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ニムロッド

Citizen Soul⑤_ニムロッド

『Citizen Soul』のコンセプトが、“現代社会”だとした根拠は、この曲の存在が非常に大きい。
そういえば、このアルバムは2011.3.11を経て製作されていた。
(『沈黙』の時に言うべきだったな…)
おとぎ話の絵本を読み耽っていた子供も、顔を上げざるを得なくなった現実。
そんな、物語だった。

<あの太陽が偽物だって どうして誰も気づかないんだろう>
繰り返される糾弾。
これまでの4曲では、いまいち感情の居所が分からなかった歌声が、温度を得ている。
常々考えていた事だが、『ニムロッド』の歌詞はとても普遍的だと思う。
つまり、いつ聴いても当てはまる。

3.11以降、明らかに世界は変わった。
SNSが普及していったのも、この辺からだったと思う。
電話線がパンクして、連絡が取れなくなる中、インターネットの世界は通信のダメージを受けなかった。
安否確認も含めて、誰もが何かしら登録していった。

同時に、デマも増えていった。
誰でも簡単に発言できるという事は、誰かの思いつきや真偽不明の「こんな風に聞いたんだけどさ…」も簡単に“情報”として拡散できるという事だ。
喫茶店でおしゃべりするのと違うのは、インターネットの世界では一度発信した事は永遠に残ってしまう事。
おしゃべりは空気と混ざって消えていくし、間違えてしまっても「ごめんごめん!」と取り消せる。
それは会話だからだ。
SNSは“発信”に過ぎず、会話は地続きではなく、規定の字数で区切られる。
1000文字や、140字に区切られた“発言”は言葉が独立し、鳥のように飛んで行く。
インターネットに投げかけた時点で、発言に対するコントロールは不可能となる。

画面に映る真偽不明の“情報”に、一喜一憂する事が増えていった。
その世界は、今も継続している。

3.11以降、飛び交うデマの発生源は原子力発電所を巡る、不安に駆られた人々の呟きだったと感じる。(今も、終息した訳ではないが。)

<あの子は木に登って 火照った大地を見晴らした>
地震という大きなエネルギーに翻弄された大地とも取れるし、原子力の熱で火照ったとも取れる。
<足を滑らせたらパラシュートは開かない>
間違えても、取り返しのつけられない事象。
”スイッチひとつで、人類は死滅します。“
チープな映画みたいな状況が、ノンフィクションになってしまった。

“ニムロド”という人物は、バベルの塔を建設した人物であり、名前の意味はヘブライ語で“我らは反逆する”。
寓話的で捉えどころの無いスタンスを貫いた集大成だ。
『ニムロッド』は、いつものpeople節と見せかけて、おそらくハッキリと反逆の意味を込めている。
何に?
現代社会に?
もう少し具体的に?
人が得てはいけなかった力に。
原子力という太陽に。

<「ママ、あの高みへと連れて行って
聖なる頂きへと
眺めをみてみたくて
でも どうせ みせてはくれないよね
突然の風雨やらで>
小刻みに鳴らされる、ベースのカッティングは温かみを感じる。
サビまでの助走はリズミカルで、体を揺らしたくなる小気味良さがある。
だが音に乗る歌詞は、かなりペシミスティック(皮肉的)だ。
"突然の風雨"に思い当たる事はたくさんある。
不都合な真実が報道されそうな時、芸能人の不倫報道が新聞の一面を飾ったりね。
ママに連れて行ってと願ったのは、原子力を完全にコントロール出来る科学技術の元へか。
それとも、原子力開発の裏側、不都合な真実を求めてか。
いずれにせよママは「お天気が悪いわ、おうちの中に居なさい」と真偽不明の命を下す。

<科学はいい線まで行った
愛と迷信をスポンサーにして
ルール履き違えたまま>
原子力は無限のエネルギーの塊だ。
皮肉だ、ニコラ=テスラが夢見た、全人類にエネルギーが等しく行き渡る機能が叶ったかもしれない。
良い世界にしようとしたのだと思う。
"無限のエネルギー"という1点だけを、我々に見せて。
実は、コントロール不可能なエネルギーだった事は伏せて。
(科学者に責任があるわけじゃ無いと思うけど。それはまた別の話。)


ギター、ベース、ドラムのキメが入り、重く切れ味鋭いアンサンブルが空間を裂く。
<巨大なバグのなかプログラマうごめいてる>
<歴史はそれ自体がスケープゴートの様相だよ>
ここらへんもたまりませんな。
"バグ"(過ち)の中に、それを修復する役割の"プログラマー"が内包されているという皮肉。
"愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ"という言葉があるように、歴史は未来の為の教科書だ。
でも、その当時生きていた人達は?
未来の犠牲になるために生き抜いた訳じゃなかったよな?
エネルギッシュなドラム(山口大吾の生き生きとしたプレイが目に浮かぶ。本当にエネルギーを感じる。)に乗るベースは少しセンチメンタルに聴こえる。
更にそこに乗る、畳みかけるような言葉と歌声。
糾弾、とはつまり怒りだ。
怒りは、エネルギーを消耗する感情だ。
エネルギッシュな演奏に、糾弾を込めた歌声が乗り、『Citizen Soul』の中では最もエモーショナルな曲展開だ。
すげぇかっこいい。

