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私が地獄のような家族から逃げて人生立て直すまでの全記録


この世で一番残酷なことはなんだろう?

殺すこと?殺されること?戦争?暴力を振るわれること?

たくさんの事象が、現実が思いつくけれど

この日本で、命のやり取りを鮮明な脅威として思い浮かべるのは難しい。

けれど実は、

「魂を殺す・殺される」脅威は、意外に身近に転がっているものだ。

だってほら。そこらじゅうに「生きるしかばね」となって世をさまよい続ける人がいるじゃないか。

体は生きていても、魂が死んでいる人が。

まさに「魂と精神の危機」の連続であった生い立ちの中で

「これは、今度こそ終わったかもなぁ」と思うタイミングは幾度もあった。

けれども今、おれずにまっとうに生きていられている。立ち向かうために、逃げるために、私がしてきたことを、振り返りながら書いてみようと思う。

また、今渦中にいる、苦しい環境にいる方たちには

「こんなところで育ったけれど、今、健康で幸せに生きている人もいる。」ということが伝わって

何らかの支えや希望につながれば、これ以上ないほどの幸いだ。


※とても長いので、毒家族脱出後にメンタルを回復させるメソッドだけが知りたい方は、最後の方から読んでみてください!※

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平日の真昼間に、突然母から連絡があった。

およそ3年ぶりだったのと、時間が時間なので、何か火急の用があったのだろう。

そう思って電話に出てしまったけれど、何のことはない。

「声が聴きたくなっただけ」だそうだ。

電話越しに、超音波がからみつくようなか細い奇声をあげて泣き崩れる声が響いた。

悲嘆と悲観と絶望と、どろっとした執着と自己愛と。

そんなものが、スマホを通してただただ垂れ流される。

この「背筋にやすりを掛けられるような」ぞっとする感覚は久しぶりだった。

昔なら、まんまと罪悪感を刺激されて「私さえ我慢すればこの人はここまで追い詰められなかったんじゃないか」

などど思ってしまい、いてもたってもいられずに彼女のもとにすっ飛んでいっただろう。

けれどももうそれ、散々やった。やりつくして、精根尽き果ててふと気づいたのは。

その献身になんの意味もなかったってことだけだ。

彼女はただ「かわいそうな姿」をみせて娘に構ってもらえればそれでよくて。幸せになろうなんて、1ミリも考えていなかったんだから。

だからただ淡々と事務的に対応して電話を切った。

その後も延々と謝罪と感謝の織り交ざった「いい母親が言いそうなこと全部コピペしました」みたいな、すっかすかのメールが届いたけれど。

一瞥して消去。

魂のこもらない文字なんてすぐにわかる。

だって、私は「言霊」と「文字」を仕事にしているんだから。

文面の奥ににじみ出る狂気じみた執着と一緒に、

「こんなに反省してこんなに後悔していて、こんなにかわいそうな私を見捨てないで」

という本音が透けてみえて、もはやメールに形を変えた呪詛にしか見えなかった。あらゆる手法で娘を束縛せん、己に同化させん、という呪いがかかってる。


実家から逃げて4年。母と二人のアパートから逃げて3年半。

私の世界は、少なく見積もっても150度くらいは変わって、木漏れ日がさして暖かい場所ばかりになったけれど

彼女の世界は変わらずに冷え切って、残酷で、なお陰惨さを増していた。

でもそれも当然の結果なのだ。

「天は自ら助けるものを助く。」

自らを助けようとしないものに、天の助けは届かない。


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私の生まれ育ったのは、片田舎の古い家だった。

祖父母と父母と兄の6人住まい。

後に調べてぞっとしたけれど、このうちの半数は重篤な精神疾患の傾向があった。それはもうにぎやかな子供時代だった。もちろん悪い意味で。

祖母と祖父は息をするように罵り合っており、食卓にヒステリーな絶叫が響かない日はまれだった。

祖母は必殺技の「私かわいそう」病を使い、延々と愚痴り続けたり

嘘泣きしたり怒鳴ったりしてなんとか私を「私の思う最強の孫」に仕立てようと奮闘していた。

