『殘』
『殘』
自宅の裏庭で飼っている柴犬のフジマルが選挙カーにむかって、けたたましく吠えていた。表にいた父は門柱に卑猥なマークが落書きされていると憤慨していて、今はしかめ面で昼飯を貪り食っている。
裏庭は低い縦格子のアルミフェンスを隔てて道路に面しており、フジマルはフェンスの間から顔を突き出してみたり、犬小屋のぐるりを狂的に走り回りながら昂奮していた。執拗に遠吠えを繰り返す。
すると、その騒々しさに苛立った父が、食べかけの天ぷらうどんを放擲して、台所の勝手口から外に飛び出すと、「うるせー、この畜生めがァ!」と言って、フジマルにずかずか近づいていき、フジマルの頭を拳骨で殴った。そして、顔に痰を吐きつけた。
途端にフジマルは萎縮して、カッカッカッケックという変な咳をしながら、一目散に犬小屋へ走った。
フジマルは父に何度も暴力を振るわれている。
尻を靴べらで叩かれたこともあるし、脇腹を革靴で蹴られたこともあるし、鼻の頭にやきとりの竹串を突き刺されたこともあった。だから、フジマルは父のことを嫌悪しており、基本的に近寄らなかった。
平生、父が帰宅するとき、自宅に近づいてくる父の運転する軽自動車のエンジン音を聞くだけで、フジマルは裏庭を震えながらうろうろした。フジマルは血統書付きの柴犬のオスなのだが、闘志のかけらもない臆病な犬だった。飼い主の私と同じである。
フジマルを犬小屋に追いやった父は、台所の冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、グラスに注いだ牛乳を満足げに飲んでいた。そして、破顔で、「ああ、静かになってよかった。ああ、んめー。んめなァ」などと言って、台所の小窓から外を眺めていた。
小窓の外側では風鈴が風になびいていた。それは母が百円ショップで買ってきた安物である。
微かに聞こえるその涼しげな音がしていたが、玄関の引き戸を乱暴に開ける音で忽ち掻き消された。
朝から家の庭の一角にある小さな畑をいじっていたじいちゃんが家に入ってきたのだ。
じいちゃんは硝子障子を隔てて繋がっている居間とリビングの前の廊下を歩き、「さっきからきんたまが痒いし、漏れそうだ…」と言って、股間を触りながら廊下の突き当たりにある便所に入っていった。
じいちゃんは何事にも無頓着な性格の男である。
先日、じいちゃんが町の病院へ行ったとき、間違って、ばあちゃんのレースのパンツを身につけて健康診断を受けていた。無論、医師や看護師たちは不審な目でじいちゃんのことを見ていたらしい。
そんなじいちゃんは土で汚れた、汗まみれの靴下で廊下を歩くので、廊下にじいちゃんの足跡が魚拓のようについていた。しかも、そこから鼻を突く臭気がする。それに気がついた父はしかめ面で、かぁぁぁ、と言ってから、「あのあんぽんたんジジイがッ…」とつぶやいた。そして、洗面所から雑巾を掴んできて、床に四つん這いになると、玄関から便所にむかって、その汚れをひとつひとつ丁寧に拭いていった。母がいれば、母に掃除を頼むのだろうが、あいにく、母はパン屋のパートに出かけている。居間でテレビを観ているばあちゃんは万年腰が悪いので掃除を頼めない。私の三つ下の妹は遊びに出かけていた。私は父にあまり好かれていないし、信用されてもいなかった。だから、手が空いていても、そもそも掃除を頼まれることなどないのである。
先日、父は母と二人で半日がかりでワックスをかけた廊下をじいちゃんに汚されたことに業腹だった。ぶつぶつと文句を言いながら、喧嘩腰で床を雑巾でゴシゴシと拭いている。しかし、父はあまりにも不必要に力を入れて床を擦るものだから、床の汚れだけではなく、表面のワックスまで剥げてしまった。それに途中で気がついた父は唖然として、
「ああ、どうすっぺ…やっちまった!」
と言って、地団駄を踏んで口惜しがった。
そのとき、じいちゃんが便所から出てきた。そして、汚い靴下のままで家の中を歩き回ろうとする。
それを察知した父は空咳をしながら立ち上がり、
「おい!とおさん!その汚い靴下を脱いでけろォ!常識的に考えられないことをとおさんはしている。今すぐに脱いで、風呂場で足を洗ってこいッ!」
と怒鳴り声を上げると、憎々しげにじいちゃんの顔を見た。父の目は血走っており、顔が首まで真っ赤になっていた。悪鬼のような凶暴な相好である。
しかし、じいちゃんは恬然としており、
