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自己紹介|読書と執筆ばっかりしてきた女の話。

物語。
それは物心つく頃から、常にわたしの傍にありました。

物語を読むことと書くことは、わたしの人生の中で最も欠かせない行為です。

今回は、そんなわたしの自己紹介です。

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現在のわたし

自己紹介と読書と執筆と演劇

まずは、現在のわたしについて簡単にご紹介します。

●1991年生まれ、31歳
●大学の同級生だった夫と結婚4年目
●2021年12月出産、現在生後7ヶ月の息子がいます
●関西出身→関東在住
●Webライター、シナリオライターとして働いている
●HSP(highly sensitive parson)だが、その中でも繊細でありながら刺激を好むHSS型HSPだと自認している。
●読書量は月に10冊~15冊ほど
●文芸作品などを書いています
●文芸フリマに行ってみたいし参加したい

物語の魅力にハマった幼少期

自己紹介と読書と執筆と演劇

■読書の始まり
私にとって"読む"ことが始まったのは物心ついた頃です。

手のひらサイズの童話の絵本を読んでもらうのが好きで、母によれば字が読めるようになる前にも関わらず、読み聞かせによって文面を暗記し、勝手に1人で童話を読み始めていたそうです。

■児童文学全集との出会い
当時新聞屋に勤めていた祖母が知り合いからもらってきた、段ボールいっぱいの児童文学全集が私の読者人生に大きな影響を与えました。

その全集の赤いベルベットの表紙には、金糸で絵が織り込まれていて、「白雪姫」や「シンデレラ」などの美しい絵が刺繍されていました。

ページをめくると挿絵はイラストではなく、すべて油彩による絵画として描かれていて、今思えばとても贅沢な全集だったと思います(どの出版社から刊行されたのか不明ですが…)。

読書に夢中になれたのは、間違いなくその全集のおかげだと思います。

長編を書いた小学6年生

自己紹介と読書と執筆と演劇


■ちょっと浮いてた小学生時代
周囲よりも発育が早く、小学4年生の時点で大人と間違えられていた私は、やっぱり学校の中でも少し浮いていました。 
仕事で忙しかった両親も、なんとなく私のことを「持て余している」感じがあったのも事実。

そんな中で育っていくのは「わかってもらえない」という気持ちでした。
そのせいでトラブルになったことも何度かありました。

■いきなり長編ファンタジーを書き始めた
きっかけは覚えていないのですが、物語に没頭する中で自然に「自分でも物語を書いてみたい」という気持ちが生まれました。

小学5年生・6年生当時の担任の先生が、毎週「自由勉強」を提出させる方で、私は先生に「自由勉強って小説を書くことでもいいのですか?」と聞いたのを覚えています。
それがきっかけで、100均で買ったノートに小説を書き連ねていくことになりました。

そのシリーズは赤毛の女の子が仲間と一緒に世界を救うという、なんだか色々な設定をごちゃまぜにしたような物語だったのですが(笑)
なんと第5作目で完結するまで、実に小学6年生から中学3年生までの4年間の歳月を有したんです。

小学校を卒業するまでに第2作目まで書き終わり、中学生になってから執筆を開始した第3作目からは、担任の先生に代わって数人の同級生が読んでくれるようになりました。

ちなみに当時の私が影響を受けた作品は
●ハリー・ポッターシリーズ
●シートン動物記
●ONE PIECE
●時空異邦人KYOKO  などです。

この時点で私の「創作者」としての基盤が出来たのだと思います。


演劇に命を捧げたティーンエイジャー

自己紹介と読書と執筆と演劇

■”戯曲”に出会う
中学生からは演劇に命をかけており、やがて当時の府内では唯一演劇を学ぶことが出来る高校に進学しました。

その高校の演劇部はまあまあの強豪校で部員も多く、役者として舞台に立つには毎回熾烈なオーディションを勝ち進まなくてはなりませんでした。

せっかく強豪校に入り、学校に付属している設備も申し分ない状態だったのに(中学校では教室で活動していた)先輩方の選ぶ台本がイマイチ…と当時の私は思っていました(生意気だな)。

そこで「ネットで拾いました」と嘘をついて、自作の台本を提出。
(自分で書きましたと言えばいいのに、自意識過剰なところが思春期ですね)