祖父は祖母を心底憎んでおり、よく聞くに堪えない暴言でののしっていた。かつては暴力も日常茶飯事だったらしい。

父は「大企業勤めのエリートサラリーマン」という鉄壁の外面の良さとは裏腹に

モラハラ&アル中&DVという脅威の悪魔合体であり、狂気のような言葉で人の心や体をえぐり、プライドを折って初めて安心するような、大層しょーもない人間だった。

感情が高ぶると子供の駄々っ子のように床に転がって喚きだしたり、頭を壁に打ち付けたり、今すぐ死んでやる!だのなんだのとわめいていた。

母が兄を身ごもっている時は肉体的なDVもあり、その凄惨なさまを見て祖父母は笑っていたらしい。本当にぞっとするような地獄である。

母は「共依存」「過干渉」の見本市のような人で、同居していた父方の家族を心底見下し、侮辱しながら、「でも娘のあなただけは、私の味方よね??」と私を支配することにご執心だった。毎日死ぬほど愚痴を聞いて、どうすればこの人が救われるのか一生懸命考えてアドバイスもしたが、一切動かず、ただただ漫然と暴言に耐え続けていた。

かといって、彼女がただの「犠牲者」だったわけではもちろんなく。

私が「自分の意見」や「自分の想い」「感情」を表現すると、まるで汚いものでも見るみたいな目でにらみながら、「ふぅん」とか「へぇ?」とか言っていた。

彼女は娘が「自分と違う何者か」になることを拒み、徹底して自我をすりつぶした。毒かそうでないかといえば、圧倒的猛毒であった。

兄は「ザ・封建制度の因習」的価値観の祖父母には「長男だから」と溺愛される一方で、父母にはそれはもう粗雑に扱われていた。

父はありとあらゆることで彼を罵倒し、馬鹿にしていたし、幼いころには暴力も振るっていた。それをまざまざとみてしまった私は一時軽い記憶障害をおこすほどにショックだった。

そんなむごい目にあっている我が子に対して、母は徹頭徹尾無関心だった。

今思い出してもぞっとする体験の一つに、「兄の自殺未遂事件」がある。

トイレに血痕が落ちているのに気付いた私(おそらく小学生くらい)が、母のいるところでその話をすると「死のうと思っていろいろやったけれど、ダメだった。」と、当時高校生くらいの兄が、心底疲れた顔でつぶやいた。

「なんで?」と聞く母に、兄は目をそらしながら「顔のニキビが気になって、それで…」というと、母は「そんな程度で!あはははは!」と笑った。

笑ったのだ。我が子が、死のうと思って行動を起こしたことをきいて。

すっと心の中が冷めていった。彼がそんな理由で死のうとしたわけじゃないのは、なんとなくわかっていた。わらをもすがる思いで、己の言動を吐露してみたのではないだろうか。そしてその希望は最悪の形で踏みにじられた。

家族の寝静まった頃、居間で生気のない瞳で天井を見上げている兄の姿がよぎった。

けれども救いだったのは、彼にまっとうな「反抗期」を迎える生命力があったことだろう。中学以降は「ザ・不良」となって暴走族に入って暴れてみたり、家では祖父や父と殴り合いをしたり、怒鳴りあいを散々した結果

今は普通のサラリーマンで落ち着いた家庭を持っているらしい。

「家族」と呼ばれる人々の中でまともにお話になるのはたぶん彼ぐらいのものだろう。知らんけど。


さて、そんな「ヤバい人々見本市」みたいな家の中で私はどう過ごしてきたかというと。

小さいうちはほとんど家に寄り付かずに、外で「視えないものたち」と遊んでいた。「生まれながらのサイキック」らしい私は、彼らと交流することができたし、彼らは家にいる大人たちとは比べ物にならないくらい優しかったし、「そのままで」いさせてくれたから。

また、歴史や神話の本を読むのも大好きだった。時空をさかのぼっていろんな国に行くのが楽しくて、その間だけは子供らしくいられた。

夜になって、仕方なく家に帰ると2階の自室に閉じこもり、怒号や家具をひっくり返す音が聞こえると布団にくるまってひとりで泣いていた。

そして騒ぎが収まったら、一人一人の気がすむまで話を聞いた。

もしかしたら仲良くやってくれるんじゃないかという希望が捨てきれなかったからだ。

だれも私を気にかけず、抱きしめてくれる腕はなかった。

ワイドショーを見ては、「もし家族の誰かが誰かを殺してしまったら、私はずっと迫害されながら生きるんだろうな。その時はどうやって生き抜こう。」とリアルに想像しては憂鬱な気持ちになった。

