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スピノザが考える「国家」や「自由」とは? 〜その3 個人の権利と力について〜


 
 前回は、スピノザの自然権についての考え方を示してきた。スピノザにおいては、自然権は、個においては無力であり、他者との共同の生活において、それが関係する人間が増えれば増えるほど自然権自体の強度が増すので、個の権利を最大限にしていくために国家の形成は不可避である、というものであった。

 では、その国家は実際にはどのような形をとるのであろうか。今回はそのことについて『政治論(邦題:国家論)』に即して説明していきたい。

国家状態について

 スピノザは、人間が共同で生活する状態を、自然状態に対して「国家(社会)状態」と呼ぶが、これはよく言われるような、自然状態から国家状態への移行ということをスピノザは想定していないと思われる。自然状態はあくまで仮定の話であり、実質的にはありえない、というのがスピノザの考えであるからだ。であれば、人間は最初からなんらかの国家状態、社会状態にある、というのを前提で考えるべきであろう。

 ホッブズの社会契約は、個人の自然権をすべて譲渡するものであった。そのかわり、絶対的な力と主権を持った国家に護ってもらう。自然状態における命の危険が晒されている恐怖から、国家という強大な主権者の力によって安全を確保してもらう。この主権者は人格を持つ。ホッブズはこの人格を「リヴァイアサン」と名付け、他のすべての者はこの主権者の臣民である。

 これに対しスピノザは、個人の自然権は、国家状態においても譲渡するものではないと考える。どんな状態においても、人間は自然における普遍的な法則=自己をよりよく維持しようとする力(コナトゥス)には従うからだ。

 譲渡はしない。しかし、スピノザのロジックでいけば、前回の記事でも説明している通り、一人で保持するだけでは実質、無力なため、個人は和合することを選ぶ。国家(共同体)に従うことを受け入れる。受け入れてもなお、「より大きい」「よりよい」利益を得られるからである。

このような仕方で、自然権に反することなく社会が作られる(『神学・政治論)」。自然権に矛盾することなく社会が、そして国家が作られるということは非常に大きな意味を持っている。なぜなら、この場合、国家と臣民の間の緊張関係が視野に収められているからだ。

『近代政治哲学』國分功一郎より

権利=力能について

 スピノザにおいては、自然権、個人が持つ権利とは、個人が持っている力、力能と同一であるといわれる。そして、「自然権を所与の固定的実体としてではなく、諸力の結合から産出される一定の構成物(浅野俊哉)」とみなされたものこそが、国家である。ゆえに国家もまた、自然権=力能を持つのである。

 スピノザは国家状態を、この個人が持つ権利=力能と、国家が持つ権利=力能の「パワーバランス」で考える。これが、スピノザの国家論をユニークにしているポイントである。

 ただ、個人が持っている自然権の行使の範囲は、国家状態においては、和合の中で従う必要があるので、限定され、減少するように思われる。これについて、スピノザは以下のように言う。

人間が共同の権利を持ちそしてすべての人々があたかも一つの精神によってのように導かれる場合においては、確かに彼らの各人は他の人々が全体として彼より強力であればあるだけ少なく権利を有する。言いかえれば、各人は実際には共同の権利が彼に認めるもの以外のいかなる権利をも自然に対して有しない。のみならず、各人は共同の意志が彼に命ずるすべてのことを遂行するように義務づけられる。

『国家論』スピノザ・畠中尚志訳(岩波書店)より

 どういうことか、文章の抜粋だけではわかりづらい部分があるので、下図のようにビジュアルにしてみた。人間、一人の時は個の力と全体の力はイコールである。だが、これが二人、三人と和合する人間が増えれば増えるほど、全体の力は大きくなり、個人の力は相対的に減少する。

図の作成:Guttiグッチ


 国家状態は、いちばん下にあるような関係図だが、この時、個人の力と全体の力の差は圧倒的である。この全体が持っている権利の範囲内において、個人は各自の権利を持つことになるので、個人がこの権利をこの全体の中で有意義に行使するためには、全体に従うよう義務付けられる。この力の差が、国家と国民の支配-被支配を裏付ける物理的基盤である。

統治権について

 この多数者の力によって規定されるこの権利は、通常、統治権(imperium)と呼ばれる。

この統治権は、共同の意志に基づいて国事の配慮をなす者、すなわち法律を制定し、解釈し、廃止し、都市を防備し、戦争と平和とを決定するなどの配慮をなす者の手中に絶対的に握られる。そしてこの配慮が全民衆から成る会議体に属する時にその統治は民主政治と呼ばれる。またその会議体が若干の選ばれた人々のみから成る時には貴族政治と呼ばれる・・・統治権が一人の手中にある時にそれは君主政治と呼ばれる。

