随筆(2023/6/16):問題解決のために問題未解決や問題解決不能と果てしなく向き合う_2.問題解決をしたのにモヤモヤがある場合、そのモヤモヤは問題解決で解消される性質のものではない
4.問題解決時の爽快感と安心と自分の幸福が不可分になってはいけない。それでは問題がなくなったら爽快でも安心でもなくなる。そしてそれではおかしいのだ
さて、問題解決すると、問題は消えるし、爽快感と安心が生じるものです。
しかし、非常に馬鹿げた話ですが、「問題を解決することそのもの」の爽快感や安心にこだわるようになると、「問題がなくなると虚脱状態になる」ということがあります。
虚脱状態になんかなってんじゃないよ。有難く「肩の荷が下りた」と思えないのか。
そんなの、「安楽」とか「解放」ということに対する感受性が壊れているだけじゃないか。
それを幸福への道とはよもや言うまい。むしろ不幸そのものではないか。
問題解決は望ましくても、問題解決にしか幸福を感じられなくなるのは、一般に恐るべき不幸ですよ。
5.問題未解決時のモヤモヤと付き合えるように、回復を基本プロセスに組み込む
解決した問題が、大きな問題の一部に過ぎない場合、「全部終わらせなければ安心できない」かもしれません。そこはやむを得ない話ではあるのです。
それでも、何か終わった時に、モヤモヤした気分が消えず、死んだメヒカリのような目で「はい次」と言って直ちに次をやる精神状態は、爽快感も安心もない、面倒でしんどい状態です。
「いつかは終わる」と信じて、体力気力を随時回復させていくのでないと、これはいずれメンタルをヤります。
たとえば、学校で勉強するのも、そういうリスクと隣り合わせです。
もちろんメンタルはヤってはいけない。意志によって行える事柄は、何一つできなくなるのだから。
そして、この際、「いつかは終わる」と信じて、体力気力を随時回復させる術を、身につけなくてはならない。「いくぜいくぜいくぜ」だけではダメ。
そして、この勘所は、人生どこでもかなり使えるデカい知見です。下手すると勉強そのものよりも。
(私は勉強の内容を数割分モリモリ活かして仕事して、安定して飯を食えている人なので、勉強そのものが無駄とはまるで思いません。が、勉強の副産物である回復スキルはそれと同じくらい大事だと感じている人でもあります)
6.問題解決不能時のモヤモヤを解決可能にできる余地がある。これも回復を基本プロセスに組み込むことでなされる
中には、「この問題を解決する際の消耗があまりにも大きく映りすぎて、解決の旨味どころではなくなっているので、諦める」場合、つまりは問題解決不能の時、解決の旨味、即ち爽快感と安心は、当然ながら得られなくなってしまいます。
「耐えるしかない」問題というのは、かなり膨大にあります。
そしてこれにも、回復スキルでうまく乗り切っていくことが大いに効きます。
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なお、ここで「効く」というのには、二つの意味があります。
「耐える」のに効く
いつかは問題解決時に消耗する体力気力を、ストック(手持ち)とフロー(回復分)の体力気力が超える。少なくともそう信じられる日が来る。そうしたら、「やる気になる」のに効く
後者は大事です。「耐える」しかない問題はたくさんあるにせよ、少ない方がいい。
実際には、「耐える」しかないように見える問題の中には、「コストと労力さえ見合えば解決できる」すなわち「耐えなくていい」問題はかなりある。
それらを解決して減らせば、しばらく後、消耗はどんどん減る。
それに、「耐える」ということには緊張が伴います。人がハイテンションで居続けられるのは、人が安易に思うより、そこまで長くない。
「耐えなくていい」と、非常に大きなリラックスがもたらされます。ストレス? 苦痛? もちろん減る。
「消耗を減らせる」「耐える緊張やストレスや苦痛を減らせる」というのはかなり大きな旨味になります。爽快感と安心に続く、問題解決の第三、第四の旨味と言ってもいい。
だから、「頑張れば減らせる」問題を、減らせるだけ減らすことには、挑戦してみるに見合う旨味があります。
7.結局それでも問題解決不能であった時のモヤモヤを、無理に解決はできないし、付き合っていかねばならない。これも回復を基本プロセスに組み込むことでなされる