罵り合い、絶叫、器物損壊ついでに誰かが包丁を持ち出して殺すだなんだのとわめくのは日常茶飯事だったので、私にとっては極めて現実的な懸念だった。

だけれども私には、幸か不幸か、異様に優れた第六感と、強力な「視えない存在」の加護があった。

10歳のころには生きるために、「気」と「未来」をよむ力を使って、自分に降り注ぐありとあらゆる厄災を最小限にする一方で

それぞれの思う「理想の私」を完ぺきに演じ分け、刃の上を歩くような日々をやり過ごしてきた。

彼らは「世間体」と「見栄」を異常に気にしていたから、おとなしく、成績優秀な優等生を演じていれば、大概のことはなんとかなった。

自分のプライドを脅かされるのを極端に嫌う父には、成績の学年順位が下がったときや、試験の結果が振るわなかった時を見計らって「その程度の成績でいいきになるなよ」みたいなことをさんざん言われたけれど。

それでも、「従順な優等生」「自我のないお人形さん」の私は、家を出るまでは最高に役立つペルソナだった。

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けれども高校に進学して、父が家を建て、核家族だけで別の場所に引っ越した時からは

現実が地獄すぎて心を病む一歩手前の紙一重をさまよっていた。

祖父母がいなくなってからの父は「いいおとうさん」「お金持ちのエリート」という鉄壁の外面を強化する一方で

家族に対しては今まで以上に横柄に、つらくあたり、言動もさらに病的になっていった。

母は心を病んで伏せりがちになり、私は対人恐怖症になった。

周りの見知らぬ人が怖い。ずっと罵倒されているように感じてしまう。特に男の人が怖い。うまく接することができない。

辛すぎて保健室に行き、スクールカウンセラーに

「今まで、男の人からつらいことを言われたりされたりしたことなかった?」

といわれた時、堰を切ったように涙が止まらなかった。

その時初めて私は、心の傷を直視した。

少しだけ救われたような気分になって、泣きながら母にそのことを報告すると

おぞましいものでも見るかのような目でにらまれ、「へぇーそう!!」と一蹴された。一切話は聞いてはもらえなかった。

どこまでも救いはなかった。

家に帰る前には必ずお祈りをした。「今日は普通に夜ごはんが食べられますように」って。

それでも嵐は頻繁に起こる。

両親の罵り合いが続いたある日、私はとうとう壊れた。

「やめて!お願いだからやめてよ!!もう聞きたくないんだよ!!」

と、初めて、泣きながら絶叫した。家族の前で強い感情をあらわにしたのは、それが初めてだった。

母はこれはチャンスとばかりに、私を抱きしめながら「ほうらお前のせいでこの子は!かわいそうにねぇ!!」みたいなことを言って相手を罵倒し

父は「俺が悪いってのか!!お前らは異常だ!!そんなにいうなら俺が死んでやる!!」

とはき捨てて家を出ようとした。

私はそんなしょうもない親でも、それなりに情があったので

「死ぬなんて言わないでよ。。。」としくしく泣いた。

父はそれを見て、私を抱きしめて「悪かった。俺は父親失格だ。」といって号泣した。

母はそんな私たちを、やっぱり心底侮蔑するように眺めていた。

「お前らは異常だ」

この言葉がこれ以降呪詛のように私にまとわりつき、「私はおかしいんではないだろうか」といつでも自分を疑うようになった。

この時から、家を出るまでずっと、私はずっと自分の頭がおかしいからこんな目に合うのだと思うようになった。

そうすることで、痛みをマヒさせていたのだろうと、今ならわかる。

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東京の大学に進学して、同年代の気のいい人々と巡り合えたのは、私にとって最大の幸福だった。

毒親サバイバー=ACの気質を見事に兼ね備えていた私は常に憂鬱でいつでも死にたくて、暗い子だったけれど

大学で出会った親友たちは、そんな私に呆れながらも見捨てずに、程よい距離感から見守って、必要な時にはいつでも手を差し伸べてくれた。

衝撃だった。

だって彼らは誰一人として、私の感情や考えを否定しない。馬鹿にしたり、さげすんだりしない。いやなことを言わない。ちゃんと話を聞いてくれる。

適度にほっといてくれるし、踏み入ってほしくないところには決して踏み入らない。でもつらい時には真っ先に駆けつけて、寄り添ってくれるのだ。

くだらない話で腹がよじれるまで笑ったり、朝まで飲み明かしたり。そんなささやかな日常を、穏やかに過ごせる人がいることが、何よりうれしかった。

友達の家で大勢で夜通し飲んだ日の朝、こたつで雑魚寝していた私たちに、家主が朝ごはんをつくってふるまってくれたことがあった。

「えっ・・ありがとう!!」「いいよ!召し上がれ!」「やばい」「うまい」「マジ神」「ありがたやありがたや」そんなセリフを交わしあい、笑いながらご飯を食べる。みんなで。

