見出し画像

赤道を横切る:第17章 シンガポール鳥瞰

商船会社シンガポール支店調査に基づく『御案内概要』によれば

英領マレー歴史年代記
1786-90年 ケダー(クダ王国のこと)より彼南島(ペナン島)を英人に割譲
1800年 ケダーよりプロビンスウエルベリ(ウェルズリー州(Province Wellesley)のこと)を割譲
1819年 柔仏(ジョホール)王との協約により馬拉加(マラッカ)獲得、なおラッフルズ・柔仏王との協約によりシンガポール、マラッカにおける英国主権を認めらる
1826年 ベラよりパンコル島とスムビラン諸島の割譲を受く
1837年 海峡植民地シンガポールを政治の中心地と定む
1846年 ラブアン島ブルネイ王より英国に割譲
1873年 ペラ王国英国の保護国となる
1874年 ステンゴール英国の保護を受く、デインデインズ割譲
1886年 ココス諸島英領となる
1888年 パハン英国保護下に置かる
1889年 クリスマス島英領となる
1895年 ペラ、スランゴール、ネグリスムビラン、パハンの四州連盟条約によりマレー連邦結成
1896年 海峡植民地総督、マレー連邦の統監となる
1909年 ケランタン、トレンガヌ、ケダー、パーリス等のマレー諸州バンコク条約の結果英国保護領となる
1914年 柔仏に英人の総督顧問を置く
1923年 シンガポールに海軍根拠地設定方針確立

シンガポール市御案内
人口 490,155人(昭和11年7月30日市勢調査)
支那人 347,117
インド人 47,402
マレー人 45,077
欧州人 8,338
欧亜混血人 7,151
日本人 3,695
その他 4,376
戸数 33,321
面積 218平方マイル
人種 59種
言語 54種

市内概要
土庫界隈(ゴー・ダウンの転訛)ラッフルスプレースを中心として付近に宏壮なる郵便局、ユニオンビルディングをはじめ、ホワイアウエイジョン、リットル、ロビンソン等の百貨店軒を並べ、帝国総領事館、日本郵船、大阪商船、三井、三菱より正金、台銀、華南の各銀行わが南洋発展の精鋭ことごとく集まり、外国商社銀行と対立して堂々新進日本の大旗を掲げている。この付近にはなお市役所、高等法院、海峡植民地政庁、クリケット倶楽部、ヴィクトリヤ劇場、その正面にスタンフォード、ラッフェル銅像、少し離れて聖アンドリウス寺院の尖塔が聳えている。
北橋路、南橋路方面は日本人、支那人の小売店繁昌し、ミツドル路には殊に日本人の百貨店、土産物商、雑貨店、本屋、テンセン、ストア、病院など目立ち、アッパッパと浴衣姿の日本人が気安く歩いている。

撮影禁止区域
英国海軍根拠地の事とて写真撮影は特に厳重に取り締まる。絶対禁止区域は左の通り。
海軍要塞地帯、パシルパンジャン付近一帯、桟橋付近、桟橋繋留船より海の方面、クリフォード・ピアおよびここより海方面、フォート・カンニング付近、カトン、タイメラ(火薬庫存在)、博物館内……

これらはシンガポールで貰った謄写版刷りの抜き書きだが、その他乗物についての注意、通貨の説明なども記してあり、誠に親切で気の利いたパンフレットであった。観光団体にとりこのくらい重宝なものはない。市街見取り図まで添えてある。団員はこの案内記を頼りに三々五々、または単独に思うままの視察を遂げたのであった。何しろ日中80度ないし83度という気温だから台湾っ子にとっては誠に快適である。言葉は十分でないが、大部分邦人相手で要領を得る。背中に羽根をはやした交通巡査がまず一行としては何より物珍しく、流るるが如き自動車の往復に怖れをなしながら、それでも追々大胆になってアチラコチラと乗り回す。在住邦人は日本語と英語とマレー語の三カ国語を使い分けているから器用なものだ。

英国政庁は日本人の入国に対してはすこぶる寛大で、一商社に対し使用人25人までを許し、労働移民にあらざるかぎり110ドルの入国税をもって一等船客として来れば投資者たる名目の下に事実上の永住をなさしめている。医師も日本の免状を有する者には簡単なる試験をもって開業を許すので訳なく進出可能である。しかしてこの地に生まれた者は英語を解すると否とにかかわらず市民権を与える。ゆえに日本人第二世はいずれも二重国籍でゲイシャガールにも日本を知らぬ英国市民がいる。

シンガポールはマレー半島南端に位置する小島で、217平方マイルの中、南北5マイル、東西3マイルの区域を市街としていたが年々慷慨に拡大しつつある。英国にとっては東洋、西洋、南洋の交差点として政治上、経済上、軍事上枢要の地点であることは申すまでもない。

シンガポールとは、土語でシンカプラウと言い「獅子の島」を意味する。領有後百年あまりの間に50万都市に作りあげた。この地常備兵力は歩兵二個大隊で、英本国派遣部隊とビルマ兵よりなる。ほかにブラニ島駐在の要塞付属砲工兵および附属部隊若干ありとのことある。

在留邦人の主なる者は会社銀行商店員最も多数で、漁業労働者、物品販売業これに次ぎ、使用人、医薬業、料理旅館業より農耕園芸、理髪、写真、大工、左官、船舶従業、洗濯、染物などに及んでいる。

この夜は約束通り会費持ち寄りの気楽な会合を喜楽で開く。参会者十余名、板場自慢の寄せ鍋で大いに満喫。小田博士の洒脱な芸当にすっかり参る。お伝女史とも当分のお別れと献酬数刻におよぶ、実子はすでに結婚して日本にあり。近頃寂寥を慰むるため常代という養女をもらったという。いわゆるシンガポール生まれの第二世で少々インテリらしい。我輩は先年来遊した際の即興即吟を示して常代嬢にその二三を書き与えた。

青龍の並木のもとにまる裸 道普請する奇しき姿よ
雨晴れて月冴え渡る並木道モートル駆ればそよ風ぞ吹く
ロンボーの歩みもいとど静かにてすぎゆくあとに角の鈴の音
チンタ【情人の意】がり車急がす夕まぐれささやくごとくラッカス【急げ】の声

午後10時帰船してみると、この地から一行に参加する池田華銀のお見送りで大賑わい、令夫人も何かと応接しておられる。明日払暁出帆予定のため見送りは宵の間というわけである。中村事務長も同窓二三子に歓迎されたとかで良いご機嫌で帰ってくる。ビール、ビールとボーイはにわかに多忙だ。その内に多数の見送り人と共に池田夫妻もひとまずご帰館とは要領がよい。

写真は、当時のシンガポールの日本人倶楽部。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?