見出し画像

赤道を横切る:第15章 シンガポール(第2日)

10月21日、午前中ジョホール往復の予定である。午前7時集合の触出で同7時30分出発は少々つらかった。中には付近のホテルに外泊しながら寝過ごして一行出立までに間に合わぬ連中もある。

以前は汽車の便による外なかったが、現在は舗装道路が完全にできている。郊外はゴム園などチラホラ見えるのに、阪神国道のそれの如くほとんどの人家が連続しているのに驚きながら間もなくジョホール州界に到着した。日本人会の有志が日章旗を翻して出迎えに来られた。当方も日章旗を先頭に立てて進んでいたので忽ち路上で交歓を行う。この海峡は以前渡舟であったが、今は堂々坦々たる道路によって連結されている。この道路(陸橋)は1919年起工、5ヶ年を費やし、1924年竣工、全長3465フィート、幅員60フィート、複線列車運転のほか自動車並びに車馬の交通自由である。なおジョホール側に近く幅32フィート、深さ干潮面以下16フィートの関門を設け、電力による撥橋(はねばし)を架し小船舶の運航を可能ならしめている。工費1700万ドルを要したとの事だ。

この陸橋にほど近くウビン島との間すなわち海峡の東部にはセレタと称する海軍根拠地あり、漁船も入れぬ絶対秘密境で、重油タンクや浮船渠もある。その浮船渠は全長855フィート、5万トンの巨艦も自由に出入せしめうると言う。折から水上飛行機が我らの頭上を盛んに飛んでいる。ジョホール税関前で瞬時停車、そのまま通過、やがて首府バールの町に入る。海沿いの市街に鬱蒼たる並木が風致を添える。日本人倶楽部前で一応敬意を表し、左右に打ち続くゴム園を眺めつつ更に奥地に進むこと10マイル、セナイ(士乃)の熱帯産業事業地に到着、福島英彦氏以下の出迎えを受け、一行を数班に分かち、それぞれ案内人を付けられ、ゴム樹栽培からゴム液採取の実況(タッピング)工場操作、燻煙室などから完全の製品となるまでの工程を見学し、同社倶楽部で茶菓の饗応に預かる。ウイスキーの角瓶がたくさん並べてあるので驚いたが、中味はお茶と判明し安心した。昭和3年園内で捕獲したのだという首尾約2間半の大鰐(ワニ)が剥製にして掛けてある。例により記念撮影のため整列することになったが追々面倒がるものも出てきたのは無理はない。今後はなるべく自然のままを撮影してもらうように依頼した。

大正3年の折は同じジョホールでも東ジョホールの河口、シンガポールからは7、8カイリ北にあるベンゲランに行った。小蒸気で3時間もかかったと記憶している。海岸に近く轟々として椰子生い茂り、土人家屋が点々散在しているほとりの仮桟橋から上陸して2、3町トロッコで走った所に三五公司愛久沢農園があった。この地は明治44年の着手で、このほかサンティー並びにバトバハを合し払下総地積3万エーカー(1エーカーは我4反24歩17)当時既墾地積6000エーカー、投資240か250万円に及んでいた。

ゴム耕作はまず原生林の伐木にはじまり、樹根を除去し、相当期間乾燥後焼葉を行い、種子を蒔き苗木を作り、天候適当なる時を選んで移植す。最初数年間は樹長毎年2フィートないし4フィート、樹周6フィートを増大し、高さ70フィートないし80フィートに至りて止まる。その成育中は雑草の繁茂を防ぎ害虫白アリを駆除す。

ゴム液の採取は4、5年目より始まる。即ち樹周18フィートより20フィートくらいを適度とす。その高さは従業者の身長くらいにして一種のナイフをもって截皮(タッピング)を行う。液汁は自然に分泌するをもって錫製のコップに受け、一定時間後バケツにて取り集め、これを作業所のタンクに投じ、不純物を漉し去り若干の醋酸(さくさん)を加え数時間放置し、その沈殿凝固して白色柔軟の半固形物となるを待ってプレス機並びにローリング機にかけ、遂に細長き布片状をなすに至る。

