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スピノザ、異端の系譜

 柄谷行人はかつて『マルクス可能性の中心』という書を出していたが、彼が1986年から88年までの2年にかけて群像で連載していた『探究Ⅱ』は、その論考の多くがスピノザをめぐって展開されており、『スピノザ可能性の中心』ともいうべきものであった。

 哲学者の永井均は『<魂>に対する態度』において、柄谷が『探究』(Ⅰ・Ⅱの総称)で示そうとしていた問題提起にはアグリーなものの、ある一つの点について絶対的に認めることができないと強く批判していた。批判の趣旨としては、柄谷はデカルトの「この私」を捉えそこねており、「デカルトのスピノザ化」を敢行してしまっているというものであった。

「この私」をめぐっての問いは、哲学の根幹に関わる問題であり、最近また上野修氏が、デカルトの「この私」をめぐって、ラカンやデイヴィドソンを補助線としながら、デカルトの「この私」はむしろ、スピノザが捉えていた「実体」および「無限」の観念と近いのだという趣旨の報告を行っていた(上野修『スピノザと〈私〉のありか』 )。

 永井氏の批判にも関わらず、それでも柄谷が『探究Ⅱ』で示したスピノザ像は、やはり画期的であった、というのが私の結論ではある。柄谷はしばし自論の展開のために都合よく哲学者の思想を切り貼りし、独自の解釈を加えているという批判も受けるのだが、やはり今振り返ってみても、スピノザの重要な概念について正しく捉えていると思えるし、スピノザを軸にして取り扱っていた問題意識は、現代においてより顕在化している課題のいくつかを先取りしていたと思えるからだ。

 また、柄谷が『探究Ⅱ』で示していたもので私的に重要と思われるのは、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想が、いかにスピノザ的な思想の系譜、文脈の中にあるか、ということであった。その系譜においては、彼はキリストや仏陀の思想にも類似性を見出すし、現代物理学の宇宙論や、スピノザ以前の思想家であるジョルダーノ・ブルーノにもその流れを見出している。(イオニアの哲学者たちについては、のちの『哲学の起源』で見出すであろう)

 端的に説明すると、柄谷は世界や歴史の原因を、外部のものや超越的な力などによって見出そうとする「超越」の思想や、人間中心主義や精神の絶対性といった「主体」のあり方、あるいは構造そのものに対し、超越的視点を不可能にする「内在」の思想の系譜とも呼ぶべきものを、上記の思想家たちを例にし対置させている。

 ただし柄谷はここでは「内在」という言葉はほとんど使用していない。「超越」に対し、彼は「無限」の観念、「自然史」の観念と名付けている。

現代の哲学は、「主体」を攻撃するかぎりにおいて、スピノザの系譜につながっている・・・・・しかし、スピノザにおいて、能動的・超越的な「主体」への批判は、必ずしも心理的・経験的な主観に限られているのではない。それは、自然(世界)をこえて在るような主体、すなわちそのような神の表象にも及んでいる。それはまた、自然あるいは歴史(自然史)を、目的論的にみること、物語的にみることへの批判につながっている。

『探究Ⅱ』「超越論的自己」(柄谷行人)より
 

・・・いまや自然が自分のためにいかなる目的ももてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが、私はさらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけ加えておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果とみなし、反対に<結果であるものを原因>と見なすからである。(『エチカ』第一部付録)

こういう条りは、マルクスやニーチェの論法がいかにスピノザ的であるかを示している。「主体」の批判は、要するに、結果であるものを原因とみなす「遠近法的倒錯」への批判にほかならない。

『探究Ⅱ』「超越論的自己」(柄谷行人)より


 この表象としての神や、人間を歴史の主体として捉えてしまうという「遠近法的倒錯」を強く批判する「内在の思想」は、その時代時代においては、一般に流通する概念や価値観とはまったく異なる光を照らすゆえ、呪われた思想として忌み嫌われ、恐れられてきた。

 これをドイツの詩人ハイネは「無信仰の同志」と呼ぶであろうし、『スピノザ 異端の系譜』の著者、イルミヤフ・ヨベルならば「暗い啓蒙の哲学者たち」と呼び、著作のタイトルにあるように「異端の系譜」と名付けるであろう。

 柄谷が示したものは、哲学の専門家、研究者たちからはどう映っているのかはわからないが、少なくとも私にとっては、スピノザの哲学史的な位置付け、そしてそのあとに続く思想家たちの流れを理解するうえでも、絶好の入門書的なものであった。

 それでも、もし、柄谷行人は独特の論調なので、難解だ、とっつきにくい、けれどもスピノザを哲学史的な位置付けにおいて理解したいということであれば、私はヨベルの『スピノザ 異端の系譜』を読むことを薦めたい。

 一般的な哲学入門書的なものでは見えてこない哲学史が、この書において体系的に理解することができる。ただし、それはとうぜんスピノザ思想の独自の体系、異質性をベースに展開されているものなので、これもある一つの視点、見方であることからは逃れられないが、それでも本書を読むことで、「可能性の中心」としてのスピノザを捉えることはできると思う。ただし632ページという重厚さなので、読むには相当の気合が必要である(笑)。

 本書は、「第一部:理性のマラーノ」「第二部:内在性の冒険」で構成されている。第一部において、スピノザの「内在の哲学」が何に由来するものであるのか、スピノザの生い立ちをなぞり、さらには14世紀において始まった改修ユダヤ人、「マラーノ」と呼ばれる存在に焦点をあて、スピノザにおける「マラーノ性」を追求していく。

