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『セミロングホームルームのその後~若者のすべて~(瀬尾くんの背中、トリノの秘密、私の憂鬱、黒岩先生の過去)』

※これは国語(中学二年生)の教科書(三省堂)に掲載されている戸森しるこ先生『セミロングホームルーム』という作品の続きを想像して書いた物語です。教科書の原文はここから読むことができます。さすが、教材というだけあって、物語の前後を自由にイメージさせてくれる柔軟性のある作品だと思います。以下、本文です。

 あれから、多数決でくじ引きに決まった席替えは滞りなく実施され、何の因縁か運命か分からないけれど、トリノ(鳥野)と瀬尾くんはまた前後の席に決まった。今度はトリノが前で瀬尾くんが後ろの席。つまり瀬尾くんが自動的にトリノの背中を見る位置に座ることになった。
 
 私はというと、一人だけ前とさほど変わらない窓際の席に決まった。窓際は嫌いじゃない。退屈な時は空や外の様子を見られたりするから。でも三人だけの秘密の時間、つまりセミロングホームルーム以来、トリノと瀬尾くんとは仲間というか、同志のような強い絆で結ばれた気がして、二人と離れてしまったのは少し寂しくもある。二人がどう思っているかは分からないけれど、少なくとも私は仲間意識が芽生えてしまった。三人の同志とはトリノと瀬尾くんと私というより、トリノと黒岩先生と私であり、瀬尾くんはあのかけがえのない時間を私たちにもたらしてくれた主人公なわけだけれど、でもあの時たしかに瀬尾くんは「ありがとう」とトリノに向かって言ったのだ。瀬尾くんを傷つけないように、瀬尾くんに気づかれないように細心の注意を払って、三人でセミから瀬尾くんを守り切ったと思っていたけれど、瀬尾くんは背中の違和感に最初から気づいていたのかもしれない。自分の背中にセミが止まっていることに。だからつまり、三人の同志はトリノと瀬尾くんと私と言うこともできるし、三人ではなく、黒岩先生も含めて四人の同志とも考えられる。いや、あの時間の主人公は瀬尾くんでもなく、瀬尾くんの背中に止まっていたセミかな。セミが瀬尾くんの背中に止まってくれなければ、三人もしくは四人の同志は生まれなかったし、あの時間はいつもと変わらないただのロングホームルームになっていたはずだ。あの日の出来事がなければ、私はトリノと瀬尾くんと席が離れてしまって寂しいなんてこんな気持ちを抱くこともなかったと思う。淡い恋心とかそういうふわふわした気持ちとは違う。瀬尾くんをセミから守るため、団結し合ったという尊い事実が私たちを固い絆で結び、揺るぎない秘密の仲間同士にしてくれた。私は秘密の時間を共有した仲間と離れてしまって寂しいのだ。
 
 九月も半ばになったというのに、残暑が厳しくて、時折、思い出したようにセミが鳴いていた。真夏のピーク時の生き生きした鳴き声とは違って、今にも止まってしまいそうなゆったりしたスピードで微かに鳴いているのが聞こえた。このセミの鳴き声がこの夏最後のセミの声だったと気づいたのはずっと後になってからのことだった。私は残された命わずかのセミに思いを馳せながら、廊下側前方の席に座っている二人の背中を眺めていた。
「竹内、おい、聞いているか。竹内、何ぼーっとしてるんだ?前に来て、この問題を解いてみなさい。」
いつの間にか私は黒岩先生に指名されていたらしい。私は慌てて、黒板に書かれていた問題を見た。全然分からない…。
「す、すみません。セミが…。秋なのによく鳴いているなと思って…。」
「セミ?あぁ…たしかに鳴いているが、今は授業中だぞ。授業に集中しなさい。この問題、分かるか?」
数学は苦手だった。方程式とか関数とか証明って勉強して何の意味があるの?人生の役に立つの?とさえ思ってしまう。苦手な教科なのに、ちゃんと授業を聞いていなかったせいもあり、いつも以上に難問に見えた。
「すみません…分かりません…。」
「まったく、セミの声より先生の声をちゃんと聞きなさい。じゃあ竹内の代わりに鳥野、解いてくれるか?」
黒岩先生に指名されたトリノは前に出ると、黒板にチョークの音を響かせながら一次関数の問題をすらすら解いてみせた。さすがトリノ、板書に少しの迷いもなかった。黒岩先生だって、トリノが簡単に解けることを分かっていて指名したんだと思う。人差し指で掛けているメガネを直すとトリノは何事もなかったかのように澄ました顔をして自分の席に戻った。トリノが着席する時、一瞬目が合った気がして、思わずドキっとしてしまった。繰り返し言うが、これは恋とは違う。仲間意識からくるドキドキ、胸の鼓動なのだ。
 私は黒岩先生が大きな丸をつけたトリノの解いた問題をノートに書き写した。今度、苦手な数学、トリノに教えてもらおうかななんて考えながら。トリノは成績優秀だし、スポーツもそこそこ得意だし、物知りだし、苦手なことってあるのかなとトリノのことを考え始めていた。
 