次にこれを乾燥室の梁木につけ一定時間乾燥を行い、更に燻煙消毒法を行い、十分に乾燥したる後木箱に収めて市場に搬出す。その方法は昔も今も変わりは無いようである。

明治39年頃は1磅(ポンド)5、6ドルにも上がり、ゴムは金の生る木とまで言われたが、生産過剰のため大正10年には22セント(約、生産費)まで下がった。その後生産制限により大正14年には82セントまで盛り返し、昭和に入り再び不況時代来たり、昭和6年10セント、昭和7年4セントとなりまたまた大悲境に陥ったが、現在では30セント前後となり一息ついている。南洋全体で日本人は2割5分ほどの植え付けをしている。熱帯産業株式会社は大正10年の創業、人も知る三井系で資本金650万円、社長は賀来佐賀太郎氏で、起業費380万円、耕地面積1万7000エーカー、植付面積7500エーカー余り、往年ゴム市価暴落時代には相当の苦楚を嘗め現今も4割の減産協定で閉鎖せる工場もあるとのこと、同社の重役で現場担当者たる奥田直常氏は奮闘の犠牲となり、この日出帆のマニラ丸で母国に帰還したとの話を承り、おもむろに先人努力の跡に対して深甚の敬意を表した事であった。

往路を再びバールまで引返し、同地邦人井上、中島、井川各位の案内で、まず回教寺院モスク拝観、特に許可を得て内部に立ち入る。広大なるホールの床上一面大理石が敷き詰められている。またしても石材会社の社長我が意を得たりと嬉しがる。信徒の洗体浴場という小プールもちょっと珍しかった。

次は植物園に続く日本農民会献納の日本式庭園並びに茶室を見たが、セメント作りの灯籠には参った。王様は英国で英人の王妃と愛の巣を作っておられる。その不在中の王室も参観差し許されたが、様々の宝物器具や捕獲の猛獣剥製など所狭きまでに陳列されている。夜会場や宴会に用いる道具までも拝見して引下がる。

最後に王家歴代の墓所参拝、室内に安置せられた墓標に敬礼を捧げながら退出、再び日本人会事務所に立ち寄り小憩の後シンガポールに引返し一同帰船したが、これが半日仕事で、我々数人の者のみ商船社宅で日本料理のご馳走に預かった。その席上、野菜が非常に不自由で遠くこれを郊外に求むる関係上魚肉より貴いと聞いた。

午後上森店長と共に総領事館に敬意を表して後帰船したが、午後3時より例のごとく船内茶話会が開かれ、折柄のスコールをついて郡司総領事はじめ在留邦人の重立ちたる者30余名出席された。台湾珊瑚の見本持参の中谷台北州技師、この機を逸せず陳列に及び批判を求めたが、従来直接販路を求めざりし迂遠につき手痛き意見も出た。また台湾製鳳梨【ほうり:パイナップルのこと】缶詰のごとき、南洋一帯に対してはシンガポール産に一任のほかなしと観念して何らの指を染めざる如きは甚だ早計ならんとの注意も受け、やはり出て来ねば分からぬものとしみじみ周航団の効能を認めた。

この日午後7時半から南天酒楼において郡司総領事をはじめ石原産業(前川)華南銀行(池田)三菱商事(山口)三井物産(松本)日本鉱業(大村)日本郵船(森野)大阪商船(上森)台湾銀行(金田)横浜正金(山本)南洋倉庫(井上)医学博士大内垣その他67名の有志御招待で我々一行並びに鳳山丸幹部船員など90名の歓迎会が開催された。南天酒楼はシンガポールにおける第一楼で宏壮華麗の六層楼、その四階全部を打ち抜いての盛宴である。この日の献立並びにその翻訳( )は台湾でも参考になるから記しておく。

前菜(つきだし)
一 紅燒鮑翅(ふかのひれ)
二 鳳呑燕窩(つばめのす)
三 掛爈大鴨(あひるのかはやき)
四 雲腿鵲肉熱鶏(はむととり)
五 大地鮑邊(あわび)
六 西施蝦巻(せいしまき)
七 鐵扒乳鳩(はと)
八 吞戰群魚(かめのおつゆ)
九 蟹黄扒鮮菰(かにたまご)
十 西湖倉魚(おさかな)
十一 揚洲炒飯(やきごはん)
十二 草菰豆腐湯(おつゆ)