それが、私にとってどんなに特別で、得難いものだったか。

帰路は静かに涙を流しながらチャリで爆走した。

人間に心底絶望していた私だけれど、ちゃんと話せる、互いを思いやれる人間もいるのだと、ドラマみたいなあったかい人間関係があるのだと、このときやっと確信できた。

同時に、いつもいつでも沈んでいて、あらゆることに自信がなくて、病みがちな自分の気質は、生まれ育った環境にあるのではないかと思い始めた。

私が自分の家庭について、医学書を持ち出して調べ始めたのはこのころからだ。

私も私でAC(機能不全家族のなかで育ち、子供でいる時間を与えられなかったために、社会生活に困難を抱える人々のこと)の見本のような残念な体験は一通り済ませている。

圧倒的に自己肯定感が低く、しかもそれなりに容姿に恵まれた私は、人の自尊心を折って支配するしか能のないモラハラ屑男にとってベストカモネギだった。そんなのとばかり付き合い、心身の後遺症に何年も苦しんだ。

大氷河期の就活を経てやっとつかんだ就職先はブラック企業で、無理なノルマの飛び込む営業をむりやり続けた結果、半年で「鬱病」で動けなくなり、退職した。

このとき、悪鬼のすみかである実家に帰らざるを得なくなったが

鬱を直し、再就職し、親との全面対決を経て、再び都内に戻るのを4年ですませたのだから、大した精神力である。

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鬱を患った私は、外界のありとあらゆる刺激に鈍くなり、欲望は消えうせた。

食べたくない。眠りたくない。動きたくない―生きていたくない。

とても静かな世界で、心の痛みだけが増幅されたノイズとなって絶えず精神をむしばむ。

好きなことも楽しくできなくて起きて食べて眠ることで疲れ切ってしまって、

毎日をただ天井を見つめて日々をやり過ごした。

まだ、「石の上に三年」「三年未満でやめたやつはお先真っ暗」という言説が根強いころだった。

社会そのものから否定された。この先私が生きていく場所はない。

そんな暗い考えばかりが頭をぐるぐるよぎった。

喜びや楽しさには鈍くなるのに、心の痛みは割増しで感じられたのがとても厄介だった。

相変わらず両親の仲は壊れていて、定期的に訪れる嵐のときは

真っ黒な泥の中でおぼれるような、筆舌に尽くしがたい絶望のなかでも眠ることができず、早く「終わり」が来るように願いながら耳をふさぎ、布団にくるまった。

しかしなんだかんだいって、「幸せになりたい」というたった一つの夢をあきらめきれなかった私は、今思えば、降りかかるすべてを糧にステージを上ってきたみたいだ。

地元の心療内科で認知行動療法やカウンセリングを受けるようになったのが

私の二度目の転機だった。

病院のカウンセラーさんと、フリーのカウンセラーさん。

二人ともとてもいい人だった。彼女らは口をそろえていったのだ。

「貴方の病気、きっかけは仕事だったかもしれないけど、根本の原因はご家族とのことです」

「貴方がそんな環境で今、軽度の鬱以外の精神疾患を患っていないこと、なにより命を絶たなかったことそのものが、奇跡としか言いようがありません。

普通の人は幸運にも生き延びたとしても、手の付けられないほど歪んでいたでしょう。」

もはや、私が立ち向かうべき敵ははっきりした。

まずは病気を死ぬ気で直し、社会復帰を果たして、そして…立ち向かおう。

2年後、私は紆余曲折を得て穏やかに働ける地元の企業に就職。

初めて、心穏やかに伸び伸びと働ける職場を得て半年後、次の転機はやってきた。

父の言動がいよいよもって病的さを増し、身の危険を感じるまでになったのだ。

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相変わらず、父はどうかしていた。

機嫌よく酒をあおっていたかと思えば、何の前触れもなく怒鳴りだし、モノを壊したり、そこらに頭を打ち付けてみせたり、散々暴れたあとに

急に泣きじゃくって土下座しだしたりした。

この得体のしれない存在の影に怯え続けることに心底嫌気がさしていたころ。

もともと決して健全ではなかった母の精神状態が悪化し、二人の関係は粉々に壊れきった。

家の中は、張りつめた緊張感と、絶えず暴れる父の爆音の威嚇、母の悲嘆と絶望、二人からの「俺を私を見捨てないでくれ」というゆがんだ圧と甘えと執着とで、瘴気の塊と化し。