なんとこの作品が採用されてしまい、演劇部で上演されることになったのです。

演劇の台本、いわゆる”戯曲”を書いたのはこれが初めて。
小説を書く時よりも「キャラクターが喋る」感じが顕著で、自分の思っていることを代弁しやすくとても面白かったのを覚えています。

■自分の人生を一本の作品に
ここから、演技者としてだけでなく自ら劇を書くようになりました。

進学した芸術大学では卒業論文の代わりに戯曲制作をしたり。
【自主公演】と言って学生同士で上演するお芝居に戯曲を提供したりするようになっていきます。

それが高じて、大学4年間の集大成として出演者がたった一人で上演する「一人芝居」を打ちました。
女優という自分の立場を活かして、劇の中で1人20役くらいしたのかな。
当時のスタッフの方々には本当に助けられました。今でも大切な人達です。

■死ぬほど本を読んだ4年間だった
元々読書するのは好きだったものの、何かあればすぐに「物語の世界に駆け込みたい」と思うようになったのは大学生の頃からだったと思います。

とにかく大学内の図書館が素晴らしく、しょっちゅうそこに通っては世界中の本を読みました。
特に全集をたくさん読んだのが印象に残っています。

英米文学はもちろんのこと、個人的にはドイツ文学が面白かった。
世界や日本の戯曲もたくさん読みました。

この時の私はとにかく毎日が楽しくて、これから待ち受けるひどい未来を全くもって想像していなかったのです。

転落人生

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■続く苦難の時代
大学卒業後から数年間、苦難の時代が続きます。
一般企業に就職せずプロの女優を目指すことになった私は、2014年の春にとある研修所へ入所したのですが、そこでいじめに遭ったのと研修所の圧力に耐えかねて飛び出してしまいました。

その後はアルバイトをいくつかかけもちしながら、オーディションを受けて舞台に立つ日々が続きます。

食品販売、ホテルの受付、ラウンジのホステス…
3つのアルバイトをかけもちしていましたが、オーディション会場に行く交通費や稽古の期間にはアルバイトが出来なくなること、宣材写真やお付き合いのための飲み会代など、収入よりも出ていくお金の方が多かったです。

今思えば、どうやって毎日を過ごしていたんでしょうか。
辛かった感情だけが残っていて詳細は覚えていませんが、栄養失調状態で引くほど髪が抜けたのと、毎日歯茎から血が出ていたことは覚えています。

今思えば若くてキレイな20代前半から20代半ばの時期を、毎日その日の飢えをどうやってしのぐかということに追われながら過ごしていたのはとてももったいないですね。
さらに将来にも展望が見えず、とても辛かったです。

この頃は図書館で借りた本を読むことが救いになっていましたが、書くということは出来ませんでした。

■セクハラ被害で限界に
そんな中、とあるオーディションで知り合った演出家にひどいセクハラを受け、苦しめられます。
舞台に立つという条件をちらつかせ、わざと終電間際に呼び出されたり、何かあるとすぐ「これだけしてやるんだから俺の愛人になれ」と言われたり。

その時の私は世間知らずで、その演出家が絶対的な力を持ち、私の方がずいぶん弱い立場にいると思いこまされていたんです。
関係を持つことは最後まで拒否していましたが、そんな折、突然性被害に遭ってしまいました。

貧乏で明るい将来も見えない私にとって、このことは我慢の限界でした。
当時出演予定の作品があったのですが、性被害に遭ったことで舞台に立てる精神状態ではなく、降板を決めた私に、当時の共演者やスタッフから投げかけられた心ない言葉がセカンドレイプとして私を苦しめました。

そして私は一時期的に故郷へ帰ることになったのです。

ひょんなことから支援員に

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■ワンストップ救援センターに出会う
性的被害に遭った私を、母がワンストップ救援センターに連れて行ってくれました。
そこは医師の診察、カウンセラーからのカウンセリング、アロママッサージなどのヒーリング、そして回復した後の社会復帰まで寄り添ってくれるという場所で、私もずいぶんお世話になりました。

