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わたしは読書が苦手だった。

娘のYouTube視聴時間が気になっている。

こちらから何もいわないと、3時間でも4時間でも見続けている。

内容もゲーム実況や、「24時間〜し続ける」といったあまり将来役立ちもしないネタばかりである。(わたしもヘンテコなYouTubeを見るので偉そうには言えないが。。。)

相手出来ればいいが、ネームをはじめてからは頭を結構使うからか、帰宅後はグッタリして子供の相手も億劫になってしまう。

夜になり始めるあたりになって注意してやっとすごすご宿題を始める。。。といった具合だ。

娘が通っている学校が、S時間という早めに帰宅させる時間割になっているのもキツい。
早い時は1時半、かなり遅くても4時に帰宅、大抵は2時半に帰宅という、保育園時代ではありえない早さの子供の帰還に、今なお「マジか。。。」と呟いてしまうこの頃。

とにかくYouTubeの長時間視聴はどうしたものか。。。

疲れてる時が多いからなかなか相手もできんし。。。

と主人に相談したら、


「まずはやるべきことをやってからが大事だから帰宅後すぐに宿題をやること。お母さんがみていなくても、まずは一人でやること。
あとは読書はさせた方がいいと思う。
マンガでもいいから、日本語を理解してゆくことをさせた方がいいと思う。
算数や国語の問題を解くにも、日本語が解せず「問題の意味がわからない」というのがあるから。
とにかく、YouTubeは自分がやるべきことをやり終わってからだよ。」

と、色々打開策を上げてくれた。

主人は学生時代、小学生の家庭教師のバイトをしていた。

娘はまあまあ、読書は好きな方かと思うし、本への集中度もとても高い。

しかし、学校から帰宅後は、勉強や友達付き合いで疲れただろうと思って、まずは休憩ということでYouTubeをみさせていた。。。

うーん。。。

帰宅後もすぐに宿題かあ。。。。ストイックすぎやしまいか。。。



けれど、「読書」の大切さは大人になって強く感じている。



わたしは、本来、読書は苦手だった。


幼児の頃は絵本はお気に入りの数冊のみ。

それ以外は全然読むこともしなかった。

己の過去と比較すると、娘の方がはるかに読んでいる。


幼稚園の時に自力で壁に貼ってあったアンパンマンのひらがなを必死で覚えていたのを記憶しているので、字を覚えるのは早かったが、その字に親しむのはもっぱら「マンガを読むため」に限られていた。

また、絵本や物語より、図鑑の方がビジュアル豊かでずっと好きだった。


一方、姉は小学校低学年のうちから江戸川乱歩シリーズにはまり、

学校の図書館にあったSF小説シリーズも着々と読了してゆくような生粋の本好きだった。

横溝正史、田中芳樹、アガサクリスティーと、姉の部屋はズラリとそれらのシリーズが並んでいた。

幼いじぶんから物語を読むゾーンに入った時の集中度は発揮されていたのかと思う。

一緒に本を読んでいた時、「あんた、読むの遅いよ」と言われたものである。


一方、わたしの方は、マンガは読めども本は殆ど読まないという状態は中学生まで続く。

小学校の図書室で読んだものは、

「はれ、ときどきぶた」と「ギリシア神話」と「水俣病、イタイイタイ病」「ヒロシマのピカ」他戦争にまつわる本、松谷みよこのむかしむかし、ルナールくらい。(ただ、室内にあった過去の世界大戦に関する本は殆ど見たと思う)