ただいるだけで生命力が削られた。とてもつらかった。

どうかだれも死にませんようにと必死に祈った。誰が誰を殺しても、誰が自殺しても、全くおかしくなかった。それくらい、病んだ環境だった。

そんな中、決定的な事件が起きる。

鬱を患っていた当時、私はセラピーのためにこつこつと、球体関節人形の作成に励んでいた。

2年がかりで1体目を完成させ、そのときは2体目に着手していた。

とても時間がかかるけれど、その分作り上げた時の喜びはひとしおで、わざわざ毎週東京まで習いに行っていた。

その大切な「自分の分身」である二体目を、父は「ただ虫の居所が悪かったから」という理由で破壊した。

とても、とても。悲しかった。泣いても泣いても、怒りが抑えきれなかった。

泣きながら訴えた。あれが私にとってどんなに大切なもので、どんなに苦労してそこまで作り上げてきたのか。それを壊されてどんなに悲しかったか。

けれど彼は「俺が全部悪いんだろう、本当に申し訳ありませんでした!!」とキレながら、謝罪の言葉だけを吐き捨て

「親がこんなに謝っているのにまだ機嫌を直さないなんて理解できない。

お前の感じ方がおかしいんじゃないか?」

といった。

金属を落とした時のような甲高い音を立てて、私の中の何かが壊れた。

それでも言葉を尽くして、何度でも話をしようとしたけれど、鋭利な言葉の刃で傷つけられるだけだった。

「ただ、一人の人間として、ちゃんと向き合ってほしかった。」

私の願いはそれだけだったのに。

彼の中ではすべて「俺は責められている!反撃しなければ」変換されるようで、全くもってお話にならない。ただただ心無い言葉で傷が上書きされていくだけ。

私の中で26年間持ちこたえてきた糸は、この時完全に切れた。

私の大事な作品である、足を折られたヒトガタが、強烈に私に訴えてきた。

「今逃げないと、貴方もこうなるよ」って。


それからのことはもう、あまりよく覚えていない。

とにかく危険な状況であること、すぐに逃げなければならないことはわかりきっていたから、「私、この家をでていくわ」と母に告げると、「私も行く、さびしいから。」といってきて、二人で家を出ることになった。

住所は教えず、夜逃げのように去った。

引越しのトラックを見送る父の、狂気を含んだ血走った目が、今も鮮明に記憶に残っている。

血を流し続ける心を殺し、死んだように生気を亡くした母をなんとか慰め、叱咤しながら、ボロボロの状態での逃避行。

これをこえれば、やっと、やっと一息つける。そう思っていた。

けれど、それは最後にして最大の苦痛の序章に過ぎなかった。

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母との二人暮らしのころ。穏やかな時が流れたのはほんの最初の頃だけだった。

