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【筆後感想文】『ルチアーノ -白い尾のオナガ-』を書いて

これはニホンカナヘビではあるが、第3章に登場する森の門番トカゲのエドモンドのモデル。
杭の上で尻尾をくるっと巻いて前足で抱え込む姿を、作中では人っぽく描いた。スマホのカメラでこれくらい寄って撮影するには、一旦こちらがニホンカナヘビの景色の一部になるほかない。

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音を使う

なんかオノマトペ多いな、と思った方がいたとしても不思議はない。
今作品では音を意識的に使った。動きや雰囲気を出すのに役立った。やりきる性分とはいえ、いささか使い過ぎたと思い、投稿後に数か所削った。
以前別の投稿で、第5章『Fellow 仲間』の鳩の鳴き声を「ポポポ。グルッポ。」から「ポポポ。クルッポ。」に変更したと書いた。後者のほうがよりすっとぼけた感じが出て、あのシーンに合っていると思ったからだ。

登場人物(今回は動物)の名前も音を重視した。が、その割に妥協もした。
例えばチェドロCedro。表記としてはチェドロとするのが一般的なようだが、イタリア語の発音を聞くとCeをチェーと伸ばしているように聞こる。一般的な基準に合わせることも一つだろうが、せっかくのイタリア感が削がれてもくる。どうしたものかと考えたが、投稿当初は音を優先させてチェードロとしていたものを、結局チェドロに変更した。小トカゲのヘルベルトHerbertoについても、ハルベルトと呼びたかった。「ハ」から始まる名前にしたかったわけだが、Herbertoはヘルベルトと読むほうが一般的なようだったからそれも変更した。「ハ」から始まる他の名前も考えたが、意味が求めていたものと違った。最後に何が残ったかというと、「なんか、つまんないな」という気持ちだった。
登場動物の名前についての本質は何かというと、今回で言えば意味のほうだ。ご興味があれば調べてみていただきたい。なかなかいい名づけをしたと思っている。

偶然

小説を書いていると不思議な偶然が起こる。うまいこと繋がる、収束する、とも言えるかもしれない。
今回で言えば、第7章『Kingfishers カワセミ』の注釈として載せたシラクサのルチアがそれだ。下書きを終え、作中で歌われるナポリ民謡『サンタルチア』の歌詞を調べていたところ、シラクサのルチアに行き当たった。読めば、なんと両目を失った聖人とのことだった。「光を失う」という表現は、視力を失う、盲目になるという意味でも使われる。「光」を「視力」と解釈するという点から考えると、語感が招いた偶然、でなければネット側のアルゴリズムのなせるわざ(おそらく“ルチア”、“ナポリ”つながり)とするのが妥当だろう。

今作では、ボスオナガのティランノとルチアーノの親友チェドロが片目を失った。これについては偶然というか、書き進めていったら自然とそうなった。作中ではそうとは書いていないが、ティランノは左目、チェドロは右目を失ったという設定だ。なぜかと聞かれても、映像的にというか、感覚的にそうなったとしか言いようがない。

物語は、一度転がり出すと色々ありながらもやがて収束していくもののように思う。そういうわけで、何も心配せず、始まったら終わるまで書くことにしている。

レトロ感とイタリア感

まずレトロ感について。
どこか懐かしさが漂うのは今作だけのことではないかもしれないが、今回は特に登場動物達のセリフを文語寄りにした。会話で臨場感やリアリティを追求するなら、「い」、「ら」、「れ」を抜いた口語表現のほうが適していることも多いが、今回はあえて抜かなかった。

イタリア感は、登場動物をイタリアの名前にしたことがまず一つ。上述したように、付けた名前が幸いして偶然も生まれ、想定外のイタリア感が出た。一見悲劇とも言える状況の中にみるちょっとした軽さ、明るさなんかも入れた。大笑いするほどではなく、少し力が抜ける程度のものだと思う。
また、にっちもさっちもいかない時はとりあえず歌って乗り切ろう、とにかく歌っちゃえ、というイタリア映画で散見される解決方法も採用した。ここでよく登場するのがカンツォーネというイタリア民謡で、第7章『Kingfishers カワセミ』ではカワセミの群れが旅立つルチアーノを見送りながらサンタルチアを大合唱する。

登場人物(動物)の設定と、全然終わらない別れのシーン

ティランノが抱える矛盾

ボスオナガのティランノは、尾羽が白いことを理由にルチアーノを散々な目に合わせる。そんなティランノではあるが、自分も一羽だけ角刈りという設定だ。そんなことどこにも書いてないじゃないかと言われても、はい書いてません、としか答えようがない。頭の黒い羽の部分が、レトロな言い方をすればGIカットで、他のオナガより高さがある。ゴリラ界におけるシルバーバックという解釈もできなくはないが、ティランノ自身も他のオナガと(見た目が)違うにもかかわらず、白い尾羽のルチアーノを迫害するという矛盾をはらんでいるわけだ。これはティランノの根底にあったのが妬みだからに他ならない。
第8章『Wimpy Monster 弱虫モンスター』で、ティランノはカワセミの羽で飾り立てたルチアーノの尾羽を品評した際に「黄色は余計だ」と言った。つまりティランノは黄色と橙色を区別するほどの繊細さを持ち合わせていなかった。実は品評できるほど大して何も分かっていないが、とにかく難くせつける必要があったということだ。
なぜか? ティランノは、白い尾羽が他のオナガの崇拝の対象にもなり得ると考えた。そうなるとルチアーノの存在は、ボスとして君臨する自分の立場を危うくし、もはや脅威でしかない。とにもかくにも、なにがなんでも、ルチアーノを認めるわけにはいかなかったのにはそういった事情もあった。ティランノがルチアーノのオナガらしからぬ甲高い鳴き声に反応したのも同じ理由だ。ルチアーノの声は高く、澄み切った美しいものだった。特別なもの、つまりこれも崇拝の対象になり得ると考えたわけだ。
こうしてティランノは、どんなに追い払ってもあの手この手を使って森に戻ってくるルチアーノに憤慨し、徐々に本心を隠し切れなくなっていく。そんなティランノの意に反し、ルチアーノの尾羽は益々白くなっていき、ティランノはあの様な実力行使に出ざるを得なくなった。
しかしだ。矛盾だらけのこの世の中で、何の矛盾も抱えていない者などいるのだろうか。ティランノの場合は、その程度が酷かったから嫌悪感を覚えるのであって、矛盾は誰しもが抱えているものでもある。