そこでカウンセリングを重ねるうちに、私には「自己肯定感」「自己決定」が失われていたことに気づきました。
演出家にセクハラを受けていた時にも「知らず知らずのうちに思わせぶりな態度を取る私が悪いから…」と思い込まされていたり。
性被害に遭った後も、「こんな目に遭ってしまって周囲に迷惑をかけた自分は、なんて最低なんだろう」と思ったりしていました。

でも本当は、性的被害においては100%加害者に非があり、被害者にはそこから逃げる権利も回復する権利も充分に与えられているのです。
私は救援センターで多くの人に助けてもらったことで、そのことを少しずつ理解していったのでした。

■ドラマセラピーやってみない?
救援センターに通ううちに、そこの責任者の方から「ドラマセラピーをやってみないか」と持ちかけられます。

ドラマセラピーとは俳優が実践している演技法を使用して、回復過程にある人達の心と身体を解きほぐしていく…というもの。
イギリスやオランダでは学校の授業にも導入されています。

もう二度と演劇に関わることはないだろうと思っていた私は、おっかなびっくりセラピーを開催してみたのですが、ここで受講者の方々と交流をすることにより演劇の新しい側面を見つけることになりました。

そして1年後には、セラピーを受講してくれた皆さんと一緒に演劇を上演することになったのです。
その時、私は数年ぶりに戯曲を書きました。

テーマは「抑圧からの解放」。
この頃から「呪いをどんどん解いていこうよ」というスタンスが私の創作の源になっていきます。

結婚、専業主婦時代

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■結婚のため関東に戻る
2018年、大学時代からずっとお付き合いしていた彼(今の夫)と話し合い、交際5年目に突入することをきっかけに結婚することになりました。
彼は私が性被害に遭ってからも献身的にサポートしてくれて、そのことを今でも本当に感謝しています。

夫が東京の企業に就職しているため、2人で話し合って私は結婚後関東地方に戻ることに。
いつの間にかワンストップ救援センターで正社員として働くようになっていた私は、キャリアか夫か悩んだのですが、周囲の人と話し合い、結局は関東に戻ることにしたのです。

■「何者でもない」自分に悩む
結婚生活が始まり、専業主婦だった私は「どこかに働きに出たい」と思いました。

でもここへきて、演劇をやめた時と同じように「何者でもない」自分になってしまったことがとても辛くて、精神的に追い詰められていました。
自分で決めたことだとわかっていてもコントロールが出来なかったのです。

そして、もうすっかり性被害のことは乗り越えたと思っていたのですが、実際に関東に戻ってみると当時のことがフラッシュバックすることもあり、電車に乗るだけで過呼吸になることも。
やっぱり関東は自分にとっては嫌な思い出で溢れている場所で、どうしてもその記憶に引っ張られてしまっていたのです。

いくつかパートにも応募し、実際に働いてみましたが、やはりフラッシュバックに悩まされ行けなくなってしまったこともありました。
半年か1年間くらい、心療内科に通って薬を服用していました。

■赤毛の女の子の「続編」と向き合う
その頃、毎日家事を徹底的に行うことで働けない後ろめたさを戦っていた私が、もうひとつ取り組んでいたことがありました。

それは小学6年生から中学3年生まで書き続けていたファンタジー小説シリーズの続編を書くこと。

物語が終わってから数十年後のこの世界には、どんなことが起こっているのだろう?
そんなことを考えながら世界観の設定やプロットをノートに書き連ねていました。

当時の作品に登場していた人物をどう登場させようか、新しい主人公はどんな女の子なんだろうか…。
そうやって考えることが私の心の慰めになったのでした。

その行為はまさに、小学生の頃周囲と同じことが出来ずに上手くなじめないでいた私が、"書く"ことに救われた状況と全く同じものでした。
社会に適応できずに苦しんでいる時、物語を"書く"ことでまた救われたのです。

思い切ってライターに転職

自己紹介と読書と執筆と演劇

■自分がHSPだと知る
その頃、夫が何気なくこんなことを言ってきました。
「ねえ、この記事読んでみて。これって君のことじゃない?」

それは昨今注目されているHSP(Highly Sensitive Parson)について書かれたネット記事で、そこに書かれていたHSPさんの特徴がほとんど自分に当てはまっていたのです。