 そんな矢先、恒例の校内合唱コンクールで披露する歌をロングホームルームの時間を利用して決めることになった。なるべく他のクラスと同じ曲にならないように選曲するのが暗黙のルールだった。ある意味、早い者勝ちでもあった。好きな曲を歌いたいなら、どのクラスより先に曲を決めてしまえばいい。
 優秀な学級委員が前に出て、候補になりそうな曲を板書し始めていた。すると、数学の先生だけれど、音楽通でもある担任の黒岩先生が今日のために持参していたアコースティックギターを取り出してこんなことを言い出した。
「良かったら、この曲も候補にしてくれないか?先生、この曲を合唱で歌うのが夢だったんだ。」
黒岩先生がギターを弾きながら歌い出した曲をクラスのみんなは息を飲んで聴いていた。全然知らない曲だけど、何だかとても素敵な歌だと思った。過ぎ去る夏を愛しく思うような切ない歌…。
「いい曲だね。何て曲なんだろう。」
「悪くないね。歌の上手な黒岩先生が歌うから素敵に聴こえるのかな。」
心なしかいつもは静かな瀬尾くんが目をきらきら輝かせて聴き入っているように見えた。クラス内の反応も良く、その曲も候補曲になった。学級委員は黒岩先生から教えられた通り、『若者のすべて』という名のその曲も板書した。
 多数決の結果、定番合唱曲を差し置いて、黒岩先生が弾き語りで披露してくれたその曲が私たちのクラスが歌う曲に決まった。席替えの多数決の時はそれどころではなくて、挙手する暇もなかったけれど、今回はちゃんと私も挙手した。トリノも瀬尾くんも私も同志三人はみんな『若者のすべて』に手を上げていた。自分が推薦した曲に決まり、黒岩先生は顔をほころばせていた。マイナーと言ったら失礼だけど、この曲ならきっと他のクラスとかぶる心配もない。何なら校内ではうちのクラスが初めて合唱曲として歌うことになる曲かもしれない。歌が決まって間もなく、手際のよい学級委員はピアノ伴奏者と指揮者を決める段取りを始めていた。
「誰か、伴奏したい人はいませんか?」
ピアノを習っている子は何人かいたから、その中の誰かに決まるだろうと思っていた。しかし思いがけない人が挙手した。
「伴奏したいです。」
いつもは控えめで指名されない限り、自ら何かに立候補したりする質ではない瀬尾くんが初めて主体的に手を挙げたものだから、みんな驚いてしまった。あっけにとられて他に誰も挙手する人はいなかった。
「じゃあ、瀬尾くんに伴奏をお願いしていいですか?」
学級委員がそう言うと、みんな賛同し、パチパチ拍手した。
「続いて、指揮者ですが…誰かやりたい人いますか?」
誰よりも早く、トリノが挙手した。
「指揮者やりたいです。」
トリノなら何を任せても大丈夫、そつなくこなしてくれるし、それに繊細な瀬尾くんともうまくやってくれるだろうというみんなからの絶大な信頼もあり、やっぱり他に手を挙げる人はおらず、自然と拍手が湧いた。
「じゃあ、指揮者は鳥野くん、伴奏者は瀬尾くんで決定です。」
優秀な学級委員とそれから素敵な曲を教えてくれた黒岩先生、珍しく積極的だった瀬尾くんと、いつものように安定的な優等生トリノのおかげで、合唱コンクールのためのロングホームルームも少し時間が余ってしまった。その時間を利用して、さっそく合唱の練習をすることになった。
 
