季節のご挨拶2024 初春
まずは初鳴き。
鳥の中にはオウムのように人の真似をするものもいればガビチョウのように他の鳥の鳴き真似をするものもいますから、鳩がウグイスの真似をしたっていいんじゃないかと思います。もしかしたらこれはサバイバルスキルなのかもしれないのですから。
音が結構響いているのは風呂場で録音したからです。
最後のピピョピは「起きて」ですので目覚まし代わりにご活用下さい。
皆様の清々しい朝の目覚めを願いつつ、今後も練習を続けてまいります。
春ですね。まずは花模様
例年よりずいぶん早く吹き去った春一番。
その後しかたなく春らしい日が数日続いたかと思えば、また寒さが戻ってきた。そりゃそうだろう、まだ三月なんだから。
梅は咲き誇り、散り始めてもいる。その蜜を求めて集うメジロのなんと可愛いことだろう。
桜のつぼみも大きくなってきている。
桜といえばソメイヨシノ、なのは少し前の時代でも現代の風潮だったようだ。
最近岡潔さんと小林秀雄さんの対談本『人間の建設』を読んだのがきっかけで、岡さんのエッセイ集『春宵十話』と『春風夏雨』、小林さんの『読書について』も読んだ。感想についてはまた今度ということにして、岡さんは自身のエッセイで、桜は山桜こそ至高、ソメイヨシノなぞ日本固有のものではない、現代人はなぜこれほどまでにソメイヨシノを誉めそやすのか、葉も同時に芽吹く風流が分からないのか、なんと嘆かわしいことだろう、の様なことを書いていたと思う。なにしろ、気品とは理想の高さであると言い切るお方であるから、桜に対する見解ひとつとっても手厳しい。
花好きの身としては、花なら大抵何でもいいと思うわけだが、桜に関してはソメイヨシノを誉めそやしているというより、目にする桜のほとんどがソメイヨシノなわけで、街中で山桜に出会うこと自体が難しい。では野山でふと出会う状況があるかというと、それはもっと難しい。そうそう野山に行けないのだから。
さて、変わりゆく現代人を憂い、危機感を抱くこともいつの時代にも見られるようだ。この「いつの時代にもある心配事」については、確か上述四冊のどれにも書かれており、岡さんに至っては同じ懸念を繰り返し吐露していた。いつの世も天才は世を憂うものなのかもしれない。
その中でも興味深かったのは小林さんの語る当時の若者の人相についてだ。そこには世相が反映されているとのことだった。これはなかなかとんでもない視点だと一蹴できないものがあった。個人の経験値の域を超えない範疇ではあるにせよ、心当たりというか、あああれかと現代でも思い当たるふしがあったりもした。深い洞察をされるお方だ。
古い書籍に書かれていることは歴史観が古いとか、考え方が現代の主流とは異なるゆえに違和感を覚える表現があるという意見もあるのだろうが、そういうものだと思って読めばいいだけの話だ。違って当たり前で、いちいちそこに引っかかっていてもしょうがない。たとえ大人物だとしても著者とて人間で、自身が生きた時代の潮流の中にいたのだから、多少なりとも当時の気運やら世情やらから影響を受けていたとしても不思議はない。それは現代に生きる者にとっても同じことだ。
古い本にも何かしらの発見はある。辿っていけば物事の遷り変わりが見えてきたりして面白い。
真冬から初春にかけての鳥模様
渡り鳥の季節でしたね。
この時期は冬以外は見かけない野鳥を観ることができるし、留鳥の行動も通常とは異なったりしてとにかく発見が多い。
今冬は水辺の鳥の潜水能力に着目した。
潜水の名手といえばカワウだ。オオバンも潜水はするが、水中滞在時間はカワウには及ばない。鴨も水中の餌をとるためにもぐるものの逆立ちするのがやっとのようだ。羽が空気を含みやすい構造になっているのかもしれない。どうしても浮いてしまっているようにも見える。
一方カワウは体をほぼ半分くらい沈めたまま水面を移動したり、潜って水中を前進したりもできる。水に潜ってしばらく出てこないと思ったら、潜った地点からずいぶん離れた場所からぼこんと出てくる。長い時で十数メートルはあるだろう。潜ることを目的としているからか、鴨に比べるとカワウの羽の撥水は弱い。狩りのあとは羽を広げて乾かしている。
数週間前のこと、聞き覚えのある鳴き声がすると思って松の木を見上げるとオオタカが戻ってきていた。木の下ではすでに鳥名人が数人望遠レンズ搭載のカメラを構えていた。鳥名人達が飛来情報を得る速さは目を見張るものがある。鳥スポットを巡回しているか、コミュニティがあるとしか思えない。まあこういう時代なのだからコミュニティぐらいはあるだろうが。
私は鳥にだけ話しかけていると思ったら大間違いだ。鳥名人にも話しかける。すると待ってましたとばかりに、かえった雛の数から、他の野鳥の営巣情報から、市街地のルリビタキ情報から、川沿いの野鳥の分布情報から、スマホ+双眼鏡で野鳥をうまく撮る方法から、月まで撮れる望遠レンズのことまで、とにかく色々教えていただける。本当にありがたく、積極的に話しかけるようにしている。営巣情報を教えてもらえるのは鳥好きには名誉なことでもある。鳥に無害な存在と認められたのだから。