ハイリー・センシティブ・パーソン(Highly Sensitive Person、HSP)とは、環境感受性(Environmental Sensitivity)あるいはその気質・性格的マーカーである感覚処理感受性(Sensory Processing Sensitivity)が極めて高い人たちを表す言葉である[1][2]。環境感受性とは、ポジティブおよびネガティブな環境刺激に対する処理や登録の個人差を表す特性的概念である。したがって、環境感受性が高い個人であるHSPは、環境感受性が低い人と比べて、ポジティブな環境から良い影響を受けやすく、ネガティブな環境から悪い影響を受けやすい。環境感受性は誰もがもつ普遍的な特性であり、その程度は正規分布することが示唆されている。
引用:Wikipediaより

これを発見できたのは私にとっては思わぬ収穫でした。

フラッシュバックに悩まされているのも、「自分が何者かわからない」と悩むのもすべて「私の心が弱いせいだ」と思っていた私でしたが、HSPという概念を知り「他の人よりも刺激を多く受ける」「他の人よりも物事を深く処理する」という、元々持っている気質の影響もあるのだ、ということに気付くことが出来たのです。

自分がHSPということに気づけたおかげで、自分を責める心の動きはずいぶんと楽になりました。

■思い切って始めた在宅ワーク
その頃、夫は「無理して外に働きに出なくてもいいんじゃないの?」と言ってくれるようになりました。

夫婦で在宅ワークについて調べ、在宅で出来るwebライターという仕事があることを知りました。
ライティングについては知識も何もない状態でのスタートでしたが「文章を書くことを仕事にしてみたい」と思い、手探りの状態でWEBライターの仕事を始めることにしました。

最初の頃は収入もほんのわずかでしたが、だんだんと実績を積んだり良いクライアント様と出会うようになって、今ではなんとか人並みの収入になりました。

実績がついてくると、自分自身この仕事に「誇り」を持てるようになり、今ではもっともっと腕を磨いて、ライターという仕事に誇りを持ちながら働き続けていきたいと思っています。

電子書籍の出版

自己紹介と読書と執筆と演劇

■広がった視野と価値観
演劇をやっていた時にもそうだったのですが、表現活動とは自分の経験したことが多ければ多いほど生き生きと輝きだすものです。

関東に戻ってきて、最初はフラッシュバックに悩まされたり自己の確立が出来ずに苦しんでいた私ですが、webライターとして仕事をするうちに、関東でも友達ができたりイベントに参加したりして色々な方と知り合う機会が増えました。

その中には本当に色々な境遇の方がいて、創作や自分の生き方に大きな刺激を与えてくれています。
歳を重ねているので当たり前かもしれませんが、30歳になって10代・20代の頃よりもずいぶん世界が広くなりました。

そこで私の創作意欲は近年にないほど高まり、自分の作品集を作りたいと思うようになったのです。

■叶った夢
昔から、「いつか自分の書いた物語が本になったら素敵だな」と思っていました。

そして2021年2月には、Amazonkindleから初めての短編小説集を出版することが出来ました。
その作品がこちら「短編集 マドモアゼル・レイニー」です。

(著者名義は勝間田まいになっています)


生きていく日々の一瞬一瞬を紡いだ短編集。
本作品を出版できたことは私にとって大きな自信になりました。

これからも私なりの創作活動をしていきたい。
読むこと、書くことで、「生きる」ということについて考え続けていきたいのです。

現在思うこと

自己紹介と読書と執筆と演劇

(こちらは2021年9月に書いたものです)


ありがたいことに現在、お腹に命を授かっています。
あと3ヶ月弱でこの世に生まれてきてくれる予定の新しい命に、愛おしさと畏怖の念を抱いています。

人は誰しもいくつかの自分を持っていますが、私にとってはまた”新しい自分”が増えることになります。
母になることで子供からたくさん教えてもらえることもあり、また、社会に生きている「1人の大人」として次の世代に伝えていきたいこともたくさんあります。

体の変化など、1人の女性から母になることで変わっていく不安もあるのですが、"変わった"と思うのではなく"自分が増えていく"と思っていきたいです。

新しい自分が”増える”過程の中で、私はどんな物語を読み、どんな文章を書いていくのか。
その出会いをnoteを通じて楽しみにしていきたいと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これからもお付き合い願えれば幸いです。


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【11/12 追記】

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