恐ろしいことに、私はこの時まで、「母はかわいそうなだけで、本当は幸せになれる人」だと思っていた。

あれほどの人格否定、消せないトラウマを刻み付けられたというのに

わたしはまんまと、彼女だけの充実なサンドバッグに成り下がり、「かわいそうなお母さん」幻想にとらわれていた。

けれどそれも数日で破たんする。彼女の精神の歪みは数えきれないほどあるけれど、最も顕著なのが「共依存」だ。

彼女には徹頭徹尾、自我がない。

「おかあさんてどんなひと?」ときかれても、途方に暮れてしまう。

無理やりたとえるなら顔ナシみたいなもので

存在のためには「依存する誰か」「エネルギーを吸い取る誰か」「アイデンティティを肩代わりする誰か」を必要とし、それを確保するためにはなんだってやる。

「絶えず自分を迫害してくる夫」は、娘を自分に縛り付けるためにはこれ以上ないほどにつかえる駒だった。

駒を亡くし、友人も親しい人もいない彼女は、「迫害者」と「依存先」の2役を娘に背負わせることにしたらしい。

情緒不安定ですぐにでも爆発しそうな恐ろしげな様相でこれまで以上に私にべっとりと張り付いた。

家があまりに苦痛で、会社帰りにカフェによって帰らなければ

「私はあなたにこんなにたくさんのことをしてあげたのに、貴方は私に何をしてくれたの?」とうつろな目でつぶやき、泣いた。

かと思えば、私が事故に巻き込まれて気落ちしていると

「そんな道、とおらなければよかったのにねぇ!」と愉快そうに笑った。

会社でいざこざがあって困っていれば

「で?あなたはなんて言ってほしいわけ?」と冷めた目で見据えられた。

とにかく、恐ろしかった。

一緒にいるのが苦痛なのに、一緒にいないと罪悪感で押しつぶされるように洗脳されていることに気づいた。

もう、耐えられなかった。只でさえ、父とのことでずたずたになった心からは血が流れ続けているというのに、これ以上は本当に無理だ。

心身ともに極限まですり減っているというのに、私にはくつろげる居場所の一つもなかった。

私の生命力の全てが母に飲み干され、私はただ息をしているので精いっぱいで、傷を治す余力もなかった。

ここにきて、限界突破した私は家に帰るとただ大声で泣きじゃくり

刃物を持てば「これで始末をつけられる」と自分の手首に当てて笑った。

在るとき、刃物を持ったまま、母の方を凝視している自分に気付いたとき、「逃げなければ」と思った。

それは、「殺られる前に殺れ」といった本能の叫びだったけれど、私はそんなことで人生を棒に振るのはまっぴらだった。

逃げよう。すべてを捨てて。もう二度と帰らない。

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正直このあたりの記憶はあいまいだ。

辛すぎてすべてをマヒさせていたからだろう。

けれどはっきり覚えているのは、引っ越しの準備を終えた時、自分の中で行き場を失ったすべての恨みつらみを、ひとつひとつ彼女に伝えたことだ。

彼女は「そんなことをしていたなんて。本当によくない母親だったね。ごめんね。」としおらしく泣いていたけれど、「覚えてすらいない」ということは、彼女は本当に自然に人をすりつぶしてきた人間だった、ということだ。

そして「でも本当にこれだけは信じて。私は貴方のことを自分の一部だと思ってるって。」といった。

気持ちが悪い。ただただ気持ち悪い。

親子だろうと夫婦だろうと、別個の人間だ。

同じであるはずがない。彼女に彼女の意志が、感情があるのと同じで、私には私の意志が、感情がある。

そんな根本的なところからはき違えている上に、それを何か良いもの=愛のあかしみたいに言う。そんな相手に、私は何を期待していたのだろう。

もう涙は出なかった。

彼女のこれまでの「私個人の感情や想いの否定」は私が「彼女」と違う存在であることが許せなかったからだ。

荒涼とした精神の中で、ただ一つ、その真実が一輪の花のように私に笑いかけた。

「私が悪かったわけじゃなかったんだ」って。

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「家を出る」そう決めた時、私の手元には30万円程度しかなく

とても他県へ引っ越せるほどじゃなかった。

けれどできるだけ遠くに行かなくちゃならない。

泣きながら祈り続けて数日後、ひょんなところから100万円ふってきた。

小さなころに私を助けてくれたすべての「視えない存在」たちが救いの手を伸ばしてくれたのだ。そう感じた。

家のものをすべて処分して、私はひとり横浜の地へ旅立った。

とても寒い、凍てつく冬のことだった―。


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息をするのもしんどかったあのころから、なんと3年半しかたってないことに気づいて、一人驚愕してる。

あれから凍える冬を超え、春にやっとこ動けるようになったと就職したところもまぁまぁひどい薄給ブラックで

そこから今の職場に転職するまではやっぱりたくさんの紆余曲折を経ている。

お金が無くなって日払いでしのいだ時もある。

金だけはあった家だったから、それはあたらしい苦難だったけれど

自分で稼げる、というのは鬱を経験した身からすると何よりもうれしい事実だった。

そして肩の力を抜いたとき、今の職場にめぐりった。

ずっとやりたかった仕事。家から歩いて通える。年1で海外旅行に行けるくらい稼げる。忙しすぎず暇すぎず、適度な業務量。

何よりも、人に恵まれた。

「決して誰にも害されない」環境。

のんびりとくつろげる家。

くだらないことで馬鹿さわぎして飲み明かせるけれど

辛い時には親身になって支えてくれる友人

人生の指針を示してくれた魔女仲間さん方。

自分にしかできない、大好きな仕事。

今私の周りには、私をさげすんだり、人格否定したり、嘲笑したりする人も、エネルギーを吸い取る人もいない。

ただただ優しい、暖かい人たちに囲まれて、穏やかに笑える日々が日常になった。

あのときのどから手が出るほど欲しくてたまらなかった幸せはここにある。

今は、昔からの夢だった、「海外移住」を成し遂げるために、毎日頑張って働いている。

終の棲家にたどり着いた先で、心から大切にしあえる「家族」をつくる。

この世に「愛」に満ちた関係が、確かにあるのだと。私自身が私に証明するのが、人生で最大のゴールだ。

あの地獄から、精神をゆがませることなく這い上がり、たった3年半でここまで来た私だ。必ず成し遂げられると信じている。

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ここにたどり着くために私がしたことは、見える世界と見えない世界両面からの「治療」だった。

そのすべてを以下に書き出してみる。

今渦中にいて、人生立て直そうと奮闘する方々への熱いメッセージも込めてみた!

