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36.東日本大震災とシチリアのカレ

2011年3月11日。
この日、どこで何をしていたか、誰もが鮮明に覚えているでしょう。
私もです。
今でも当日のことは昨日のことのようによく覚えています。


地方出張のある仕事

そのころの私は派遣の仕事はせず、3社目の広告代理店時代の同僚に紹介された企画の仕事をフリーランスでやっていました。
某派遣会社が、自社に登録している派遣スタッフにむけて発行する会報誌のような冊子です。
一緒に働いていたとき私は派遣会社の広告も担当していたので、それを覚えていて話をくれたのです。

企画の一つに座談会の開催がありました。
毎月、数人の派遣スタッフを集めて座談会をするというもので、全国各地にある拠点を訪れたり、座談会のゲストをアテンドしたり、それまでの人脈を駆使してこなしていたような仕事です。
スローフードの仕事で知り合ったシチリア人のシェフに来てもらったこともありました。

座談会のあと、その内容を原稿にまとめ写真の選定をしてレイアウトに回します。
出来上がったページを校正するのはもちろん、参加した派遣スタッフを始めとする関係者への確認作業など、なかなかセンシティブな仕事でした。
派遣会社にとって派遣スタッフはまさに「人財」。
登録者の気分を害することはもっとも避けなければいけないことです。
掲載する写真1枚の映りにまで細心の注意を払う必要がありました。

地方で座談会があるときは前泊して、件の元同僚や派遣会社の人たちと親睦を深めると称し、地元の美味しいものを食べるのが常。
そして、仕事が終わったあと原稿の締切りに余裕があれば、たいてい自費で後泊して個人的な旅を楽しんでいました。

震災当日のこと

2011年3月10日、震災の前日は名古屋で座談会がありました。
いつもなら名古屋に泊まって翌11日に東京に戻ってきていたと思います。
それがこのときはものすごい過密スケジュールで、原稿を翌日の午後イチまでに納品しなければいけなかったのです。

ノートパソコンを持っていき、名古屋のホテルの部屋で仕上げることも考えました。
でもこのときは何となく、名古屋は近いしすでに何回か行っているし、その日のうちに東京へ戻り自宅で原稿を書くことにしたのです。

11日は朝からずっと座談会の録音テープを起こしたり、カメラマンから送られてきた写真を選んだり、それらを原稿にまとめたり、という作業をしていました。
そして締切り時間を少し伸ばしてもらい、午後2時過ぎにメールで原稿を送ってその日の仕事は終わり。

時間に追われ朝からずっと飲まず食わずで作業をしていたので、ここでやっと一息です。
遅めの昼食を準備し、食べ始めたまさにその時、大きな揺れに襲われました。

最初の揺れでは、開け放してあった棚から食器が落ちて割れたり花びんが倒れたりするのもそのままに、とりあえずテーブルの下にもぐっていました。
そして揺れが収まると同時に両親の家に電話をしたけれどつながらず。
どうせこのあと通信が遮断されるだろうと思ったので携帯電話のショートメッセージで「私のほうは大丈夫」とだけ打って即座に送りました。
後から知るのですが、このメッセージは無事に届き彼らの余計な心配を回避させるべく機能します。

余震に備え倒れそうなものを床におろしていたら案の定、2回目の揺れがやってきました。
よくよく考えてみたら私がいたのはマンションの5階です。
建物ごと崩壊したら、テーブルの下にいようがどこにいようが助からないと思いました。
それほどにこれまで体験したことのない大きな揺れだったのです。
そこでこの時は食器棚を両手で押さえ、グラスやお皿を全力で守りました。

朝一番のイタリアに流れた衝撃的な映像

揺れが落ち着き、窓の外を見るとお台場のほうから真っ黒な煙がモクモクと上がっています。
テレビをつけると同じ映像が映し出されていますが、詳しい情報は一切なく不安だけが煽られて行きます。
食欲はすっかり失せ、準備していた食事は早々に片付けてしまいました。

そして、テレビに映し出される震災直後の状況に目が釘付けになっていたら、やはりフリーランスの仕事で在宅していた友人からパソコンでチャットが届きます。
あのとき、つながらなかったのは電話だけでインターネットは問題なく使うことができたのです。
以降、ネットを通して状況を共有しお互いを励まし合うことになります。

午後4時を過ぎると、今度はイタリアの知人たちからメッセージが届き始めました。
日本とイタリアとの時差は8時間。
イタリア時間で朝8時のトップニュースが日本の地震と津波の映像だったのです。

シチリアの彼からももちろん狂ったようにチャットが届きました。
そして、めずらしく直接声が聴きたいとスカイプ通話もしたりして。
久しぶりに聴く彼の声はものすごく慌てていました。
半ばパニックになっているのでどうしたのかと思ったら、どうやら日本のテレビでは放映されないほど相当にショッキングな映像が流れていたようなのです。

不謹慎とは思いつつ、この地震はお互いがお互いを見直す良いきっかけになりました。
私のほうは頼りにならない存在と思っていた彼が精神的な支えになりうることを。
彼のほうでは私は居なくなられたら困る存在だということを。

この日を境にこれまでより頻繁に連絡を取り合うようになり、4ヵ月後の6月、私はシチリアへ行くことになります。

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