あとはもっぱら図書室にあるマンガばかりを読んでいた。



日常生活では赤川次郎の吸血鬼シリーズとティーンズ文庫、ときどきシドニィ・シェルダンぐらいしか読んだ記憶がない。


なので、毎年夏休みに課題に出される「読書感想文」なるものが苦手で嫌で仕方がなかった。

まず、自分の好きな本ではなく、「課題図書」なるものが出されるところから嫌だった。
大抵つまんないと思った。本は自由に読ませてほしい。

酷い時は仕事が休みの日に母親が本を読み、読書感想文を口述して、わたしが筆記するという有り様であった。


中学生の時はほぼ100%マンガまみれであった。
読んだのは宮沢賢治の「よだかの星」くらいしか覚えていない。

マンガだけでも国語の成績にはなんら支障はなく、国語と歴史だけは常に上位だった。マンガのおかげで国語力を磨いたといっても過言ではない。。。

なので、絵本も童話も子供向けの本も「読むのに最も適した時代」にはほぼ無視し続け、ほとんど触れていない。


なぜ活字を読むようになったかというと、マンガを描いていて

「マンガ以外でインプットするものがないと、自分オリジナルの漫画や、ストーリーは作れない」

と痛感したからである。

高校の時にじわじわと自分の想像力のなさ、インプットの貧弱さに気づき始め、小説やエッセイを読み始めた。

池波正太郎、柳田國男、高村光太郎、中勘助、山田詠美、村上春樹、アゴタ・クリストフ、コナンドイル、山崎朋子。。。


それでも触るぐらいだったし、ノンフィクションの方が好きだった。

大学生のときに所属していた漫画学校で

映画も本も古今東西のものはなんでも読むように、見るように

と教えられてからは自分が好むジャンル限定だけど、映画や書物により深く触れるようになった。

近代文学は、新潮文庫がちょうどyonda ❓フェアをはじめていて、ポイントを集めてブックカバーや、文豪ティーカップセットを貰っていたのを覚えている。

夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、安部公房、坂口安吾、太宰治、幸田文、白州正子、カフカ、カポーティ、三島由紀夫、永井荷風、川端康成、レイチェルカーソン、森茉莉、北原白秋、与謝野晶子、江戸川乱歩、ガルシア・マルケス、ツルゲーネフ、テオドール・シュトルム、サガン、浅田次郎、岩井志麻子、レイモンド・チャンドラー、向田邦子、久世光彦、などなど。。。


手当たり次第、とりあえず「代表作を読んでみましょう」みたいな具合だった。
過去の日本映画を中心に映画も当時たくさん観た。
それでもファンタジーやSFはほぼ皆無で読んでいない。

大学卒業後の無職時代は一層読書熱に拍車がかかった。

当時強烈に感銘を受けたのが車谷長吉と、いつも布団の傍らにあったのが「ゴッホからの手紙」だった。



双方ともちょっと「常人」ではない狂おしさと侘しさをもった作者だが、俗世というものに最後まで溶け込み難かった孤独なところが、当時、なにものにもなれていない無力感と焦燥感を持っていた自分とリンクしたのかもしれない。
執着心や念力というものがすこぶる強いこの両者には、他人事とは思えない親近感を覚えたのだ。

近所の図書館にはほぼ毎日のように通い、大量に借りて読んで、また借りて。。。を繰り返した。

その頃にはマンガより遥かに本を読むことの方が多くなったけれど、
やはり物語より、史実やノンフィクションの方が好きなのは今なお変わらないし、現代小説は好きな作家は一人二人くらいで、ほとんど読まないことも変わりない。

絵本に限っては、娘を産んでから読み聞かせし始めて、大好きになった。
「絵本ってほんとうにいいものですね」といかにもわかった風に水野晴夫をもじっているが、絵本の良さがわかったのは出産後の35歳からである。

小さい頃、かの有名な「かいじゅうたちのいるところ」の絵が苦手で、全くページを開いていなかったが、大人になった今は「これは。。。これは傑作や‼️」と打ち震えている自分がいる。

長く生きてると、こういうミラクルが起こるんだなあ〜と思う。


上記のとおり、わたしの読書道の始まりはずいぶんと遅い。

元来の本好き、というより、必要に駆られて、といった不純な動機である。

ストーリーのインプットをしても、それが自身の創作にもっとも実感のある形で見事に消化してオリジナルを作れるのが10年後20年後である。

小さい頃から物語や本に数多く接してきた人は20代で花開いてゆく。

わたしはそんな人より20年くらい遅れているんだと思う。

やっと30代後半になって、じわじわと自分の作品といえるべきものが作れはじめて、ここ1年はマンガ作る上で「鳥の目」「虫の目」「魚の目」が、少しづつであるが鋭敏に作動してきていると感じている。
いい具合で充実期の直前に入り始めているのでは。。。とお前、自意識過剰もいい加減にしろよ、稼げてないんだからさ。。。ともう一方で思いつつも、過去では感じられなかった「漫画を描く自信」がついてきた気がする。

ふは。白髪まみれの40代でやっとスタート地点かあ。。。
まあ今となっては後の祭り。

今でも、マンガの資料以外で本を読むにはしんどいな、と思うことはよくある。

これはマンガの役に立つかも、
この空気感を漫画で出したらどうなるんだ、
このネタはちょっと背景の後ろに絵で入れるといいな。。。

といったネタ探し的に本を漁っている時が一番楽しい。

活字をみるだけでスクリーンがぶわわっと広がってゆく。


物語を読むのが苦手なのも、マンガを今では殆ど読まないのも、影響をとても受けやすいタイプゆえ「盗作みたいになると怖い」という恐怖心が根本にあるのかもしれない。

けれど、読み方は人それぞれなので、乱読サーフィンを繰り返しつつ、これは、と思ったものに関しては何年も何十年もしつこく文面を思い出し、繰り返し読み砕いて人生のステージによって感動の振り幅も異なってゆくだろうし、それを楽しみたい。


わたしは読書が苦手だった。

けれど、今は本から人間や人生を教えられることが多い。

一種の挫折によって読書好きになったのだけれど、

本との蜜月は生涯続くと思う。










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