『国家論』スピノザ・畠中尚志訳(岩波書店)より

 スピノザはこの多数者の力によって規定される権利=統治権の力が、どのように分割されているかで、政治体制の形態を定義する。再び図示すると、以下のように分類される。

図の作成:Guttiグッチ

 等号、不等号は、両者の力のバランスを表わす。統治者>被統治者の場合、統治者の方が力を持っているということなので、被統治者は隷従しているケースが考えられる。これはよい政治ではない。よい政治は、統治者の力と、被統治者の力関係が極力イコールである必要がある。被統治者が統治者の力を恐れているだけではない。統治者もまた、被統治者の力を恐れることで、下手な政治ができない。被統治者の満足をうかがいながら統治する必要がある。これがよい政治とされる。

 したがって、スピノザは、君主制であろうと貴族制であろうと民主制であろうと、よい政治が行われていれば構わない考える。君主制が歴史の必然性としてあり、かつ被統治者が、安全で、自由で、満足している、よい政治が行われているのであれば君主制でもよいのだ。

 ⑶の民主制は、統治と被統治がイコールである。ここの詳細については、じつはスピノザはほぼ触れることなしに『政治論』は終わってしまう。彼自身の死によって絶筆となってしまったからだ。スピノザが考えていた民主制がなんであったかは本当に惜しむべきところなのだが、普通に考えると、この民主制とは、あらゆる国民が同じ権利と力のもと自己統治、支配と被支配の関係におかれている状態なので、かなり「理想的」「理論上」の政治形態であるといえる。

 ここでお気づきの点があるかもしれないが、現代のわれわれの政治形態は、⑴から⑶のどれにあてはまるであろうか? ⑶を実現できている近代国家は、いまだ存在しないのではないか。スピノザの分類に則せば、ベースの部分では⑵であるということがわかる。

 ⑵は貴族政治と呼ばれるもので、「会議体が若干の選ばれた人々のみから成る」政治形態で、政党政治はまさにこれであろう。この少数者が、世襲で支配権を独占したり、経済力にものをいわせ、裏で支配権を持つような政治は寡頭政治と呼ばれるが、わが国は貴族(最上の者)というよりは、寡頭政治のように思えてならない・・

 この政党およびその人員は、選挙という「民意」によって選出されるのだという点が、現代においては民主主義政治と呼ばれるところであるわけだが、ここに立ち入ると煩雑になってしまうので今は触れない。

再び「自然権」について

 さて、これまでスピノザにおける、個人が持つ自然権から国家形成に至るまでの道筋を示してきたつもりであったが、どうしても触れないわけにはいかない、わが上野修先生の重要な研究成果がある。

 スピノザにおける「自然権」についてである。くどいようだが、改めてその点に触れておこうと思う。

 スピノザは、この国家状態においても、個人の自然権は譲渡しないばかりか、維持されるとした。しかし、国家状態においては制限される。これは具体的にどういうことを言っているのか、いまいちピンとこない方もいるかもしれない。

 人間には、自然の法則のままに、好き勝手に生きる権利はあるけれど、国家のもとでは好き勝手できないように制限される。それは、人がよりよく生きるためには、人間は他者との和合による国家に従うんだよ、という論理で説明してきたが、スピノザいわく、理性ではなく欲望と感情のままに突き動かされる人間が、国家のもとにおいて、すんなりとそうなるものだろうか?

 さらによく読むと、スピノザは「制限」ではなく、国家の中では自然権は「終息する」という言葉を使っている。私は、自然権は最終的になくならないのだから、制限されるとか減少するものなのだと勝手に思い込んでいた。

 しかし「終息」するのだとスピノザは言っている。その後すぐに、事態を正しく観測するならば、自然権は国家の中でも終息しないのだと説明しており、余計に混乱するのである。

 このあたり、日本語訳の「自然権」という言葉だけを追いかけると、わかりづらいものにしていると指摘するのが、スピノザ研究者の泰斗、上野修氏だ。詳しくは触れないが、上野修氏によれば、スピノザはこの「自然権」の用語を、じつはjus naturae=自然の権利、naturale jus=自然的な権利 と使い分けているのだという。

 上野修氏は、ラテン語における「jus」という用語には、「権利とも法とも解せる語義上の両義性を備えている」としたうえで、スピノザが自然権という時、用法上の両義性(ジュリディカルなものとフィジカルなもの)を明確に意図していると指摘する。

国家は最高権力である以上、各人が思いどおりに生きる「自然的な権利」は国家状態では停止する。しかしそれはあくまでもジュリディカルな意味でそういう権利は停止するということであって、各人の「自然の権利」は停止しない。・・・・・(スピノザは)「自然的な」(naturale)という形容詞と「自然の」(naturae)という属格名詞が「jus」という語の使用レジスターを切り替え、自然権概念を二重化しているのがわかる。