 教室に忘れられたように置かれていたオルガンのふたを開け、瀬尾くんがさっき聴いた曲を弾き始めた。
「えっ?瀬尾くんって楽譜なくても弾けるんだ?すごいね。」
ピアノを習っている子たちがすぐに弾き始めた瀬尾くんのことを褒めていた。私は瀬尾くんがオルガンをすらすら弾くことよりも、みんなの中心になって何かをしているその姿に感動を覚えた。瀬尾くんが控えめでガラスのように繊細って思っていたのはただの思い込みだったのかもしれない。
「主旋律なら耳コピできるから…。それに簡単な伴奏はつけられるけど、合唱用の楽譜を見ないと、ちゃんとは弾けないよ。」
「合唱用の譜面なら、先生が用意したから。瀬尾、これを見て弾いてみてくれ。」
「黒岩先生ってば用意周到。この曲に決まらなかったら、相当ショックだったんじゃないですか?」
「まぁな、でも自信があったから。みんなならこの曲を気に入ってくれるって。」
黒岩先生から渡された譜面を見ながら、瀬尾くんは初見なのに容易く弾いて見せた。
「初見で弾けるなんてすごい。」
「瀬尾くんってピアノ習ってたの?」
「小学六年生の頃までね…。今はやめちゃったけど。」
瀬尾くんが弾く姿に黒岩先生やトリノも感心している様子だった。
「瀬尾がそんなにピアノ得意だったなんて先生、知らなかったぞ。じゃあ瀬尾、さくっとパート分けもしてしまおうか。混声三部合唱曲だから、申し訳ないが、男子は一パートしかない。女子だけ、ソプラノかアルトパートに分かれることになる。」
瀬尾くんが弾くオルガンに合わせて、女子のパート分けが始まった。私は当然アルトに決まった。当然というのは、小学生の頃から声が低い方だったから。小学生の頃はたいへんだった。小学校の合唱というとたいてい男子、女子の二パートに分かれて、女子は高い声で歌わなければならなかった。女子というだけで自動的に高音担当になるのが嫌だった。男子だって中には高い声の子がいたし、私以外にも合唱で苦労していた子はいたと思う。
 女子がパート分けをしている間、男子は黒岩先生のギターに合わせて、男声パートの練習を始めていた。トリノは指揮者なので、歌うことはなく、指揮棒を片手に指揮の練習をしていた。さすが指揮するトリノも様になっていた。
 
