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スピノザとキリスト


 よく言われるように、スピノザの神はキリスト教などで説かれるような人格的な神ではない。スピノザと交流する者は、スピノザが、どうも自分たちとは違う、急進的な思想を持っているということは知っていて付き合っていたのだが、あまり気にとめていなかったようだ。よく理解できていなかったのか、もしくは、まさか本気でそんなこと(人格神の否定)を考えているなどとは、思いもよらなったのかもしれない。

 ところが、聖書批判の書としても名高い『神学・政治論』が世に放たれる。後述するが、スピノザはどうしてもこの書を出す必要に迫られ、匿名で出版するのだが、内容からすぐにスピノザが書いたものであることがばれてしまい、キリスト教会から「前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」と罵られ、発禁処分を受けることになる。以後、スピノザは「無神論者」のレッテルを貼られることとなり、18世紀のドイツ観念論において「再発見」されるまで、学界においても総スカンをくらうという扱いであった。今でいう「タブー」というやつだ。それで、どうしてもスピノザが読みたいという知識人たちは、いわゆる地下写本というものでこっそりとスピノザを読み、それでいて公では決してその名を口にしなかったのだという。

 しかしスピノザが、キリスト教そのものを否定し、聖書の権威を貶めるために『神学・政治論』を書いたのかというと、そういうわけではない。スピノザの狙いはもっと別のところにあった。そもそもキリスト教に対して、スピノザにはこんな逸話が残されている。

 スピノザは最後の住居をハーグに移し、そこで晩年を過ごすのだが、フェールカーイ街の寡婦の家に寄寓し、食事の世話もしてもらっていた。スピノザの暮らしぶりは、静かなものであった。その倹約と節制した生活ぶりは、聖職者のようであったと言われる。

 スピノザは、借りていた家の寡婦や近所の人たちとの交流もあり、彼らが病気などになった時は、必ず彼らに話しかけ、慰めながら、彼らにこの運命が神によって課せられたことを教えて、じっと辛抱するように諭したのだという。寡婦の家の子供たちには、両親に従順であるよう教え、公の礼拝には参列するように促していたという。スピノザも時々、牧師の説教を聞きにいっては感心していたようだ。

 ある時、家の主婦に、このまま自分の宗教(キリスト教)に留まっていても、果たして幸福になれるのだろうかと尋ねられた時、スピノザはこう答えたのだという。

「あなたの宗教はりっぱです。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、幸福になるために何もほかの宗教を求めるには及びません」

 このエピソードからも、スピノザがキリスト教自体を否定していたわけではないというのがわかる。海外の研究者の中には、それはカモフラージュだという者もいれば、スピノザは実はカトリックであったという者もいるが、ユダヤ教を破門されたスピノザが、その後カトリックに改宗したという事実はないというのが大方の見方である。

 何より、『神学・政治論』を色眼鏡なしに読めば、スピノザは聖書については、自然の光(自然の法則)で理解できるようなことから得ようとはせず、聖書に書かれている真理は、聖書自体から得るべきであり、世界の真理を求める哲学(学問)とは、区別しないといけないと言っているのであって、聖書に書かれているものを否定したり、虚構を暴いてやろうなどという意図はないのである。

 ただし「奇跡」とかは表象知(imaginatio)であり、預言者は想像力に長けた者たちなのだということは、冷静かつ大胆に指摘している。しかし、スピノザがやろうとしていたことは、虚構や想像のような表象知(imaginatio)でしかないものを、さも自然的なもの(合理的な事実)であるかのように語る神学者や聖職者たちへの揺さぶりである。聖書に罪はなく、それを読む者たちが歪ませている、ということなのだ。(もっともそれが彼らを怒らせるのに十分であったともいえる…)

 そして、スピノザ自身は、キリストを神とは認めないまでも、人間を超えた人間、傑出した人物であることを評価している。

「ある人間がわれわれの認識の根本的基礎のうちに含まれないもの、またそれから導き出され得ないことをたんに精神のみによって把握するためには、その人の精神は必然的にふつうの人間の精神よりも卓越し、またはるかにすぐれたものでなければならなかった。それゆえ、私はキリストを除いていかなる人間も他の人間を超えてこのような完全性に達したとは思わない」(『神学政治論』)

『エチカ』においても、「真の自由人の名に値する人」、「その人は適切な考え・発想しか持ち得ない」と、明らかにキリストについて述べている箇所があると、フレデリック・ルノワールは指摘している。

 スピノザにとっての、キリストは「『永遠の真理』を人々に伝え、それによって人々を掟への隷従から解放した。そして同時に、掟の正しさを実証し
、確たるものにした彼は、それを人々の心の奥に永遠に刻みつけた」人なのだ。

 キリストは他の預言者と違い、「ものごとを本当に、十全に把握していたと考えらるからである。実際、キリストは預言者というよりも神の口であった。神はキリストの精神を通じて人類に何かを啓示したからだ」(『神学政治論』)

「永遠の救いを得るのに、肉に従って(肉的、この世的、人間的に)キリストを知ること(理解すること)は確かに少しも必要ないでしょう。でも、『永遠なる神の子』、言い換えれば『永遠なる神の叡智』となると話は全く違います。神の叡智はありとあらゆるものに、とりわけ人間の精神に、その中でも特にイエス・キリストにおいて発現し、明らかにされたのですから」(ヘンリー・オルデンバーグ宛の手紙、書簡七三)