さて、オオタカが戻って来てまず始まったのがカラス軍団との縄張り争いだった。カラスもすぐには譲らないようで、フォーメーションを組んで遠巻きに牽制していた。夏にオオタカのヒナがかえるまでにひと悶着、ふた悶着はあるだろう。昨年はオオタカの巣の近くにトンビも巣を作ろうとしていた。巣を作ったのはトンビが先だったが、後から来たオオタカに追い出される形となった。鳥名人曰く、オオタカの巣とトンビの巣の距離が近過ぎたのだろうとのことだった。
昨夏オオタカのヒナが巣立ち、巣をひき払うや否やすぐにカラスの群れが戻って来ていたのをみると、余程いい場所なのだろう。今年もカラス軍団、トンビ、オオタカの三つ巴となりそうだ。
喜怒哀楽模様
喜怒哀楽。どれも大事。
少なくとも小説を書く時はどれも大事だと思う。特定の感情、例えば「怒」は、単純に考えても長くずっと怒っていることは難しいし体にも悪い。しかし小説となるとそれはまた別の話で、ネガティブでよくないものだと遠慮したり避けたりして書いてもしょうがないと思っている。で、そういう遠慮はバレる。バレてないと思ってるのは書いた本人だけで、まあバレている。それでそういうのは結局全部自分に返ってきたりもする。
かと言って、波風の立たない、あるいは微動に留める比較的フラットな小説をよく思っていないかというとそんなことはない。読むし、いいと思う作品もある。が、紹介は控えたい。こんなところで引き合いに出されたらその作品の著者もたまったものではないわけで。
それでどういう時に読むかというと、波風立てたくない時だったりする。要は気分だ。いいも悪いもない。
淡いブルーの水玉模様
模様つながりで、以前佐治先生の書籍を紹介した際に書き忘れていたことを思い出した。
佐治先生が出演する宇宙ドキュメンタリー映画『Pale Blue Dot』が来月公開されるようなのでご興味のある方はどうぞ。
宇宙がテーマの作品はドキュメンタリー調がしっくりくる。ロマンとリアリティの割合が程よいからだ。どちらかに寄せた作品も観ないことはないが、いいと思うものにはドキュメンタリー要素があったりする。
宇宙好きかと聞かれても、はいと即答する程ではないが、興味深い分野だとは思う。淡々としているなとも思う。佐治先生の連載エッセイを読んでいたらつくづくそう思うことがあった。
最近、太陽から2100万光年先に位置するM101銀河(おおぐま座)で燃料を使い果たした星が大爆発を起こし、終焉を迎えたとのこと。(注1)燃料を使い果たしたのに爆発したのはなぜだろう、爆発するエネルギーが残っているのなら燃料はまだあったのではないのか、これが有終の美というものなのか、などという素人考えは適用されない世界があるのだろうからそれは一旦置いておくことにする。
この爆発は超新星爆発(SN2023ixf)と呼ばれ、明るさにして太陽の約9億倍、太陽が生まれてからこれまでに放出したエネルギーをたった十数秒間に放出したというのだから、すさまじいものだった。その爆発で水素、炭素、酸素、窒素等の生命を構成する元素がばらまかれたことが確認され、あと10億年もすればその周辺に命が誕生するかもしれないのだそうだ。一体どうやってそんな遠くにばらまかれた元素を確認するのだろうか、という素人考えも一旦置いておいておくことにする。
佐治先生のエッセイを読まなければ、そんな大爆発があったことさえ知らずに過ごしていただろう。と同時に、知った今何か変わったかというと、実感的に何か変わったことがあるわけでもない。地球上でこれと似たような現象があるとすると、水面に落ちた水滴が作る水紋だろう。今もどこかでぴちょんと落ちて、現象として淡々と波紋を広げるものの、その多くが誰にも気づかれていないという点で。
今も宇宙のどこかで起こっているであろう何かのことを考え始めるとぼーっとしてきたりもするわけで、ほどほどにするようにしている。
注1 超新星爆発の記述については、東急電鉄発行の無料月刊誌SALUSの『理学博士・佐治晴夫の連載エッセイ 宇宙のカケラ Vol.92』より拝借しました。残念なことに佐治先生のエッセイのアーカイブはありません。
休憩
ここで10分間の休憩をお取りください。
いいから休みましょう。
暑苦しいでしょうから換気も必要かもしれません。
作品についての心模様
ちゃんとやれてるんですか?などという質問は、孤高操業の駆け出し物書き(私)にとっては愚問以外の何ものでもない。まず、一体誰の基準でちゃんとやれているのかと問いたい。それに、やれてるわけないんだから聞くまでもないでしょうに、とも言いたい。