 その後、音楽室と体育館に一台ずつあるピアノを使って、クラスごとに練習できる日が割り当てられ、音楽の時間以外にも、始業前と放課後、ピアノを使って練習できる時間があった。校内合唱コンクールの時期だけは部活は休みとなり、どのクラスもピアノを使えない日は教室のオルガンを使って練習するほど、力が入っていた。
 その日は放課後、私たちのクラスが音楽室を使える日だった。一通り、クラスでの練習が終わった後、瀬尾くんとトリノが居残りして練習していた。なんとなく私も二人に交じりたくて、自主的に残ってアルトパートを一人で歌っていた。そもそも瀬尾くんは居残りしなくても、すでに伴奏は完璧だった。たぶん、トリノが練習したいと言って、残っていたんだと思う。トリノの指揮だって特に問題はなかった。二人の息もぴったりで、歌いやすいし、校内で受賞も夢じゃない気がしていた。
「瀬尾くんはさ、どうして伴奏したいって思ったの?ピアノが弾けるから?」
トリノが突然、瀬尾くんにそんなことを聞き出した。
「ピアノを弾きたかったからというより、この曲の伴奏をしたかったからかな。」
「『若者のすべて』に決まらなければ、伴奏しなかったかもしれないってこと?」
私も思わず、瀬尾くんに尋ねてしまった。
「うん、そうかもしれない。黒岩先生が弾いてくれる前から、この曲は知っていて、大好きな曲だったんだ。だから伴奏したいって思ったの。」
「へぇーそうなんだ。」
トリノはようやく納得したという表情をしていた。たしかに控えめなはずの瀬尾くんの積極的な姿を見れば、誰でもなぜと不思議に思って仕方ない。
「鳥野くんはどうして指揮者になろうと思ったの?」
今度は瀬尾くんがトリノに尋ねた。どうしてってきっと、思いやりのあるトリノのことだからデリケートな瀬尾くんを守るため、率先して指揮者になったんだよと私は勝手に推測していた。しかしその推測は的外れだった。トリノの答えは瀬尾くんが見せた積極的な一面より、意外なものだった。
「どうしてって…それは…。」
「それは…?」
珍しく言葉を濁そうとするトリノの口の動きを私と瀬尾くんは見逃さなかった。
「音痴だからだよ…。」
「えっ?」
「へっ?」
下向きになってメガネを直し、恥ずかしそうにトリノが発した「音痴」という言葉に二人して耳を疑った。トリノって音痴だったの?全然気づかなかった。音楽の時間だって普通に上手に歌っているように見えていたし…。あれはそう見えていただけなのか。そんなことより、完璧に思えていたトリノにも苦手なことがあったなんて、信じられなかった。
「トリノが音痴なんて知らなかったよ…。」
「音痴って自分で思い込んでるだけかもしれないよ?」
まだ信じようとしない私たちのため、トリノはぼそぼそと小さい声で歌い始めた。たしかに…お世辞にも上手とは言えない歌声だった。なんだ、そっか、私は数学が苦手なようにトリノにも苦手なことはあったんだ。その歌声を聴いていたら、トリノには申し訳ないけれど、安堵してしまう自分もいた。完璧に見えていたトリノにも抜けている一面があって、それを教えてくれたことがなんだかうれしかった。
「音痴だろ?指揮者なら歌わなくて済むから…。」
トリノは照れ隠しにぽりぽりと頭をかいて呟いた。こんな面目なさそうなトリノは見たことがない。本当にトリノには恥なんてないと思っていたから。トリノの弱点を知った私は、またトリノと瀬尾くんと三人での秘密が増えたと思った。
「音痴っていうより、声変わりしたばかりで音程が合ってないだけじゃないかな。鳥野くん、前より声低くなったよね?僕なんていつまで経っても高い声だから少し恥ずかしいんだ。」
瀬尾くんが言う通り、たしかにトリノはいつの間にか声変わりして、小学生の頃と比べたら、声が低くなっていた。言われてみれば瀬尾くんは声が高い方だと気づいた。いつも声も小さいから、そんなに気にしたことはなかったけれど。
「いや、声変わりする前から音痴なんだ。声変わりしたら、さらに音痴がひどくなった気がして、人前で歌うなんてしたくなくてさ…。指揮者になったのは実は不純な動機なんだよ。誰のためでもなく、自分のコンプレックスを隠すためというか。」
トリノにも不純な動機なんて概念があるのかとやっぱりうれしくなった。トリノ本人は声変わりして音痴がひどくなって困っているんだから、それを喜ぶようなことは考えてはいけないんだろうけど、私は同志がさらに仲間らしくなった気がして、心の中では喜びをかみしめていた。けれど、私も声にはコンプレックスがあるから、ちゃんと同情もできた。
「不純な動機でもいいじゃない。トリノの指揮上手だし。私も、女のわりに声低いから小学生の頃は特に歌うのが好きじゃなかったんだ。女の子ってだけで、高音パート歌わされたから。」
「そういえば竹内はずっと声低い方だよな。僕はその低い声が個性的で良いと思うけど。」
「うん、そうだね。竹内さんの声は素敵な声質だよ。」
トリノと瀬尾くんからずっとコンプレックスだった低い声をお世辞だとしても褒められて、悪い気はしなかった。
 