とはいえ、そういう風に手を回し切れるということはまずありません。繰り返しますが、「耐えるしかない」問題というのは、依然としてかなり膨大にあります。
そっちは本当に耐えるしかありません。
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というか、そういう「耐えるしかない」問題が見えていない、ただただ問題解決できる問題の話しかしない人達、かなりいますが、だいぶ気を付けた方がいいでしょうね。
そういう人達は、たくさんあるはずの「耐えるしかない」問題を、解決すると称して、かなり過激な手段を取りがちだからです。
そしてそれは、さらなる大きな問題をもたらします。
敵対する相手や、利害関係の相反する相手を退ける時に、これを「問題解決」と思っているかもしれません。
しばしば、相手だってそう思っているので、自分も問題のある人間として排除されんとしている訳です。その時の実害は極めて大きいでしょう。
考えもしなかった? だってそりゃそうなるよ。当たり前じゃないですか。
紛争解決は、しばしば、互いに妥協点を探る話になります。双方やどちらかが完全に爽快かつ安心できるということはそれほどありません。
たいてい、終わった時には、「痛み分けであり、もう二度と思い出したくない、面倒な日々」ということになるでしょう。
そんなことのために体力気力や時間手間を費やすの、まあまあやりたくないことです。
でも、「最終的解決」と称して絶滅作戦を採ると、片方は爽快で安心かもしれませんが、相手は惨たらしく絶滅します。
当然抵抗されますし、それをうまく分断できたとしても、周囲が止めに入ります。
紛争解決は面倒ですが、惨たらしい絶滅作戦を、そして自分がそれを喰らうのを避けるための大事な手間です。
紛争解決のテーブルを蹴っ飛ばしたら、「貴様らの紛争解決の約束事、我々には無意味無価値であり、出し抜いた方がお得だし、そこで無意味無価値な紛争解決規範を守ってるお行儀の良い背伸びした淑女紳士ヅラしてるやつらが損をするようにしてやる」という意味になります。意味合いとしては宣戦布告にかなり近い。
そして、かなり多くの人が、自分の絶滅よりは、紛争解決の方がマシだと考えていますし、そこで出し抜かれて紛争解決のテーブルに砂をかけられたら、紛争解決はそれだけ不可能に近づく訳です。なんて迷惑なんだ。やめさせるしかない。周囲がそう思うのは、まあ止められません。そういうことです。
(なぜそう思えないか、そしてそれを解消できないのか、というのは、また大きな話になってきますが、この記事では基本的には触れない予定です。
そういうトピックを扱う専門書はいくつかあるはずですので、ご自分で探すのも良いかもしれません)
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そんな訳で、モヤモヤと付き合うしかない状況は、かなり多々あります。
そしてそれらは、基本的に、日々の回復で踏み倒すことでやり過ごしていくものです。
どうしても耐えられない場合は、回復によって体力気力を蓄えるか、協力者や調停者や裁定者を頼って何とか軽減してもらうかなくしてしてもらうかしかありません。(実は、周囲に頼るためにも、「相談するための気合い」というのが必要になります)
そういう、モヤモヤとの付き合い方が避けられません。
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「問題解決で全て解決する訳ではなく、モヤモヤと付き合っていかねばならないことは多々ある。解決すればいいね、でもできないのはむしろふつう、そんなことは当たり前だ、くらいの感覚でいるべき」
という話を嫌う人はいます。
「いつだって問題は解決されてあるべき」
と考えたくなるでしょう。
でも、それは、問題ということをあまりにもナメきっている。
問題と解決は一対一ではない。解決していない、あるいは解決しない問題は数多い。
そんなことは考えもしなかったし、そんな問題も観測されてこなかった。というの、それは問題と言うことへの無視であり、ある種の逃避でしかありません。
そして、当然その問題は「ある」し、悪影響も「ある」のです。
要は、逃げてもモヤモヤはたいていついてくる。
解決できないなら、付き合っていかねばならない。そこは避けられない。
(続く)
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