料理の内容も相当で一寸喰える。何れも大喜びで頂戴に及ぶ。やがて主催者側を代表して郡司総領事から大要次の如きお話があった。

物理的関係において、人種的関係において、物資的関係において、はたまたその国情において我が日本と南洋とは極めて密接なる関係に立つべき筈である。ことに台湾としては対外発展上唯一最大の対象であらねばならぬ。然るに従来ほとんど没交渉であったことは誠に遺憾と言わんよりはむしろ不可思議千万である。帝国は今や経済的南進国策の実行期に入り、その第一線に立つ台湾は今こそ遠慮無く南洋進出に努力すべきではないか。この時に当り堂々八十名の一行が一隻の商船を借切ってこの地を訪問されたことは我々同胞としてこの上なき欣快事として簞食壺漿【たんしこしょう:飲食物を携えて,軍隊を歓迎すること】大いに歓迎せざるを得ぬ。台湾からと言わず、日本からもかかる多数有力者の団体が同時に来航せられたことは空前の盛事として慶賀に堪えぬ。由来我国とシンガポールの関係はかなり古いが、実を申せば昔は娘子軍の根拠地であった。最近かかる不健全分子は一掃し、今や在留邦人4000名、何れも南方発展のため真面目に働いている。

貿易において日本よりの輸入6000万円、当地からの輸出1億円以上、日本の投資は南洋ゴム事業に対するもの8000万円の中6000万円はマレー半島に投ぜられ、その面積6万エーカーにおよびその元金は既に回収せられたはずである。また日本鉱業、久原鉱業の鉄、スズに対する投資1億円、これも恐らく疾くに回収済と察せられる。本邦鉄の需要年間400万トンの内マレーよりの供給200万トンを越す。

更に水産業においてシンガポールの魚類マーケットは邦人がコントロールしつつある実情で、最近共同漁業会社も進出して来り、将来最も有望なる企業の一たるを失わぬ。近来日本商人の進展に伴い外国商人は非常に脅威を感じ彼是と物議を醸しているが、我々は彼らと共存共栄を冀【こいねが】う他は何物もない。それにつけても当地と台湾との関係を今少し密接にしたい。日本領土中最も遠い北海道庁は駐在員を置きて北海道の水産物と野菜を販売している。台湾が何らの施設を有せざる事は我々として不審であり不平でもある。

しからば台湾から何を持ってくるか、シンガポール付近からはボーキサイドを高雄のアルミ工場に送り、更に台湾の工業化と共にゴムも鉄も差し上げることができるが、更に海上の漁業において台湾からの進出が期待できる又中小商人に資本供給機関を設ける事も一策である。最近台湾銀行がやや積極的態度に出でられるとの話を聞くのは喜ばしい。(台銀は9月以降2000円を限度とし1ヶ年期限で保証人付き無担保貸しを開始し好評を博している。特に奥地半島からの需要が多いとのことである)。また台湾は対岸に先生を送って南支那人の教育事業に努力をしているが、これをシンガポールまで施してもらいたい。更に医事方面においても同様南支より南洋へ殊に当地に対して何らかの進出が望ましい。邦人開業はほとんど自由である。現に80名の医師が一か月5000ドル以上の収入を挙げている。住民の8割を占める支那人ならびにマレー人は日本人医師を信頼する。殊に台湾人は言語が通じて一層好都合である。

以上の如く台湾との関係を益々密接ならしむる事は極めて容易でそれが相互の幸福でもある。各位すべからくこの大旅行をして有意義たらしむべく特にご留意願いたい云々。

総領事の言説は誠に明快にして痛切、外務畑の人々がとかく「不言実行」を強調して大声疾呼を遠慮しつつある折柄、我らはこれを空谷の跫音【くうこくのきょうおん:退屈でさびしい暮らしを送っているところに、思いがけなく人が訪れたり、嬉しい便りがきたりすること】と聞いた。総領事の雄弁宏辞に対し団長として我輩の謝辞もまた熱烈真摯であらねばならぬが、我輩が駄弁を弄する程地元各位から「物を聴く」時間が短縮する道理だから誠心誠意感謝の意を表するほかあえて多言致しませぬと答えたのは、我ながらいささか物足らぬ言い回しで公平に言ってあまり上出来ではなかった。