 音楽室でそんな話をしていたところに黒岩先生がやって来た。
「おっ?なんだ、おまえら。まだ居残りして練習していたのか?えらいな。けど、そろそろ帰らないとダメだぞ。」
日が短くなって夕方五時過ぎると暗くなり始めていた。校舎を囲む外灯の明かりも点灯しつつあった。
「すみません、練習というか思春期の悩み事をみんなで話していたところで…。」
トリノが黒岩先生に思春期の悩み事なんて言葉を使って説明した。
「思春期の悩み事?」
「弱点とか、コンプレックスの話です。」
「僕たち三人はそれぞれ声にコンプレックスを感じていて…。」
瀬尾くんもトリノに合わせて話し始めた。
「なるほど、声にコンプレックスか…。たしかにそれは思春期の由々しき悩み事だ。先生にもそんな時期があったな。」
黒岩先生はハスキーボイスで素敵な声だと思っていたけれど、コンプレックスに思っていた時期があったのかと先生の思春期が気になり出したため、すかさず私は質問した。
「黒岩先生も自分の声が苦手な時期あったんですか?」
「そりゃもちろんあったよ。男子の多くは一度は自分の声に違和感をもつことが多いんじゃないかな…。女子もそうかもしれないけど。男子は声変わりする場合が多いからな。先生は子どもの頃、高い声だったんだ。瀬尾みたいにな。」
「そうなんですか?」
今のハスキーボイスからは想像もできず、三人して驚いてしまった。
「中学生になって声変わりしたら、自分の声が嫌いになって歌えなくなった時期があったんだ。でも低くなったその声を素敵だって言って褒めてくれた友人がいて。その子のおかげで、自信を取り戻してまた歌えるようになったんだ。音楽は元々嫌いじゃなかったからね。『若者のすべて』はその友人が教えてくれた曲なんだ。」
黒岩先生はもしかしたら、トリノが音痴なのを気にして指揮者になったことを知っていたのかもしれない。先生の話を聞いたら、そう思えた。黒岩先生って生徒のことを実はよく見てるから。素知らぬ顔をしながら、何でもお見通しって感じ。あの時、瀬尾くんを傷つけないように私たちの仲間になってくれたように。
「悩んでいた黒岩先生のことを助けてくれた友だちがいたんですね。やっぱりそんな友だちなら、大人になった今でも仲良しなんですか?」
トリノの質問に黒岩先生は少し寂し気な微笑みを浮かべて答えた。
「少なくとも、先生にとってはかけがえのない友人なんだが…。白石(しらいし)は…その友人は白石というんだが、ある時、転校してしまってね。いつの間にか音信不通になってしまったんだ。おまえらみたいな固い絆を結べるような決定的な何かがなかったからかもしれないが。」
当たり前だけど、黒岩先生にも私たちくらいの若い頃があって、友だちもいて、その友だちとの別れも経験していて、そんな風に私たちも大人になっていくのかと思うとなんだか寂しい気持ちになった。黒岩先生が私たちには固い絆を結んだ決定的な何か、つまりあの日の出来事があると言ってくれて、先生があの日のことをそんな風に表現してくれたことはうれしかった。でもあの日のことは少なくとも私にとっては忘れがたい大切な夏の思い出になったものの、トリノや瀬尾くんが私と同じように忘れずに覚えていてくれるおそろいの出来事になったかどうかは分からない。大切な時間だったと認識してくれているかどうかなんて確認したことはないし、三人であの日のことを話したこともない。