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永遠の相のもとに生きるということ スピノザ哲学からひも解く

 先月、妻の父、私にとっての義父が亡くなった。81歳であった。8月のはじめ、うだるような暑さの中、葬儀は行われた。義父の家は、無宗教だったから、葬儀でよくみていたお坊さんもいなければ、お経を唱えるというのもなかった。そのかわり音楽葬といってピアノが演奏され、美空ひばりの「川の流れのように」などが流れ、お焼香をあげ、弔いをする。

 初めての葬儀の形だったので、なんだか不思議な感覚であった。これまで参加してきた葬儀は、宗派は違えどすべて仏教だった。だからお坊さんがお経を唱えるということがあったし、葬儀のあと茶室かどこかに移動して、お菓子を食べながらお坊さんの説教をきくということがあった。

 義父の葬儀では、そういったものがなく、淡々と、それこそ川のせせらぎのように時間が流れていくのであった。それまでの仏教の葬儀では、現生の人間と死者との境界がはっきりとあり、こちらとあちらを区切られているような気がしたものだが、義父の葬儀にはそのような境界を感じることがなく、義父のご遺体との時間がより身近に感じられたことを覚えている。

 なにも、仏教の葬儀を否定したいわけではない。これは私個人の感覚的なものにすぎないかもしれないし、物静かで優しかった義父の人柄がそう感じさせてくれたのかもしれなかった。それでも、ご遺体がいよいよ外に運びこまれるとなり、棺桶の蓋をしめる際には、「お別れ」という思いが強くなり、私も妻も涙が堪えられなくなっていた。

 そして先日、四十九日となった。無宗教であるのに、そういった慣習は仏教のやり方に従うものかと少し不思議に思ったものだが、しかし人間というものは、宗教どうこうではなく、節目というものはやはり必要なのだと感じた。そうすることで、家族親戚らが集まり、お線香をあげ、食事をとる。その場にいる人間の笑顔が絶えなかった。とても素敵な時間だと思った。

 われわれは、自分の人生において、何度か他者の死、身内の死に直面する。そのたびに、生きるとはなんであろう、死とはなんであろうかという思いを抱く。このような時、人はやはり宗教なり信仰的なものを必要としてしまうのではないか。

 日本人はよく無宗教だと言われるが本当だろうか。葬儀を行い、その後も四十九日までは、祭壇を設け、白木位牌や骨壺、遺影などを供養する。形式的なものについては、やる家、やらない家、いろいろあっていいと思うが、死者を想うこと自体が、立派な宗教的態度なのではないだろうか。

 他者の死を目の当たりにすると、深い悲しみはもちろんのこと、死というもの自体への不安、恐れ、あるいは生きる時間の儚さ、虚しさのような思いを余儀なくされる。このような時、自分が日常において支柱としているつもりの理論的な知や経験による知というものは、どこか無力のような気がしてならない。

 つまり死というものは、誰もが認識・経験できない(死んだら認識さえできない)ものであるゆえ、思考化、言語化が難しく、何よりも、本能というか、感情的なものが先行してしまうのである。

 むろんそのような状態を前にしても冷静でいられる人は存在はするのかもしれない。しかし、私のこれまでの経験でいくと、やはり死というものに対しては、いつも動揺を隠すことができなかった。

 とはいえ、日常生活において、死を積極的に意識することはないし、あるいは世界中で日々起きている他者の死についていえば、それを想うこともできなければ、目を伏せてしまってさえいる。世界中のすべての人間の死を思い、悼むというのは到底無理な話ではある。そういう意味だと、哲学者の入不二基義氏がいうように、遠すぎる他者というのは、死者とどう違うのか、という話にもなる。

 だが、いざ自分の身近な人において直面すると、やはり人間における生と死、そのことについてを考えざるえない。かといって、それを考えたところでどうにかなるものでもない、ということもわかっている。結局目の前の時間を精一杯に過ごすということで、再びいつも通りの日常生活に戻っていくわけだが、身近な他者の死とはそのようにして、ある種、自分の日常を切断するような出来事として訪れる。

 *

 われらが哲学者のスピノザは、このような人間の身体的な死について、次のような美しい言葉を残している。

人間精神は、身体とともに完全に破壊されえない。むしろ、そのうちのあるものは永遠なるものとして残る(『エチカ』第五部定理二十三)