『神学・政治論』については、またどこかで触れたいと思うが、スピノザは自身の哲学体系として取り組んでいた『エチカ』の執筆を中断してまで、この『神学・政治論』を書く必要があった。抜き差しならぬ複雑な政治状況が、自由の国オランダに降りかかっていて、その複雑さと緊張状態は、たんに保守派と急進派の対立のみならず、思想を弾圧する宗教勢力との関係性によって生まれていたようだ。

 スピノザは「不寛容な宗教勢力が既に多かれ少なかれ政治権力の中枢部に入ってしまっている場合に、思想の自由はどう守り抜けるか」(吉田量彦)ということを念頭に置き、『神学・政治論』を執筆した。スピノザが『神学・政治論』で示したかったことは、ものすごく大雑把に要点を伝えると、以下のようになる。

・聖書は、正しく読めば神の言葉でないことがわかる。いろいろな人間が書き継いできた「歴史物語」である。
・聖書は聖書の役割がある。それは信仰、とりわけ道徳や善といった規則、服従のベースとなるものである。哲学(学問)は、理性的な概念、もっぱら自然の法則に基づいて導かれるものである。
・両者を混同してはいけない。聖書に書かれていること=真理というわけではない。真理は哲学のそばにあり、聖書は、人間にとっての普遍的な道徳の実践(隣人愛など)を教える。
・信仰は、哲学する自由を認めているのだから、宗教がそれを弾圧することはできない(してはいけない)。
・哲学する自由(言論や表現の自由など)は認めても、道徳や国の平和は損なわれない。むしろ、この自由を踏みにじれば、国の平和や道徳心は必ず損なわれる。

 しかし、スピノザの意図は当時の人びとには伝わらなかった。今でこそ「最初のリベラルデモクラシーを唱えた人物」(レオ・シュトラウス)として目されるスピノザだが、事態はあらぬ方向へと進んでいったのである。『神学・政治論』は発禁処分となり、「スピノザは危険人物である」と、当時の人々を震撼、憤怒させた。

 スピノザと交流のあった、デカルトを学んでいたリベラルな知識人たちでさえ、この大胆なる聖書批判に激怒し、手のひらを返すようにしてスピノザから離れていったという。スピノザの真の狙いは「自由の擁護」であったにもかかわらず、正しく読まれなかったのだ。

 ヴォルテールは、「私の知っているスピノザはつねに筋道の通ったスピノザですが、誰もそれを読み解くことができないだけなのです」とある手紙にて書いていた。確か、柄谷行人もどこかで似たようなことを言っていた。

「スピノザこそが真に民衆のことを考えているのだが、民衆が喜ぶようなことは一行も書けないのだ」

 冒頭に、『神学・政治論』は聖書の権威を貶めるために書いたわけではないと述べたが、聖書については、確かに今みても容赦なく批判していることがわかる。スピノザからすれば、それらの指摘は至極真っ当なことだったのであろう。現代の、とりわけキリスト教文化圏ではない、われわれ日本人からすれば、その通りだなと思えるようなことをスピノザは述べているのだが、それは現代のわれわれのパースペクティブで、このテクストを読んでいるためであり、当時において(今も)、聖書は神の言葉であり、われわれを救済に導く書であるとされてきたものを、スピノザは「歴史物語」とさらっと言うわけである。そのあまりにも冷徹なる指摘と、哲学と信仰は違うのだという「仕分け」が、当時の人々の心を踏みにじるには十分な、ある意味、狂気にも似た不気味さを与えていたのだと思われる。

 繰り返すが、スピノザは上記のエピソードにもあるように、決してキリストやキリスト教の信仰を否定していたわけではない。むしろ、真理の追究という理論的なことは哲学で、生きるうえでの実践的なものとしては信仰は不可欠であるとさえ考えていた。ただ、真理の名のもとに、政治や人間の精神活動にまで入ってきて、哲学する自由を奪おうとする教会権力や世論に、何よりも危機を抱いていたのだと思う。そして、デカルト主義者のようにリベラルであるはずの知識人でさえも、キリスト教の神という権威の外には出ていなかったばかりか、聖書に書かれていることこそが真理であることを疑っていなかったという事実に、失望していたはずである。

『神学・政治論』が発禁処分となったのち、スピノザは『エチカ』の執筆を再開し、晩年の1675年にはスピノザの哲学体系そのものである『エチカ』を完成させた。そこには、「神即ち自然」「心身並行論」「感情について」「自由意志の否定」「神への知的愛」と、スピノザ思想の重要概念が詰まっている。だが、スピノザは『エチカ』の出版を断念した。『神学・政治論』で受けた反応を見れば、『エチカ』を世に放った際に、人びとがどんな反応をするか、どんな読まれ方をしてしまうか、明らかだったからである。


参照文献
『神学・政治論』スピノザ・吉田量彦訳(光文社古典新訳文庫)
『往復書簡』スピノザ・畠中尚志訳(岩波書店)
『スピノザの生涯と精神』リュカス/コレルス(学樹書院)
『スピノザ よく生きるための哲学』フレデリック・ルノワール(ポプラ社)
論文「宗教としてのスピノザ哲学」工藤喜作


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