一緒に振り返ったことなんて一度もなかった。だからいつでも不安だった。私だけ勝手に固い絆で結ばれたと思い上がっているだけなのではないかと…。たとえ三人が同じ気持ちだとしても、それを黒岩先生くらいの大人になるまでずっと忘れずに持っていられるかどうかなんて分からない。思春期は儚いものだってよく言うし、成虫のセミの命と同じように、思春期のささいな悩み事やまぶしい思い出はまばたきみたいな刹那の瞬間でしかなくて、ずっと色褪せずに覚えておくことなんて難しいことなのかもしれない。さっきは三人でコンプレックスを打ち明け合って、仲良くなれた気がしてうれしいなんて舞い上がっていたけれど、そんな気持ちさえ、ひとときの出来事でしかなくて、大人になってしまったら、すっかり忘れてしまっているかもしれない…。そんなことを考え出したら何だかとても悲しくなってしまった。思春期真っ只中の私がこんなことを想像して一人センチメンタルな気分に浸っているうちに、三人の話は進んでいた。
「おい、聞いてるか、竹内。みんなで一緒に合唱しよう。先生がギターで伴奏するから。」
いつの間にか『若者のすべて』を歌おうという話にまとまったらしい。
「えっ?この三人で歌うんですか?トリノは歌うの嫌だったんじゃ…。」
「別に、三人の前でなら歌ってもいいかなと思って。冷やかしたり、からかったりしないで聴いてくれるの分かってるし。それに黒岩先生の言う通り、固い絆で結ばれているって信じてるし。夏の歌だから、あの時の…あいつも見守っていてくれそうだし。」
トリノも私と同じ気持ちで、あの時のことを覚えていて、固い絆で結ばれた仲間の前では歌えると言ってくれたことがうれしかった。思春期って浮き沈みが激しくてなんだか疲れるな。私、さっきまでセンチメンタルだったはずなのに、今はこんなにも幸せな気持ちに包まれている。
「瀬尾くんも歌うの?」
「うん、僕はソプラノを歌うから、竹内さんはいつも通りアルトよろしくね。鳥野くんが男声パート歌って、黒岩先生が伴奏してくれるから。」
こうして合唱の練習の時は歌うことのない珍しい二人の歌声が混じった不思議な合唱の時間が始まった。声の高い瀬尾くんのソプラノパートがよく響いていた。音痴なトリノの歌声も声量だけは瀬尾くんに負けてはいなかった。私はいつも通り、アルトパートを歌った。そしてそんなちょっとデコボコで調和しているとは言えない三人の歌声をうれしそうに聴きながら、鼻歌まじりの黒岩先生はギターをやさしく奏でた。その時、音楽室に響いた『若者のすべて』は四人だけで歌い演奏した、最初で最後の合唱の時間になった。セミロングホームルームの時間より短い、わずか数分の出来事だったかもしれない。けれど、あの時は四人揃って同じ方向を見てはいなかった。同じ気持ちだったかもしれないけど、各々の時間の中で、瀬尾くんの背中のセミ問題をどうにか対処しようとしていた。今は違う。みんなが『若者のすべて』という一曲を見つめて、同じ方向を向いて、心を開いて同じ気持ちで歌っている。そのことがうれしかった。あの時、ちょっとバラバラだったものをやっと今になって回収できて、ひとつにまとめられた気がした。あの時の気持ちや、あの時のことを覚えているかなんて確認しなくても、今、四人で歌えているこの事実が答えのすべてだと思えた。思い上がりなんかじゃなくて、本当に揺るぎない絆で結ばれていると、この四人で合唱できた瞬間、確信できた。
 