①カウンセリングを定期的に受ける

ボディブローのように効果が出るので、もう大丈夫!と思っても続けるのをお勧めする。カウンセラーさんとは相性があるので、合う人をあきらめずに探すこと!そして同じように毒親サバイバーの方だととても良い。あの地獄は経験した人にしか、本当の意味で心を寄り添わせることは難しいと思うから。

②辛くなったら、機能不全家族やACにまつわる本をひとしきり読む

フラッシュバックがつらい時は読まないほうがいいけど、読んでいくと少しずつ、自分の経験を客観視できるようになるし、なにより、「自分は悪くなかったんや!!」という気付きと「こんな環境で生き延びてる私、ヤバくない?激強くない?」と自己肯定感がうなぎ上りになるのでおすすめだ!

ちなみに私はアル中にまつわる信田さよ子さんの書籍の「アル中のいる家庭はとても子供の育つ場所ではない。そんなところで折れずに育ったすべての方へ敬意を。(意訳です)」みたいなことが書いてあって号泣したぞ!

③AC自助グループに参加してみる

人により、効果は様々。私は「愚痴の吐きあいに興味はない!知りたいのはただ、みんなが乗り越えるために何をしてるのかだけだ!!」というスタンスだったので、つらかったことを吐き出すだけのグループはあんまり合わず。すぐに中止した。けど探せば、自分のスタンスに合致するところもあったのかもしれない。

④自分が穏やかに存在できる職場に落ち着くまで、あきらめずに転職する(←超大事!)

最初の1年はブラック企業勤めで、いろいろ試してもやはり暗黒鬱だったけれど、今の職場に来て、生活の基盤が安定してからは、癒しが急速に進んだ!毎日通うのが穏やかでいいられるところ、というのはやっぱりとても大事だ。

⑤西洋レイキ(癒しの力の強い、ヒーリング)を学び、毎日続ける

日本から海外へ、そしてまた日本へ戻ってきた、古来のハンドヒーリングだ。天皇家にもイギリス王家にも専属のレイキヒーラーがいるくらい、効果が認められている。1度アチューンメントを受けるだけで一生使えるし、自分にヒーリングできるようになるまで、10万円もかからない。なにより、自分で自分をいやせるのは得難い資産だ。精神への癒し効果も高く、サードまで受ければ過去の自分をもヒーリングできる。私はこれが真面目に効果絶大だった!おすすめだ。

⑥心理学を学び、認知の歪みを正していく

毒親という、「頭のおかしい大人」に育てられてしまい、彼らに生殺与奪権のある環境だったのだから認知はそれはもう歪んでいると思っていい。悔しいけれど。けれど「知は力」。歪みを知れば、正しい認知を得るために努力できるし、そうしてゆがみを正せば、とっても生きやすくなる。面白くないし、地味だけど、取り組む価値は大ありだ!

⑦力のあるボディケアワーカーさんの施術を継続して受ける

私は巻き込み事故で脳のCTをとったとき、医者に「貴方の脳は委縮している。考えられるのは幼少期からの継続的なストレス」と告げられた。そんなわけなので、物理的な暴力がなくとも、体にも大きな「傷」の痕跡が残っていると考えたほうがいい。私は「クラニオ」を主に、ボディのケアを行っている魔女さんに毎月メンテしてもらっているし、たまには「ボディの声を聴ける」魔女さんに身体の声を通訳してもらって、せっせとヒーリングにいそしんでいる。病弱でやばかったけれど、いまはパワフルに動き回れるようになったぞ!

⑧よく飲み、よく食べ、よく遊ぶ

これ。ほんとこれ。毒親サバイバーなら、人生の苦は必要以上に経験済みだと認識してほしい。だから今日からは、人生の喜びを必要以上に謳歌してやろうではないか!美味しいものをたらふく食べても、飲み会で酔いつぶれても、夜通し遊びほうけても、もはや誰にも文句を言われない!あなたは自由を手にしたのだ!!というわけで飽きるほど遊びまわってほしい。枯渇した生命力が湧き上がってくるまで…!