 スピノザは、1632年11月24日オランダ、アムステルダムのユダヤ人居住区で商人の家に生まれるのだが、両親の家系が、イベリア半島でキリスト教へ改宗したユダヤ人(マラーノと呼ばれる)で、オランダに移住し、ユダヤ教の信仰生活を回復していた。

 マラーノとは、カトリックによる宗教統制の中で、追放か改宗かを迫られ、たび重なる異端審問の弾圧を前に改宗を受け入れたユダヤ人たちのことで、その意味は古いスペイン語で豚を意味し、侮蔑的な意味合いでそう呼ばれてきたという歴史的背景がある。

 彼らは、表向きキリスト教徒を装いながら、隠れてユダヤ教を守ってきたとのことである。

 このマラーノ現象に注目し、スピノザを論じたものはこれまでなかったようで、ヨベルは新しいスピノザ論を展開している。

「アウシュビッツの焼却炉の先駆とも言うべきイベリア半島の反ユダヤ主義的な異端審問のテロルに怯えながら固有の信仰を生き続けたマラーノの周縁的な歴史の暗部に、スピノザの異端思想を位置付けようとしたのである」(小岸昭・本書訳者)

 ちなみに訳者の小岸昭氏は、『マラーノの系譜』という本を出しており、よく知られた人物としてスピノザ、ハイネ、カフカ、などを取り上げている。

 マラーノの特性を、ヨベルは次のように説明する。

・何世代にもわたって、マラーノたちの多くは、秘かに隠れユダヤ教徒の生活を守り続けていた
・その経験は、多くの二重性、内的生活と外的生活の対立や二つの宗教の混淆を生み出した
・このような経験は、曖昧な表現や二重言語といった言語上の仮面をはじめとする変装を、生き残るのに必要不可欠なものとした

 スピノザの思想や表現において、このマラーノ性の影響が見られるということを、ヨベルは緻密に考察したのち、続く第二部として「内在の哲学」の系譜に連なる哲学者たちを引き合いに出し、彼らの思想との親和性というだけではなく、相反するもの、対立する点を論じながら、スピノザ哲学の輪郭を描きだすことを試みている。

スピノザとカント―宗教批判と聖書解釈学
スピノザとヘーゲル―内在としての神は実体か、精神か?
ハイネ、ヘス、フォイエルバッハにおけるスピノザ―人間の自然化
スピノザとマルクス―自然内存在としての人間と救済の科学
スピノザとニーチェ―<神への愛>と<運命への愛>
スピノザとフロイト―解放としての自己認識 

『スピノザ 異端の系譜』目次より


 マルクス、ニーチェ、フロイトについては、柄谷も彼らがスピノザの潮流にあることを述べていたし、フロイトなんかははっきりと「私は自分がスピノザの学説に負っていることを喜んで認めます」、「私の長い生涯をつうじて、偉大な哲学者スピノザの人間とその思考の成果に対する格別の高い経緯を、私は抱き続けてまいりました」と、ある書簡で告白している(ヘッシング宛ての書簡より)ため、意外性はないのだが、カントとヘーゲルなんかは、なぜ?と疑問に思われるかもしれない。むしろ、彼らの思想はスピノザと対立するのでは?と。

 ヘーゲルは、最終的にはスピノザを激しく批判するものの、もともと「すべての哲学者はスピノザ主義として始めなければならない」と言っていたくらいのスピノチストではあった。その思想も、スピノザ的実体の主体化ともいうべきものなので、似て非なるものではあるが、なんとなくわかる。

 しかし、カントはどうだろうか。カントが内在の哲学と結びつくのであろうか。

 ヨベルによれば、スピノザとカントは、ある共通の認識において同じ場所で戦っていたのだという。とはいえ、まったく相容れない部分もあるということで、ヨベルは両者の類似性と差異性を明らかにしながら、自論を展開している。

 一般にカントとスピノザが同じ「内在の哲学」として論じられることはきわめて少ないように思われるが、哲学者である江川隆男氏などは、最近出した新著『内在性の問題』において、カントを一義性の哲学、内在性の哲学者として見出し、積極的に論じていたりする。

 いずれにしてもこれらの比較を通じて、彼らに共通している、フロイトがいうところの「思想風土」というものがなんであるかを、あぶりだすことが主目的におかれている。

 その共通の思想風土こそ、ヨベルが「内在の哲学」と呼ぶものだが、柄谷行人が「無限」あるいは「自然史」の観念と呼んでいたものと、ほぼ同じ意である。

この現世的な実在はそもそも現に存在するすべてであり、唯一の現にあるもの、ならびに倫理的価値の唯一の源泉である。神自身は、自然の全体性と一体視されるものであり、神の掟は聖書のなかにではなく、自然と理性の諸法則のなかに書き込まれているのである。

人間に自らの聖なる意思を課する人格的な創造神も、いかなる種類のものであれ超自然的な力や価値といったものも存在しない。道徳と政治の法則もまた、そして宗教の法則さえも、理性の自然的な力によってこの現世から生じる・・・・・内在の思想はユダヤ教とキリスト教(およびイスラム)の大前提に対する挑戦であり、自然主義と世俗化の流れと密接な関係にある。

『スピノザ 異端の系譜』より


 スピノザが打ち立てた新しい原理である「内在の哲学」――。

 これらは近代ヨーロッパにおける「哲学上の革命」だとヨベルは説く。すなわち、世俗化、聖書批判、自然科学の興隆、啓蒙主義、そして自由主義・民主主義国家の先取りこそが、スピノザが果たしてきた役割なのだが、それらの「現世主義=内在主義」は、のちの偉大なる思想家たちによってさらに徹底、吟味、ときに批判もされ、今日まで脈々と受け継がれているのである。


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