さてそれよりも余興として商船の社員で、団員赤坂政吉君に瓜二つの中華人が鮮やかな手品を演じたのにはヤンヤの喝采、どう見直しても赤坂君だと舞台の技術以上に大受けであったのも時にとっての愛嬌であった。かくて散会時間が予定よりも一時間も遅れて、主催者側が自動車賃金の割増しを負担したなどの楽屋話などもあった事ほど左様に主客120人完全にエンジョイした、宴終わって一行は思い思いに肌寒いほどの涼気にほてった顔をなぶらせながら心ゆくばかり南国の夜をさまよい歩いたが、我輩だけは南倉の井上君の好意により華銀の池田君と共に昨夜の喜楽を訪れ再びお伝女史に敬意を表することとなった。

語るは尽きぬ懐旧談、聞くは旧知の行衛と現状、美人も不要、美酒も不要である。磧田館の令嬢もお伝女史の令嬢も共に好偶を得て日本にあり、当時ステレツ(スツリーツの転訛)で威勢のよかったお君さんも疾くに帰国したとの事、その頃の秘話も相当にあるが本紀行に関係がないから一切カットする。女史に対しては山妻から託された蓑虫と黒繻子とを市松に縫い込んだ単衣帯とほか二三点を贈呈におよぶ。マアマアと大喜びで床の上に安置し、一々女たちに拝観仰せつけている。伝公も当年の覇気ありやなしかと疑ったが、この家屋も外人某から買って「借家ではありません」と済ました顔つきをしているところを見ると満更月並みの女ではない。我輩は彼女の意気を愛する。假令【たとい】娘子軍の前駆者にせよ。何にせよ彼女もまた我が南進第一陣の立役者として満腔の敬意を捧げたい。この気持ちを徹底せしむべく、明夜は何人からの招待でもなく、我輩の振舞でもなく、団員有志の懇親会をこの家に開いていささか女史を慰むべく計画を立て、既に若干の賛成を得たのでその旨申し込んでおいた。

三巻俊夫の一行は、この日、停泊中のシンガポール港からジョホールへの半日の駆足旅行をした。わずか5年後の昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争に突入し、ここマレー半島は戦争劈頭における激戦の地となる。マレー半島を死守せんとする連合国側は、制海権を誇示するため新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズをマレー沖に投入するも、開戦2日後の12月10日に日本海軍の航空戦力によって巡洋艦レパルスと共に沈没させられてしまう。チャーチルをして「大戦中を通じて最大の悪夢」と言わしめた日本側の大戦果だった。マレー半島を一気に南下した日本軍は昭和17年1月末にはジョホールに達し、連合軍側は本章にも登場する海峡にかかる橋を爆破したが、それをものともせず、一気にシンガポールに攻め込み、2月上旬には完全制圧した。連合軍側も必死に抵抗したが、戦争は勢いだ。山下奉文大将が敵将アーサー・パーシヴァルに降伏を迫った時の「イエスかノーか」はあまりにも有名だ。
そのような未来を知るよしもなく、三巻俊夫の一行はあわただしくジョホール周辺を訪ねている。当時、合成ゴムがなかった時代、ゴムは貴重な戦略物資であり、ゴム園を経営できるマレー半島が戦略地域であったことが言葉の端々からうかがい知ることができる。

一行は、シンガポールで盛大な歓迎晩餐会に招待される。上の写真は晩餐会の会場となった当時の南天大酒楼(The Great Southern Hotel Singapore)である。席上の歓迎スピーチを行ったのは、当時のシンガポール総領事だった郡司喜一。明治24年生まれ、茨城県出身。香港、バンコク、シンガポールなど南洋方面を専門として、日本とシャムの歴史的交流に関する著作も残している。昭和15年に外務省を退官するも、太平洋戦争勃発後の昭和17年には南洋占領地の司政長官として再びこの地に戻ってくることになる。歴史の巡り合わせを感じずにはいられない。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?