『エティカ』中央クラシックスより

 スピノザがこの定理で言おうとしていることは、よく誤解されがちな、身体が滅んでも魂は滅びないといったような「霊魂の不滅」とは異なる。

 スピノザ哲学においては、ものの存在の仕方、時間の考え方には二つある。

⑴  一定の時間と場所に関係する現実的な存在
⑵  神(=自然)のうちにふくまれ、神の必然性によって生じる存在、すなわち本質的な存在

 ⑴は「持続」とよばれる時間システムの中での存在で、この持続とは、人間という有限なる存在による「表象知」、あるいは「想像力」であるのだとスピノザは説明する。

 人間はこの時間というものを、過去、現在、未来という線的な持続において、時間というものが存在するものであるかのように表象するのである。スピノザにおいては、この持続する時間は、具体的な実態をもっていない。

⑵は「永遠」とよばれる時間システムにおける存在のことで、「現実に存在するあらゆる物体あるいは個物についての観念は、神の永遠・無限の本質を必然的に含んでいる(『エチカ』第二部定理四十五)」とされる。

 この「現実存在」は、スピノザにとっては永遠と同義なのである。

 現実に存在することが本質的な神(=自然)にとっては、<現在>だけがある。哲学者の入不二基義風にいえば、<今ここ>だけが、神にとっての時間であり、神の無限の変容は、その都度、その都度が<今ここ>なのであって、前の状態から次の状態、過去から未来へという形での認識ではないのだ(参照:『スピノザの存在論における二つの時間システム』)。

 刻一刻と変化する、文字通り刻まれる<今ここ>という現実のみがある。その現実とは、<今ここ>に存在する、あらゆる個物の運動そのものであり、変化そのものであり、その生成変化こそが、無限であり永遠であるということだ。

 そして、スピノザにおいては「心身並行論」の考え方がとられる。人間の身体と精神は、同一なるものの異なる表現であり、神(=自然)の活動と神の思考は連動している(参照:関連記事『メンタルなしで世界を思考する? スピノザにおける無限知性と人間の精神について』)。

 ここでは詳細な議論は避けるが、神(自然)において、本質の存在とは必然的なものであり、必然的なものは永遠存在である。そして人間を含めたあらゆる個物的な存在は、神の永遠・無限の本質を表現している(『エチカ』第一部定義六より)。

 そのため、人間身体の本質が永遠存在をなすならば、それに対応する精神も永遠である、ということだ。

 このあたりの議論は、『エチカ』を読み込む必要があるため、わかりずらい部分ではあると思う。私も正しく理解しているのかどうかはあやしい。ただ、研究者の解釈や、哲学史的な文脈抜きに、私なりの直感的な私見を述べさせてもらうと、スピノザの『エチカ』第五部は、この章に至るまでは人間一般の「精神」や「身体」「感情」についてを論理的に説明していたのに対し、この第五部には、ある種の「飛躍」があるということは指摘できると思う。あるいは「転換」といってもよいかもしれない。

 それが、この世界を持続といった時間軸ではなく、「永遠の相のもとに見る」、ということであり、永遠の相のもとに世界を見るとは、この世界=現実、神=自然をよりよく認識しようというものである。そしてその神をよりよく認識すればするほど、人間はその認識に喜びを見出し、神を愛するまでに至るということだ。

 永遠の相のもとに世界を認識する、とは具体的に何? ということであれば多くの説明を要してしまうので、それについては『エチカ』を読む方がよいであろう。だが、『エチカ』を読んでも、よくわからないというのは正直ある。

 しかし、スピノザに倣っていえば、この永遠の相のもとで世界を認識する方法を、スピノザは「直観知」(第三種の認識)と名付けている。

われわれは、第三種の認識によって認識するすべてのことを楽しむ。しかもこの楽しみは、原因としての神の観念を伴っている。

系 第三種の認識から、必然的に神への知的愛が生じてくる。なぜならこの種の認識から原因としての神の観念をともなう喜び、すなわち神への愛が生じてくる。しかもこの愛は、神を現存在的なものとして想像するかぎりの神への愛ではなくて、神を永遠であると認識するかぎりの神への愛である。これがすなわち、神への知的愛と呼ぶものである(『エチカ』第五部定理三十二)