⑨親兄弟との接触を断つ

傷がいえるまでの間の必須事項がこれだ。彼らが心を入れ替える可能性は変0.01%くらい…すなわちほぼない。残念ながら、自分の傷を癒し、人生立て直そうと思ったら、彼らとの接触は厳禁だ。なぜなら、会うたびに癒えかけの傷からは血が流れ、トラウマはフラッシュバックし、こつこつ積み上げた癒しの過程がだいぶ後退するからだ。罪悪感もあるあろうが負けてはいけない。中には兄弟は普通だけど親が…という人もいるだろうが、兄弟が「家族ポルノ」信者だった場合、接触するといらぬクソバイスをもらうことになる。(どんな親でも育ててもらったからには親孝行することが子の努め…!)とかいうあれだ!あれは、残酷な事実と向き合うことのできるキャパのない者がすがる藁みたいなものだ。そちら側とこちら側にはナイル川ほどのどでかいギャップがあるため、理解し合うのはとても難しい。ここでも心を鬼にして避けよう。彼らとの今後を考えるのは、ある程度癒しが進んでからで十分だ。

⑩日常の光の側面に目を向ける

幸せになったら、すべてがバラ色に違いない…!そう思っていたけれど、幸せな人にもちょっとしたいらだちや問題はあるものだ。そんなとき、ACあるあるの、「ネガティブをガン視」を発動させてはいけない。どんなときにも、必ずどこかに救いはある。寝る場所があるでも、今日食べたコンビニスイーツがおいしかったでもなんでもいいから、よいことにフォーカスする習慣をつけよう。私は日記に毎日書き留める生活を半年続けたらば、幸せレベルが2段階くらいアップし、世界はさらに優しくなり、なにより!!見た目の美しさが5割増くらいになった!!(マジです)かつての写真がもはや別人である・・・。とはいえ、渦中にいるときにはハードルが高いので、すこしゆとりが出てきたときに試してみてほしい。

⑪理解のある人、本当に心を許せる人以外に親の話をしない

これはマジで本当に大事なので心に刻んでいただきたいのだけど。傷がいえきらないときは、酒が入ったりして理性が緩むとつい、誰彼かまわず「クソ親のクソ話」をしてしまいがちだ。そして毒親の元でさえ健全に育ったあなた方は完全にいい人なので、クソエピソードをオブラートに包んでしまう…!!そうすると「それでも親なんだから、大事にしなきゃ」「貴方も親になればわかる」などというクソバイスが降ってきてしまうのだ…!!なんという悲劇!なんという残酷…!!これ以上貴方が傷つくことはあってはならない!!悲しいことだが、この国にはいまだ「感動家族ポルノ」が幅を利かせまくっている!!どんなにひどい親でも、貴方を愛しているんです!的な、反吐の出るあれだ!!ということで、信頼できる人以外には親の話はできるだけ避け、さらっと流そう。傷口にはケアが必要。そっと大事に守ってあげてほしい。

⑫本当に理解のある、大切な人には少しずつ話してみる

最後にお勧めするのがこれ。私は渦中のめちゃめちゃ辛い時に、この子なら…!と思い切って話してみた友人に「本当につらかったね…!そんな中で頑張って生きてきたあなたはえらい!本当に偉いよ…!!」と全肯定してもらえて、死にかけだった体にエネルギーが湧き上がるのを感じた。彼女が驚愕&ドン引き→涙ぐみながら優しい言葉をかけてくれる、という経緯をたどったのを見て、理解してくれる人もいるんだ・・・!って、すごく勇気がわいた。「家族ポルノ」に騙されず、話を聞いてくれて、味方になってくれる人もいるのだということを信じられる。それは未来を信じられるってことだ。絶えず脅かされ、絶望してきた私たちサバイバーにとって、それは何よりも得難い宝物だ。けど、くれぐれも話す人はよく見極めような!!


無駄に暑苦しく語ってしまったが(苦笑)

これらを、こつこつこつこつこつこつこつこつ続けた結果、今の私がある!

まじでこんな死ぬような思いして、この上自己治癒にはげまなきゃならんのかよふざけんな金払えと思うだろうが、まじでこの上自分を育てなおせるのは自分しかいない。

理不尽でくやしいけれど、その先には必ず光があるのだ!

ぜひ、あきらめずにひとつひとつ取り組んでいってほしい。


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ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。

こんな経験をしてきても、今を穏やかに、幸せに暮らしている人間は確かにここにいます。

何か迷った時、つらくなったとき。

この文章が少しでも、誰かの心を軽くすることができたら。

そんな風に思って書きました。

必要としている方に届きますように。

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