「おい。おめー、短気は損気だぞォ!そんなにおっきな声を出すなやァ。隣の蒲倉のボケナスにおめーのきちがいみたいなどら声が聞こえっぺや!」
と言って、鼻毛を抜きながら、せせら笑った。
蒲倉とは、私の家の隣に住んでいるキジムナーみたいな赤ら顔の六十すぎのおっさんである。
夜、酒を鯨飲して乱酔したじいちゃんが父やばあちゃんと喧嘩をすると、「わひは今から物置小屋で首を吊るからなッ!」とか言って、家族を脅しながら外に出ていくのだが、そのときは必ず、隣の蒲倉さんの家に行くのである。そして、一人暮らしの蒲倉さんと二人で夜通し酒を飲んで楽しんでいるのだ。
私は便所の隣にある洗面所で歯を磨いていた。
すると、便所に入った父が絶叫したので噴き出してしまい、毛先の広がった歯ブラシを床に落とした。
今朝、母が掃除したばかりの便所がひどく汚されていたらしい。じいちゃんが便座をおろした状態で立小便をしたせいで、便器は便座カバーもろともびしょびしょに濡れており、床には小便の水たまりができていたようだ。父は便所の中から、「とおさん!ちょっと、こっちこいッ!」と叫んだが、すでにじいちゃんは禿頭にタオルを巻き、くわえ煙草で畑の土に如雨露で水を撒いていた。無論、靴下は交換していない。じいちゃんは人の言うことに耳を貸さない性格なのだ。私は笑いがこらえられなくなり、洗面所を出て、廊下の中途にある階段をおもいきり駆け上がった。それは喉元から込み上げてくる笑い声をごまかすためである。父とじいちゃんの不毛なやりとりがあまりにもばかばかしいと思ったのだ。
そのとき、便所の中で狼狽している父が、
「凌ォ!常識的に考えて、そんな乱暴な上り方をするあんぽんたんがいるかァ!もっと静かに上らないと階段が壊れっぺや!凌ォ、ろぐでねーぞッ!」
と地割れが起こりそうなほどの大声で叫喚した。
本当に苛立った声だった。しかし、私はそれを無視して、二階にある自分の部屋の襖を閉めた。
襖を閉めた後も父の苛立った声が階下からきれぎれに聞こえ続けた。私は閉めた襖の前に立ったまま、「まぬけのバカめ…」と肩を震わせて笑った。
日当たりのあまり良くない六畳間の柱にかけてある鳩時計を見ると、午後一時三十ニ分になっていた。
いい加減、父は市役所に戻らなくていいのだろうか。地方公務員である父は市役所で働いているのだが、昼休みにわざわざ家に帰ってきて飯を食べるのが日課だった。しかし、昼休みの時間内に市役所に戻ったことがほとんどない。何かしらの要件を理由にして、家でだらだらと休んでいるのである。それを度々目撃している私は父のことを軽蔑していた。
家族の中で父は毒物で、じいちゃんは劇物という感じである。彼らは血の繋がった親子でありながら性格が合わず、互いに嫌悪しており、諍いが絶えなかった。私たちは彼らの諍いによく巻き込まれた。
先日の晩飯のとき、父とじいちゃんが大喧嘩をした。ことの発端はヨーグルトだった。
食事中にじいちゃんがカップのヨーグルトのフタを舌でベロベロと舐めた。父がそれは下品な行為だからやめろと注意すると、じいちゃんが憤慨し、
「なんだ、おめー!フタをちょこっと舐めただけで、なんでおめーからいちいちそんなことを言われなくちゃなんねぇんだ!フタについてるヨーグルトが一番うめぇのをおめーは知らねーのかァ!ベロが抜けるくれーうめぇんだ。おめーはバカだなッ。ははッ。おめーがここにいると気分が悪くなるから、さっさと片づけてどっか行け、このやろうォ!」
と外まで聞こえるような暴れ声で叫んで、父に食ってかかった。短気な父はすぐにカッとなり、椅子から立ち上がると、じいちゃんの頬をバチンッと平手打ちした。その衝撃でじいちゃんの耳につけている補聴器がぽろりと外れてフローリングに転がった。
顔をゆがめたじいちゃんは、父の腕をおもいきり掴むと、変なタイミングでげっぷをしてから、
「何すんだッ、このやろう!わひ、しこたま腹立った。仏の顔も三度まで。おめー、ぶち殺すぞ!」
と言って、リビングから隣の居間へ父を強引に引っ張っていこうとした。そのとき、床に菜箸を落としたばあちゃんが、目に溜めた涙を揺らしながら、
「とおさんたち、もうやめでけろォ!ヨーグルトなんて買ってきちまったおらが悪かったから、もうやめでけろォ!頼む、おらを許してけろォ!」
と言って、泣き叫びながら、じいちゃんの足にすがりついた。しかし、憤慨しているじいちゃんはますます昂奮して、「じゃかしい、クソババア!」と言って、ばあちゃんを足蹴りすると、父を居間に引っ張っていき、足を引っ掛けて父を転倒させてから、
