまいましたね。まとめると、違和感があるなら「やってみろ」って話です。はい、それはつまり「けテぶれしろ」なんですね。ここ強いんですよね、僕の主張は。結局メイン主張に帰っていくっていう構造をあらゆる部分で取れるのが強い。

けテぶれ回せなんです。結局、けテぶれ回して分析して練習して初めてQuestion、QNKS、問を立てられることが、立てることができるんだよっていう私のメイン主張に今日も戻りましたね。

頭でっかちの思考にはけテぶれによる試行が足りない

はい、ということで問の前にはちゃんとけテぶれが回っているっていうことが大切なんじゃないかなという風に思っているわけでございます。はいでは、また次の放送でお会いしましょう。バイバイ。


よろしければリポストにて拡散、応援してください!
【1枚要約】シートがダウンロードできます!

イイねやオススメも大歓迎です!(note内で注目される確率が上がります) どうぞよろしくお願いいたします!

ここから先は

155字 / 1ファイル

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?