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あからみて駆け戻りける幼子はアポロの像に手だに触れずて
ポンペイの神殿に立つアポロの像は、ベスビオ火山の噴火で埋もれる前には、黄金の弓矢を携えていたと言われている。アポロの矢は、どんなに遠くの標的にも届くとされ、当たれば一発必殺、まさに「魔弾の射手」だった。そこから転じて、ポンペイの守護神として、アポロ神殿を造営し、弓を射るアポロ像を飾ったのだろう。
われわれ家族は、早春の南イタリアに到着した。ポンペイは、快晴でわれわれを迎えてくれた。
「アポロに挨拶
障害の子ほど心に優しさの遺伝子持ちて生まれ来るらむ
東京に居を定めて、毎朝最寄りの駅まで10分ほどの距離を歩くことになった。ビジネスマンなら誰しも似たり寄ったりだと思うが、昨日を振り返ったり、その日の仕事の段取りを考えながら、歩くことになる。まわりの景色と言っても殺風景なものだが、それでも季節の移ろいにつれて、路傍に花が咲いていたり、木々の彩りが変化したりする。しかし、それらに目を向けたことがどれほどあっただろうか。ましてや、感動など。
その駅まで
われにとり花見とはただ一隅の桜に寄りて愛でることなり
今年も桜の季節になった。一気に花を咲かせ、ほんの一旬ほどの後には、花吹雪となって散ってしまう桜。名所には多くの人が訪れ、満開の花を愛でる。本居宣長を待つまでもなく、桜花は日本人の美意識に深く根づいていると改めて感じる。
ただ、ふと思う。何百本もの桜がいっせいに花をつけている光景は、壮観でもあり、華麗でもある。だが、その桜樹の下、何万もの人々が押すな、押すなの行列を作っている風景。そこに、何とも言
M★A★S★H マッシュ:戦争の無意味さを描いた傑作
M★A★S★H マッシュ
1970年 アメリカ映画
原題:M*A*S*H
フー流独断的評価:☆☆☆☆
『マッシュ』が公開されたのは、1970年。もう50年以上も前の映画だ。当時、高校1年生だった僕には、1970年という年がどういう意味を持つかなど、まったく分からなかった。分からなかった、というよりは、興味がなかった、というほうが正しいだろう。混沌とした世相の中で、思春期だか青春だか知らないが、
秋の花にぎわう中の銀木犀かのひとのごと目立たなけれど
秋には、色とりどり数多くの花が咲き乱れる。
菊、薔薇、サルビア、コスモス、ダリア、金木犀……。
強い芳香をまき散らしながら金色に輝く金木犀。その傍らに隠れるように咲く銀木犀があった。
人の世も同じ。常に人の輪の中心にいて、明るく輝いている人もいれば、その人の輪の外に、目立たぬように立つ人もいる。
これは物想う秋だからだろうか。銀木犀のような人と最後の恋をしてみたい、などと思う。
いまを生きる:詩神が降臨する瞬間
いまを生きる
1989年 アメリカ映画
原題:Dead Poets Society
フー流独断的評価:☆☆☆☆
アメリカ東海岸北部のバーモント州にある格式ある全寮制学校ウェルトン・アカデミーに赴任してきた英語教師ジョン・キーティングの物語。『いまを生きる』は、ジョン・キーティングがウェルトン・アカデミーに在任した短い期間における、生徒たちとの交流を描いた作品だ。
ウェルトン・アカデミーは架空
赤道を横切る:第17章 シンガポール鳥瞰
商船会社シンガポール支店調査に基づく『御案内概要』によれば
英領マレー歴史年代記
1786-90年 ケダー(クダ王国のこと)より彼南島(ペナン島)を英人に割譲
1800年 ケダーよりプロビンスウエルベリ(ウェルズリー州(Province Wellesley)のこと)を割譲
1819年 柔仏(ジョホール)王との協約により馬拉加(マラッカ)獲得、なおラッフルズ・柔仏王との協約によりシンガポール、マラ
鼻たかき目立ちたがりの子のごとしアベノミクスの救いの無さよ
安倍晋三は僕と同い年の昭和29(1954)年生まれだ。いや、もう故人となってしまったので、「だった」というべきか。
「妖怪」と呼ばれた稀代の宰相を祖父にもち、総理の座をも狙う実力者だった父の跡を継いで政界に迷い込んだこの男には、どうしようもない軽さがついて回った。それは、権力への妄執などでは説明がつかない何かだった。
父に追いつき、祖父を追い越したいという哀しい願望だったのか、さらに言えば、その底
赤道を横切る:第16章 シンガポール(第3日)
10月22日、シンガポール滞在第3日は午前6時半集合、同7時よりシンガポール島内の名所巡りとなっていたので、連夜の寝不足を物ともせず、6時には全員朝食を済まして出発用意をしていると、意外にもこの日に限り交通機関総罷業【そうひぎょう:ゼネストのこと】のため約束の自動車が一台も集まらぬ。それは5年ぶりかに起こった電車とバスの総罷業で、今日中に解決困難との注進である。これが人事ならばニュース・バリュー1
もっとみる赤道を横切る:第15章 シンガポール(第2日)
10月21日、午前中ジョホール往復の予定である。午前7時集合の触出で同7時30分出発は少々つらかった。中には付近のホテルに外泊しながら寝過ごして一行出立までに間に合わぬ連中もある。
以前は汽車の便による外なかったが、現在は舗装道路が完全にできている。郊外はゴム園などチラホラ見えるのに、阪神国道のそれの如くほとんどの人家が連続しているのに驚きながら間もなくジョホール州界に到着した。日本人会の有志が
赤道を横切る:第14章 シンガポール
10月18日、航海中、晴天和風なれどもウネリありローリングす。それはあたかもモンスーンが西南風と西北風の交錯する時期で逆風となったからであった。
10月19日、航海中、昨日同様、夕刻より稍々【やや】平穏となる。両日とも読書に暮らす。気温81~2度、一向南洋気分とならず涼しい涼しいと言い続ける。三度三度の食事が単調で格別の話題もなく、余興係も一向活動してくれぬ。船はシャム国境を過ぎて英領馬来【マレ
ひと時代終わり見とどけ濡れて立つ国会議事堂バスティーユのごと
2015(平成27)年9月17日、僕は国会議事堂前にいた。東京は朝から雨だった。デモに参加するのは、ほぼ50年ぶりだろうか。しかし、この日、後の世では戦争法案と呼ばれることになるであろう「安保法案」が、参議院特別委員会で可決され、2日後の9月19日には、参議院本会議で可決されたのだった。
国会議事堂前は、デモ隊で埋め尽くされ、トリコロール(三色旗)を打ち振る人もいた。しかし、白亜の議事堂は、微動