感情とメタ認知


私は感情の吐露が苦手である。

一見、私は自然に感情の吐露をしているようにみえるらしい。
本当に美味しそうに食べるね、本当に楽しそうだね、本当に気が効くね、

そうやって可愛い女の子を演じる。
そうやって強い頼りがいのある女の子を演じる。

だがしかしいつも、人に感情を発散したりと
何か打ち解けるといった感覚は皆無である。

何故なのか、それは感情の吐露が苦手だからだと思う。


いつも普段の私は、
外界から受けた感覚を自分の中で整理して、
メタ認知を考慮したうえで
その相手が居心地がいいと思えるように
感情を吐露していた。

吐露の基準は自分にはなく、全て相手にある。
人によって自分のイメージも大きく異なるのはそれもある。

嫌だと思っても自分に溜め込む。
相手には自分が好かれるようにしか、感情を発散させなかった。

人に合わせて自分の理想像を作り出して外界からの刺激を全て自分にため込んで
その人に合わせて、感情を取捨選択して吐き出すというものだ。

私にとっての生きるはこのことを意味していた。
だから苦しかったのかもしれない。
友達にも親にも全員にそうだった。

そうやって
私を好いてくれる人は多かった。
確かに合わない人はいたがそういう人には自分も嫌いである場合も多かった。どうでも良い人には合わせる行為はしなかったからね。
そんなことで、私はどこにいても異常に空気が読める人、それでいて掴みにくい人になっていった。


だがそうしないと生きていけない環境がつくりだされていた。
それは家族も学校も、自分の所属するどの環境も自分に強制することばかりで、
家にいても当たられたり、共感されることは無かったからかもしれない。
表面だけで深層の苦しさまで解放されることなく生きることを余儀されたからだった。

本来、良い顔をするにしても
心を休める場所がある。
だが私にとっては皆無だった。

だからネットの世界に助けを求めていた。
今でもこうやってnoteというSNSに依存しようとするのは、自分の感情を全て吐き出しても自分に関心があるか、ないかはっきりしている中で
特に全員に好かれる訳でもなく、だからといって私に関心を持ってくれる人もいて
自然な姿を曝け出しても文句を言われるかどうか、ある距離を保った中で、
日常に関係のない第三者として特に気にする必要もなかったからだ。

だからおそらく、私のこの素直な感情のnoteに
粘着質に嫌がらせされたり、
強制されると
自分の感情をむきだしに出来る場所がなくなることにしんどさを感じるのだろう。


なぜか、今少し休んでみて思うことがある。

私は恐ろしいほど自分の軸がある人間に思われるが、それは私のつくりだした幻想にかかっているだけだ。
本来、私は物凄く気にしいだ。
案外、自分を持っている・個性的と言われる人ほど評価を気にしている。
私もその1人だ。

だが、私は発散が苦手だった。
アダルトチルドレンの要素も掛け合わさっていたのだろう。
悩みを相談して、解決に向かったこともなく、ただ理解されないことに時間を費やすのもバカ馬鹿しく感じてしまったからだろう。


もう少し、
何も考えずに感情を吐き出して、
好き嫌い関係なく
自分を曝け出していいのかもしれない。


自分のつくりだした理想像で
好かれるよりも
本来の自分をだして、人を好いたり好かれたりする方がストレスなく長続きするだろう。

ストレスを抱え込んで発散の仕方がわからず
しばし身近な親や自分に当たり散らしていたからね。
家ではガラスを割ったり、自殺未遂をしたり、暴言や暴力的になった。
人と関わっていると泣くことはないくせに
1人だといつも気難しい顔をする。
双極性障害の人の行動パターンも似通った部分はあるのではないだろうか。

またよく私個人の特性として、
もっと悩みを言えよ!ひどく怒られることが多かった。
私はあなたに言ってもなんの解決にもならないとある意味見下していたし、言いたくもなかったからなんだけど。

ストレス耐性が弱い人に、発散の仕方を考えることは急務だ。
ストレス耐性なんて強くても、もう爆発しそうなほど抱え込んで、またそこにはストレスを抱え込んでしまってはいつになってもストレス耐性は弱いという判断になる。
はやく発散の仕方を考え、正常に生きるヒントを得なければならない。


今まで
理想の自分をつくりあげても
本当の自分と接してくれない寂しさは
幸せを感じたつもりでも結局安心感は何も生み出さなかった。


ただただ私は変わりたい。
でも以前の自分と今の自分、何か言語化したくこの記事を締める。

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