『エティカ』中央クラシックスより

 
 もはや言うまでもないが、スピノザの神とは人格神ではない。この自然そのもの、「現実」そのものであった。そしてこの現実が永遠と同義なのだということは、「今ここ」という時間のみが、永遠であるということである。それはもはや時間と呼べるようなものではないのかもしれない。

 私なりの勝手な解釈で進めると、スピノザによる上記の「神への知的愛」とは、この現実、世界のよりよい知的認識である。つまりは、よりよく生きるということと、よりよく生きるためには、あらゆる知を認識せよ、ということではないかと考えている。むろんこの知とは何も勉学に限ったものではないだろう。

 <今ここ>において存在する身体、それは、誰においても何においても代替されることのない一回性そのものである。われわれ人間の存在は、その個々が、この一回性を持ってこの世界に出現する。

 この一回性の生とは、「この私」という身体=精神の意でもある。他の誰でもない、他に考えることのできない「この私」という現実。そして神の本質において、現実が永遠であるということは、「この私」の一回限りの生もまた永遠であるということだ。

 そして死とは、あくまで持続的な時間の概念における身体の消滅である。持続的な時間のもとで、人はこの死というものを想像し、なおかつ自分が消失した世界、欠如した世界というものを想像し、その自分がいない世界を恐れる。

 だが、入不二基義氏が指摘するように、人は「死」における自分の存在の無(未来の無)は恐れるのに、自分が生まれてくる前の無(過去の無)に対しては関心をもっていない。自分が死んだ後の世界は、現在の相のもとから、自分の身体の「欠如」を想像してしまうのだが、自分が生まれてもいなかった過去はその「欠如」でさえないゆえに、恐れも生じないのだろう。

 恐れとか悲しみという受動的な感情は、あくまで持続的な時間のもとにおいて考えるかぎりにおいて生じるものであろう。

 スピノザは言う。

「精神が受動的な感情に支配されるのは、身体が持続するあいだだけである(『エチカ』第五部定理三十四)」。

 だが、「精神が第二種と第三種の認識によってものを認識することが多ければ、それだけ悪い感情から影響を受けることが少ない。そして死をそれだけ恐れなくなる(『エチカ』第五部定理三十八)」のである。

 そして、スピノザははっきりとこう断言するのである。

自由な人間は何より死について考えることがない。そして彼の知恵は、死についての省察ではなく、生きることについての省察である(『エチカ』第四部定理六十七)

『エティカ』中央クラシックスより

  *

 義父の四十九日の法要のとき、私は少し煙草を吸おうと、義父のマンションの外へ出て、指定の喫煙所のベンチに座り、煙草を吸っていた。そして煙草を吸いながら、義父が亡くなったことと人間の死について、スピノザが言っていたことを手繰り寄せながら、あれこれと考えていたのであった。

 スピノザの考えによれば、この人間の死は、あくまで持続的な時間の中における死である。物理的な身体は滅んでも、本質としてこの世界に刻まれた身体は滅びていないのだし、精神も滅ばない。

 義父が存在したという一回性は、もうそれだけで完結しているのであり、始まりも終わりもなく、そこにあった。現在の私から想起するのであれば、「あった」という表現になるのだが、この神=自然の本質においては、義父の<今ここ>は「ずっとある」のである。

 義父は、永遠を生きている。

 それは、同様にこの私においても同じである。あらゆる人間が、生命が、個物が、神=自然の内で、永遠を生きている。

 だからこそ、だからこそである。この<今ここ>のみをめいいっぱい生きること、他者とともに喜びを多くすること、そのためにあらゆる知を経験を楽しむこと、それのみが、この私が存在するということの唯一の証なのではないか。

 しかし、それはきわめて険しく、ハードルの高い認識である。スピノザにおける「神への知的愛」は、よほどの賢者でないとたどり着けないもののように思える。実際にスピノザも、「とにかくすぐれたものは、すべて稀有であるとともに困難である」と『エチカ』を締めくくっている。

 だが、険しくてもいい。目の前の<今ここ>をよりよく生きる、そのことを認識するということ。それだけで、まずはいいのだ、多分。

 どこからか、子ども声がした。さてそろそろ戻ろうかと思い、私は煙草をもみ消しながら立ち上がった。その時であった。喫煙所の目の前をひょっこりと、義父が姿を現した。「よう〇〇くん」義父はそう言って、いつも散歩の時にかぶっていたゴルフ帽を脱いで、私に向かって会釈した。

 私も会釈を返した。


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