 この秘密の練習の成果もあってか(まったく関係ないかもしれないが)、私たちのクラスは合唱コンクールで見事、校内一位の入賞に輝いた。瀬尾くん、トリノ、誰よりも黒岩先生が一番喜んで、目にうれし涙を浮かべていた。表向きは黒岩先生が一番喜んだかもしれないけれど、私だって負けないほど喜んでいた。クラスが校内一位になれたことより、四人がこっそり団結できたあの放課後の出来事が認められた気がしてうれしかったのだ。
 
 合唱コンクールが終わってしまえば、元の日常に戻り、四人の距離はまた元通りに戻った気がした。見かけ上は。でも私はもう以前までの私とは違っていた。トリノにも人知れず音痴という弱みがあったことを知り、瀬尾くんも私と同じように声にコンプレックスを抱えていて、それから大人で何の問題もなく余裕のありそうな黒岩先生にもほろ苦い思春期の思い出があったことを知れたから、みんなで秘密を共有できたから、もう寂しくはなかった。物理的に席が離れていても、心はいつも側にいられると思えた。前より壁はなくなって、心だけは近づけたと三人を信じることができるようになっていた。
 
 明日から冬休みが始まろうとしていた日、思いきってトリノと瀬尾くんに一緒にクリスマスパーティーをしようと話を持ちかけようとしていた。すると瀬尾くんの方から思いもよらないことを言われた。
「鳥野くん、竹内さん、二人には最初に話しておこうと思うんだ。僕…転校することになったよ。」
「えっ?転校?そんな…せっかく仲良くなれたのに…。」
「いつ?まだ先のことだよね?」
「親の仕事の都合で、冬休み明けて少し経った頃に…。一月中には転校するよ。」
「そんな…せめて中二の間は一緒にいられたら良かったのに…。」
トリノと私は瀬尾くんの突然の告白に肩を落とした。
「あの時はありがとうね。ずっとちゃんと言いたいって思ってたんだ。」
「あの時って合唱の時?」
「それもあるけど…席替えする前の、ロングホームルームの時のこと。」
私とトリノは目配せをして、やっぱりあの時、瀬尾くんは自分の背中にくっついていたセミの存在に気づいていて、密かに私たちが格闘していたことにも気づいていたんだと悟った。
「瀬尾くん、あの時、気づいていたんだね。背中のセミの存在に。」
「うん、背中に何かついているのは分かってたんだ。でもそれがセミって知ったのは、鳥野くんがとってくれてからだよ。窓から逃がされたセミの声が聞こえたから。」
瀬尾くんはそう言うと、私たちに何かを差し出した。
「鳥野くんだけじゃなくて、竹内さんも協力してくれてたんでしょ?黒岩先生に叱られてたし、様子がおかしかったから…。だから二人にずっとお礼がしたかったんだ。鳥野くんはセミについて研究したこともあるから大丈夫だとして、竹内さんは苦手じゃないといいんだけど、これ、受け取ってくれないかな?僕さ、正直、生きてるセミは苦手なんだけど、セミの抜け殻は大好きで集めてるんだ。セミをとってくれた二人にセミの抜け殻をプレゼントしたくて…。」
瀬尾くんから差し出された小箱を開けてみると、中にはきれいなセミの抜け殻が入っていた。瀬尾くんがセミの抜け殻を集めていたなんてちょっと意外でもあった。
「ありがとう、私も生きてるセミを触るのはちょっと苦手だけど、抜け殻なら大丈夫だよ。すごくきれい…。」
「瀬尾くん、ありがとう。気門もこんなにちゃんときれいに残っていてすごいよ。」
「気門って?」
「この白い糸のことだよ。人間でいう気管のことだよ。セミは口ではなくておなかで呼吸しているから、呼吸するための大切な管なんだ。羽化する時は、落ちてしまわないように、命綱の役目も果たしているんだ。ほら哺乳類の赤ちゃんがお母さんの子宮の中ではへその緒を通して酸素や栄養をもらっているのと似てるよね。人間のへその緒の場合、取り上げた人が切ってくれるけど、セミはすごいんだ。羽化する時、一人きりだから、最後には自力で自分の足を使ってこの管を切るんだよ。すごいよね。」
さすがトリノ。自由研究で『セミの一生』を調べただけあって、セミに相当知識がある。
「へぇーこの白い糸にそんな重要な役目があったなんて知らなかったよ。僕はただ、成虫時代は短いセミの儚い命のすべてがつまっているような気がする、抜け殻が好きで集めていただけだから…。死んでしまってからもこうしてずっと残る抜け殻がすごいなって思ってて。目とか触覚の形まで分かって、ものすごく丈夫だし。」
「たしかに、セミの抜け殻って丈夫そうに見える。何でできているの?」
私はまじまじと抜け殻を見つめながら、トリノに質問した。
「セミの抜け殻にはキチンという成分が含まれていて、キチンってカニやエビなんかの甲殻類や貝にも含まれる丈夫な成分なんだ。頑丈な分子構造をもっているから、溶けにくいし、抗菌性もあって、耐久性もある。何しろ幼虫時代、何年も過ごす土の中でセミの命を守ってくれる鎧みたいな殻だからね。瀬尾くんの言う通り、この抜け殻の中にはセミの一生分の命の記憶がつまっていると思えるよ。」
あまりにも専門的過ぎて、私はついていけなくなったけれど、とにかくセミの抜け殻がすごいってことだけはよく分かった。
「命の記憶か…。セミが死んだ後も、抜け殻さえあればこうしてずっと命の記憶は残るんだね。」
「うん、そう簡単に消滅したりしないよ。僕たちの友情と同じだよ。」
トリノが当たり前のようにさらっとそんなことを言うものだから、うれしくなってなんだか少し泣けてしまった。瀬尾くんの目にもうっすら涙が浮かんでいるように見えた。
 