「なんだこのやろう!おめー、ふざけるのもいい加減にしろよォ!この親不孝の腐れムスコ!おめーの性格の悪さは誰に似たんだべかな?いつも何を考えてんのか、わひにはさっぱりわかんね。おめー、わひにむかって小生意気なことばっかぬかしてると、いつか天罰がくだるぞ。天に唾すればわが身に返る。もう、おめーは事故かなんかで死んでくれ!」
などと青筋を立てて怒鳴りつけて、青畳に仰臥している父の側頭部をおもいきり足蹴りした。父の眼鏡が外れた。父は強度の近視である。父は人前でカツラでも落としたかのような敏捷な動きで眼鏡を拾うと、覚束ない足取りでよろよろと立ち上がり、
「おれはオマエのことを父親だと思ったことなんて一度もない!オマエと飯を食べるとまずくなる…」
と言いながら、眼鏡のフレームのゆがみを気にしていたが、三角に吊り上げた目を見開いて、続けて、
「この家はおれが建てた家なんだから、オマエはこの家から出ていってもらうからなッ!出ていけ!」
そう言うと、じいちゃんの顔に白濁した唾を吐いた。すると、じいちゃんは忽ちぬらりひょんのような顔になり、「わひに何をしやがる、このやろうォ!」と声を荒げて父の眼鏡を手荒に奪い取った。あああううッ、という間抜けな声を漏らした父は視界を失ってよろめいた。父の弱点をわかっているじいちゃんはにやりと笑い、父の眼鏡を居間の長押の裏に隠した。じいちゃんは悪辣な顔をしていた。私は彼らの諍いを茫然自失で見ていた。じいちゃんの目が獰猛だった。私は身震いがした。この家に生まれて来なければよかったと心の底から思った。
そのとき、父がじいちゃんの顔を殴打した。
じいちゃんは、「ううっ、いてぇよ…」という声を漏らすと、よろめいて青畳に倒れた。その拍子に、片足が横にある障子紙にぶつかって派手に破れた。
ぜえぜえと肩息をついて狂的に昂奮している父は、
「このタコ親父!おれの眼鏡には絶対に触るなと言っているだろう。絶対にだァ!ばかやろうォ!」
と言って、一重まぶたの目を細めながら長押に手を伸ばした。そして、眼鏡の分厚なレンズの表面にふうふうと息を吹きかけて、細かな埃を丁寧にはらった。青畳の上で身をよじりながら、うめき声を漏らしているじいちゃんの顔は黄変した米粒のように貧弱になっていた。私は気分がくさくさしていた。
階下で父の、「かぁぁぁ、クソッ!」という声が響いた。私は足音を立てずに階段を降りていくと、
父が玄関口に立っていた。土間が泥だらけになっている。無論、それもじいちゃんの仕業だった。
土間には土だらけの軍手と鋭い草刈り鎌が無造作に置いてあり、開けっ放しの引き戸の沓摺を大きな毛虫がゆっくりと乗り越えようとしていた。
それに気がついた父は絶叫した。父は虫が大嫌いなのだ。目に入れても痛くないような小さな羽虫でさえ、嫌悪の対象として見ているような男だった。
苛立った父は下駄箱の上に飾ってある漆塗りの瓢箪を掴むと、毛虫にむかってそれを投げつけた。
毛虫は突然、急足で土間を突き進んでいき、上がり框の下でうずくまると、死んだように動かなくなった。玄関まで天ぷらうどんの匂いが漂っていた。
私は右肘のかさぶたを引っ掻きながら、「ダサい男だな…いいから早く職場に戻れよ…」と思った。
その時分の父は四十である。四十にして惑わずというが、人間は四十になってもまだまだ幼稚であり、成長の遅い残念な生き物なのかもしれない。
そして、自分はどんなことがあっても、父やじいちゃんのような人間にはなってはいけないと思った。
父は友達がひとりもいなかったらしい。のみならず、職場の市役所でも皆から嫌われていたという。だから、父は職場に自分の居場所がなくて、昼飯を食べるためにわざわざ家に帰ってきていたのだ。
人が人に好かれないのには理由がある。
また、人が人を嫌うのにも理由がある。
人から好かれない人、人から嫌われる人は、他者に対して思いやりや優しさのない、自分のことばかりを考えて生きている低俗で愚かな生き物なのだ。
大概、男も女も皆そうである。
結局、父は私の十七の誕生日の直前に蒸発した。
〜了〜
愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。
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