言うまでもなく「自然的な」(naturale)という語は「国家的」(civile)と対になったジュリディカルな対立語法において理解されるような意味での自然。それに対し「自然の権利」(jus naturae)という属格で現れる自然は「自然状態においてであろうと、国家状態においてであろうと」という表現から明らかなように、対立項を持たない絶対的な用法における自然である。

人間は自身の本性の諸法則から行為し、自己の利害を気遣う。そうする権利はフィジカルな意味での各人の本性自然「の」権利であって、正しく考えればわかるように国家状態でも停止しない。これがスピノザの論点である。

論文:「スピノザ『政治論』におけるjus(法/権利)の両義性」(上野修)より

 
 整理すると、スピノザの「自然権」には両義性があり、以下のようになる。

⑴ jus naturae=自然の権利 
→人間の本性上の権利/フィジカル/どんなことがあっても失われることはない

⑵ naturale jus=自然的な権利 
→法律上の権利(国家との対立語法としての「自然」が前提)/ジュリディカル/国家状態では制限、停止される

 平たくいってしまうと、人は国家に従う限りにおいては、自己の思いどおりに生きる権利=「自然的な権利(naturale jus)」は「法律上」停止させられるが、しかし、自分や身内が死の危険に陥る時や、脅威にさらされている時、そうしなければ身を護れないという時においては、何が何でも生きよう、命を護ろうという行動に出るであろう。これは自然の本性上そうなのだから、国家であれどんな権力者であれ、奪うことなどできないのだ。そのあと、法によって捌かれてしまうことはあれども、「本性上」人は、生きるためには手段を選ばない、それが「自然の権利(jus naturae)」である、ということではないだろうか。

 改めてこの「自然権」に立ち返ったのは、スピノザはまさしく、個人が和合し、かつ国家を形成するにあたっては、「自然的な権利」は停止されつつも、「自然の権利」は手放されないのだとすることで、スピノザによる国家形成のロジックをより明確に説明したかったからである。

 また、この自然権とは「国家」においてもあてはまる。「国家」はいうまでもなく、他の「国家」と対立、共存する。ときに戦争を行う。あるいは、国内における「反乱」「革命」もありえる。その際に再び、自然権の話に立ち戻る必要が出てくるので、今のうちに区分を明確にしておこうと思う。

 この「自然的な権利」を停止させてでも、人は和合し、国家に従うことになる。何によって停止させられるのか。それは、まさしく、上記でも述べたような「統治者」による統治の力であり、「法」である。統治者が、一であれば君主制、複数であれば貴族制、全員であれば民主制になるということは改めて述べておこう。

 したがって、国家に従う国民は、この「法」を順守する限りにおいて、よりよく生きる権利を得るのである。この時、この権利は、「あるがままに生きる権利(自然的な権利)」ではなく、「よりよく生きるための権利(国家のもとにある権利)に移行しているのである。

 この「全国家の共同の権利(法)」によって、何が「善」で何が「悪」であるかが定められ、法によって禁じれたものは「罪」となる。法に順守する人間は「正しい人」と呼ばれ、そうでない人間は「不正な人」と呼ばれる。この正と不正の概念も、この国家の中で考える限りにおいてである(自然状態においては、善悪や罪、正不正という概念はない)。

何がこの人に属し、何があの人に属するかが共同の権利(法)によって決定される国家の中にあっては、各人に対して各人のものを認めようとする恒常的な意思を持つ者は正しい人と呼ばれ、これに反して、他人に属するものを自分のものにしようとつとめる者は不正な人と呼ばれる。

『国家論』スピノザ・畠中尚志訳(岩波書店)より

いったんのまとめ

 ここまで書いてきて、スピノザの『政治論』は、読めば読むほど難しく、なかなか深みにはまってきた感じではある(笑)。テキストは原語で読むべきものということを、jusという言葉や「自然権」の原語一つで大きく変わってしまうことからも痛感するのだが、ラテン語が読めるわけではないので、素人ながらの解説をなんとか続けていきたいと思う。その際には、なるべく最新の研究を引き合いに出しながらそうしていきたいと思う。

 さて次回は、この国家状態における、国家が持つ最高権力(Civitas seu summae potestates)や、再び国家形態などに触れながら、スピノザが考えていた「国家」の具体像に迫ってみたいと思う。



<参考文献>
『国家論』スピノザ・畠中尚志訳(岩波書店)
『神学・政治論』スピノザ・吉田量彦訳(光文社古典新訳文庫)
『近代政治哲学―自然・主権・行政』國分功一郎(ちくま新書)
『スピノザと政治』エティエンヌ・バリバール・水嶋一憲訳(水声社)
『存在・感情・政治―スピノザへの政治心理学的接近』河村厚(関西大学出版部)
『スピノザ〈触発の思考〉』の世界/「スピノザの生涯と政治思想」浅野俊哉
論文:「スピノザ『政治論』におけるjus(法/権利)の両義性」(上野修)


<前編はこちら>

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