 結局、クリスマスパーティーのことは言い出せないまま、二人と会えない冬休みが始まった。今さら、三人で思い出を作ろうとしなくても、あのセミロングホームルームと放課後の合唱とそれから、瀬尾くんがセミの抜け殻をプレゼントしてくれた時の思い出があるから、平気な気がしたし、どんなにがんばってもそれら以上にきらめく瞬間は作れない気がしたから。
 
 短い冬休みが明け、間もなく瀬尾くんは遠くの街に転校してしまった。トリノの席の後ろの主をなくした席はぽつんと空いたままだった。それは瀬尾くんが残した抜け殻のように見えた。セミロングホームルームの時、トリノが教えてくれた「もぬけの殻」の意味を思い返していた。「もぬけ」とはヘビやセミの抜け殻のこと…。もぬけの席となってしまった瀬尾くんが座っていた席を見れば実体は見えないけれど、たしかに瀬尾くんの背中を思い出すことができた。瀬尾くんはいつだってトリノの背中を見つめていた。そういう風に見えただけかもしれないけれど、トリノの背中に何かあれば今度は自分が助けるんだという気持ちで見つめているように私には見えていた。私はそんな瀬尾くんの背中を遠くから眺めているのが好きだった。トリノの背中を案じる瀬尾くんの背中を案じることが二人と席の離れてしまった私にとってささやかな楽しみだった。瀬尾くんの背中がなくなって、よく見えるようになったトリノの背中は心なしか寂しそうに見えた。トリノもきっと瀬尾くんに守られている安心感があったんだろうな。瀬尾くんに代わって今度は私がトリノの背中を守るから大丈夫だよ。何かあっても、何もなくても見守り続けるから。瀬尾くんの意志は勝手に引き受けたから瀬尾くんも安心してね。
 
 そんなことを考えているとまた黒岩先生に注意されてしまった。
「竹内、何ぼんやりしてるんだ。まったく、いつもおまえは。瀬尾の席が空いたままだし、そうだな…。竹内のことは鳥野に任せよう。鳥野に見張ってもらっていれば、竹内も少しは授業に集中してくれるだろうからな。」
見張りと称した黒岩先生の粋な計らいで(本当は罰なんだろうけど)、私は窓際の最後尾の席から、瀬尾くんの席に移動することになった。正確にはトリノと瀬尾くんの席を交換し、私はトリノのいた席に座ることになった。トリノに背中を見られる位置に座っているのかと思うと、気が引き締まるから黒岩先生の思惑通り、授業には集中できそうだった。いや、背中の視線の方が気になって落ち着かなくなってしまうかもしれないけれど。とにかく、四人目の同志である黒岩先生、ありがとう。瀬尾くんがいなくなって、物思いにふけっていた私のことを察してくれたのですね。
 
 背中越しに瀬尾くんの温もりが残っている気配も感じられる私のすぐ後ろの席に座ったトリノから
「竹内の髪の長さ…いつの間にかセミロングになったよな。似合っていると思うよ。」
なんてぼそっと言われた。いつもショートカットで過ごしていたから、そろそろ切ろうかと思っていたけれど、もう少し伸ばしてみようかと思った。五人目の同志かもしれない翌年のセミが鳴き始める頃には、私はロングヘアになっているかもしれない。
 
 休み時間、瀬尾くんが旅立った街にも続いている空、瀬尾くんも見ているかもしれない同じ空を、あの夏の懐かしい窓から、トリノと一緒にぼんやり見上げていた。
「きっと何年経っても思い出してしまうな…。」
「うん、忘れられないし、忘れたくないね。」
なんて会話を交わしながら…。聞こえるはずのないセミの鳴き声がジジジッと聞こえた気がした。冬にしては生暖かい風がふわっとカーテンを揺らした。

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※今回の続きの物語はこちら→『続・セミロングホームルームのその後~若者のすべて~(物憂げな瀬尾くん、虎山くんと白石さん、大切な仲間と大人たちの再会)』

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