完成したと思っていても完成していなかったのか、そもそも完成などないのか、それとも単に時と共に人の心は移ろうからなのか、すでに投稿を終えた作品にもちょこちょこ手を加えたくなる。それがあまりにも続くため、事前にその旨お知らせをしつつ対策をとったりもした。功を奏したかはまだ分からない。
既存作について
いくつか変更を加えた。これから加える予定もある。
『白い尾のオナガ』については、タイトルを『ルチアーノ -白い尾のオナガ-』に変更した、というのがまず一点。
二点目。
ルチアーノの関連作品が二つ生まれた。
それぞれ一章分程度で、実は海のシーンと秋のシーンとして本編に組み込むことも考えたが、海のシーンはすでにイワシのシーンが一つあるし、秋のシーンは季節感に合わないし、詰め込み過ぎてもしつこくなるし、といった理由で見送っていた。一旦別で出そうと思う。
三点目。
ルチアーノの筆後感想文で、主人公ルチアーノの親友の名前の表記をチェードロとするかチェドロとするかで悩み、当初チェードロとして投稿したが、あとからより一般的だと思われるチェドロに変更したと書いた。
その後やっぱりチェードロのほうがいいと思い、チェードロに変えた。
それぐらいの自由はあってもいいはずだ。
四点目。
倒木三部作の最終話『七人目の侍』にもう一章書き足して、タイトルを『八人目の侍』に変更しようと思う。
各章が比較的独立しているため、比較的容易にできそうではある。
五点目。
一作目の『丘の上に吹く風』については大幅変更を加えるため、なるべく読まれないよう絶対に購入されない価格を設定している。今の所これが功を奏していて誰にも購入されていないが、続編の『丘の上に吹いた風』を書き終えてみると更に課題が増えた。
バッサリいくのか、かと言って手を入れすぎて収拾がつかなくなるのもなぁ、いやそもそも収拾はついていたのかねぇ・・・・・・と、よく分からなくなってきている。ここにきてスタイルを寄せていく問題も追加された。こういうときは自ずとそうなるまで放っておく(熟成させる)に限る。何もしないわけではない。醸成されるのを待つということだ。
何はともあれ、どうぞお楽しみに。先になりますけど。
ここまで書いて気づいたが、たぶんこれはTo Doリストなんだろう。
エンヤスタイルの採用
便利な時代になったもので、YouTubeにも小説執筆関連のいいコンテンツがある。ただ、残念なことに日本語のものはあまり見かけない。自分がそんな事を話すのはおこがましいと謙遜しているのだろうか。もしそれが「上からだな」とか「お前が何言ってんの?」などと反射的に言ってくる下手戦法の手合に遠慮する風潮が原因なのだとしたら、そういうのはそろそろ終わらせた方がいいように思う。どこの誰がどんな素晴らしいアイデアを持っているかなんて分からないわけで、それを単に知名度やステータスだけで判断するのはもったいないことだ。まあ権威主義が邪魔しているのだろうが。
日本語でなくてもよいのであれば有料無料を問わず、大御所から出版関係者からアマチュアまで役立つ情報を発信している方は多い。少し前に見た動画で「執筆中は人の作品を読まないこと」と言っている人がいた。確かにそうだ。知らずしらずにその作品のスタイルに引っ張られるからだ。
それで一つ思い出しもした。
これはエンヤスタイルなのである。
一昔前、夜のヒットスタジオという歌番組に初来日のエンヤが出演したことがあった。エンヤといえば、独特の世界観でOrinoko Flowなどを歌っていた新進気鋭の歌い手であった。夜のヒットスタジオといえば、ひな壇に出演者が座り、和気あいあいとした雰囲気で番組が進行するのがうりであった。ところがなんとエンヤは他の音楽から影響を受けたくないという理由でひな壇に座ることを拒んだ。視聴者にその旨告げた司会の古館さんは、確か苦笑いだったと記憶している。
こんなことが許されるのは外タレだったからだろうし、エンヤ相手にダメですとも言えなかったのだろう。と同時に、あのひな壇に座って他の出演者と談笑するエンヤは想像しがたくもある。
その回のアーカイブは見つからなかったが、今でも印象に残っている。それでファンになったかというと、それはまた別の話だったりはするが。
私はエンヤほどストイックにはなれないが、執筆中はエンヤスタイルを採用しようと思う。
終わりに
今後の予定ですが、短編いくつかと、それからいよいよシリーズも始まります。出す順番は分かりませんがどうぞお楽しみに。
そういえば、プロフィールも全文公開しましたのでどうぞ。
鳩子という謎は解けるのか、さらに深まるのか。
その他の作品についてはお知らせ&お品書きマガジンをご購読ください。
この記事が参加している募集
潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)