畳みかける。畳みかける。
<空へと吹き上がる風は意思を孕んでいる>
<言葉が鳥のように晴れた空を飛んでいる>

<東京に溢れるこのくだらない信仰のなかで
僕らは議論を白熱させるくせに、>
『Citizen Soul』で一番好きな歌詞です。
どうしようもなく正論で、全てに喧嘩を売る皮肉で、現実ではとても言えない言葉。
日常生活で叫べない事を歌詞に変えて叫ぶのがロックという音楽・・・と言って良いなら、『ニムロッド』は正しくロックだ。
真偽不明の"発信"を<信仰>と表現する容赦の無さ。
それらを<くだらない>と一蹴する攻撃性。
『親愛なるニュートン街の』で見せた優しくて爽やかな一面を知っている。
『ベルリン』『市民』のような、攻撃的な一面も知っている。
これまでに培われた全ての「Peopleらしさ」が詰まっている、
歌詞がこれまでに無い程、明確な主張を語っているにも関わらず嫌な気持ちにならないのは、そのメッセージに悲痛さや誠実さを感じるからだし、歌詞の意味は分からなくても演奏がとても素晴らしいから。
ものすごく余談ですが、歌詞を見るまで<くだらない人口のなかで>だと思っていて、「東京都民をくだらない人口というクールさ、やばいな」とおののいておりました。
明らかに<信仰>の方がカッコイイです。

<あの太陽が偽物だって どうして誰も気づかないんだろう>
その"太陽"は、何にでも捉えられる。
原子力。
デマ情報。
印象操作されるニュース。
普遍的だ、と感じたのは、2011年以降、いつ聴いても『ニムロッド』が心に響いたから。

SNS(というか、Twitterかも。)を誰でも使うようになって、政治や性差など、取り上げられにくい話題が話題になりやすくなった。
問題を問題のままにしない。これはとても良い事だ。
でも、"問題解決のための発言"は少ないように、自分には思える。
問題を解決するのはとても大変な事だ。
解決のための知識を得る。
解決策を話すための話術。
解決のための仲間集め、および仲間の理解。
最も必要なのは、費やす時間。
SNSでは、"見解"が多いよね。
「自分はこう思う」「こんな記事を見たがそれって問題じゃないの?」「#問題発言した政治家の辞職を求めます」永田町でやれよ。
否定はしない。
こういった発言をしてくれる人々がいるお陰で、明るみになる問題も必ずあると思うから。
でも、"発言"や"見解"だけで世界が変わると思ってる奴らが多くないか?
・・・おっと、それ以上いけない。
<これは精神的不能のコメディーだ(笑)>ってつければ許して貰えませんかね?

『技法』を悪用すな。

いやぁ、本当に。
「意外とみんな政治に不満あるんだな~」と驚いてる。近年。
Twitterがあるから表面化してるんだと思うんだけど、Twitter無かった時代はみんな溜め込んでたのかな?
だとしたら、表に出せる場が出来て良かったねぇって感じ。
自分の"見解"を正義として表現している人が多いのが、気に入らないけどね。
人々にTwitterがあって良かったように、自分には『ニムロッド』があって良かった。

これらは勿論、これまでの曲よろしく、いち考察に過ぎない。
"現代社会"がコンセプトだったとしても、その中身の解釈は、聴き手に委ねられている。いつも通り。
自分は、『ニムロッド』を怒りの曲だと解釈しているが、それが唯一の正解ではない。いつも通り。
その自由度の高さが、救いであり一生聴けるタフさを持つ曲。いつも通り。

<8月、目隠しを課せられた母親たち>
最後のワンフレーズ。
3.11ではなく、8月が登場しては、どうしたって8.6と8.9を連想する。
"あの子"に勝利という聖なる頂きを見せるために、科学者たる"母親たち"は目隠しをさせられたのだろうか。
深読みのしすぎだろうけど。
深読みついでに。
8月と爆弾をイメージする時、やっぱり込み上げるのは怒りだ。
どこにでもぶつける事の出来ない怒りは、SNSではなく、『ニムロッド』を演奏する格好いいバンドを見て解消するよ。

音楽の話!!
全篇に渡り、ドラムはエネルギーに溢れている。
丁度いい所で打ち鳴らされるシンバルに合わせて頭を振るのが気持ちいい。
また、重みのある鼓動が全体をうねらせ、曲の表情を作り出す。
このドラムでないと、『ニムロッド』を表現できない。そう思ってしまうほど、存在感が大きい。
"現代社会"を表すように、地に足が着いた安定感あるベース。
ギターのメロディを支えるように控え目に演奏されるが、サビ前のキメではジャギジャギとクールに主人公へと躍り出る。
この使い分け、と言えばいいのか、演じ分けと言うべきか。
演奏力のとんでもなさを見せつける。
歌声とドラムが熱い分、ギターがクールに聴こえる。
可愛らしくも聴こえるギターのフレーズがまた、絶妙な演奏バランスとなって、心地よい。
3つの楽器が絡み合い、狂いなくキマっていく後奏はとてもクール。
しかし、曲が終わっても聴き手は高揚感で体が火照ったままだ。
その熱冷めやらぬまま、『Citizen Soul』は最後の曲を再生しはじめる。

PVの話!!

めちゃくちゃ手込んでますよね。大好きこのPV。

2:02~ 
少女が声にならない叫びを上げている絵。
そして沢山の吹き出しや、腕や蝶が少女の口から溢れ出していく映像。
"言葉にならない(できない)主張"を表現しているのだと思うんだけど、映像の素晴らしさ、少女の表情、切実な歌声が合わさって、胸が詰まります。
最後に、言葉ではなく花が、口から零れていくのもなんだか切なく、美しい。
歌詞と同じで、明確なメッセージの無い(=観る側に解釈を委ねている)PVだからこそ、いつ観ても胸を打たれるんだろう。
そういう意味では、芸術や、絵画に近いのかもしれないですね。