トカゲの親子

トカゲの親子は、夏場によく見かけるニホントカゲをモデルにした。調べると、幼体時は尻尾が青いが、成体になると体と同じ色に変わるということで、第3章『Blue Forest アズーラの森』はそういう設定のもとに描いた。
トカゲは日陰と日向、例えば石塀と道路の境目やヤブと歩道の境目などでよく見かける。日干しをしているのか、よく杭の上にもいた。警戒心が強く、人が通ればぴゅっと杭から飛び降りてヤブの奥に消えてしまう姿を見て、もしかして森の仲間に知らせに行っているのだろうか、だとしたら面白いなと思い、森の門番という設定にした。

鳥の目線と習性についての考察

今回の主人公は鳥ということで、鳥の目線を取り入れた。
第4章『Rain 雨』で、ルチアーノは雲の切れ間の薄桃色の空を見て、日没が間近に迫っていることに気づき先を急ぐ。理由は、オナガは夜行性ではないため、日が落ちる前に森に着かないと、せっかく青くなった尾羽が見えづらくなるからだ。
第9章『Hollow うろ』で描いたルチアーノとチェドロの別れのシーンでは、鳥の視力は人間よりもいいという想定のもと、人間同士であれば見えないような細かなことも書いた。実は当初はもっと詳細だった。いざ二羽が向かい合うと、合わせ鏡のようになり、永遠に続いてしまうんじゃないかという事態に陥った。しょうがないから自然に終わるまで書いてみたが、全く終わる気配がなかった。さすがに長くなり過ぎたためバッサリ切った。誰かが誰かと向かい合うと、そういうことになるんだなと妙に納得した。

第5章『Fellow 仲間』で、鳩と一緒に行動するつがいのムクドリが登場するが、これは実際に見た光景がもとになっている。
早朝からブランチの時間にかけて、鳥もせっせと朝食を摂る。大抵決まった場所に群れでやってくるが、鳩の群れにムクドリが二羽紛れているのを見たことがあった。別の日には、ムクドリの群れにかつてはペットだったであろう白と水色のセキセイインコが一羽紛れていた。人間(私)が近づき過ぎると、ばっと一斉に飛び立って上空を旋回し始めるが、ムクドリは鳩の群れの中で、セキセイインコはムクドリの群れの中でちゃんとついて行っている。ムクドリにしてもセキセイインコにしても、自分より体の大きい鳥と同じ速さで飛ぶことは容易ではないのか、必死な感じにも見える。しかし、空中での急な方向転換にも対応している様子から察するに、鳥には鳥の阿吽あうんの呼吸があるのではないかという気がしてくる。人間同士だって阿吽の呼吸はあるのだから、鳥がそうであっても不思議はない。野鳥となると、むしろ人間の持つそれよりも鋭いのではないだろうか・・・・・・と専門家でもない私の話はこれくらいにして、それにしても、ムクドリもセキセイインコも別の動物の群れではなく、ちゃんと鳥の群れに紛れている。鳥は自分が鳥だとは分かっていないはずなのにだ。そういったわけで、互いが捕食の対象ではないことが前提にあるのだろうが、ルチアーノが鳩の群れと雨宿りをするシーンでは、大して何にも気にしていないようで、ちゃんとポイントは押さえている鳥の不思議も描いた。
ちなみにオナガは、スズメ目カラス科オナガ属とのこと。何とも言えない心境になったのは私だけだろうか。

サンザシかコケモモか

大道具・小道具は、世界観を創る上で大いに役立つ。今回最後まで悩んだのが、第6章『Human 人間』でルチアーノがついばむむ木の実の種類だ。サンザシかコケモモかで悩みに悩み、結局サンザシにした。双方ともに美味しい上、見目みめも美しいからどちらも捨てがたかった。

プリズム

「プリズム」という言葉を使わずにプリズムについて書くことを試みたのが最終章『Reunion 再会』だ。透明になったルチアーノの体(プリズム)を光(朝日)が通過してきらきらと拡散する様子を表現したが、くどくなるから書き過ぎないようにして・・・・・・と説明している時点で、私はうまく伝わっていないと思っているわけで、それもあって記事にプリズムハッシュタグを付けてしのいでみたりした。
こうして毎回何かしら試みてはすっ転んでいるが、不思議と後悔はない。

なにはともあれ、ルチアーノはチェドロと再会し、尾羽に金色を取り戻し空高く昇っていくという、考えようによってはハッピーエンドとなった。なぜこれが可能となったか。答えは最終章のルチアーノのセリフ「もういいや」にある。全部手放した。だから空高く昇っていくことができた。

最後になるが、第9章『Hollow うろ』で、ルチアーノの母さんが産んだ卵を巣から落として割ってしまった理由については、読者の皆さんの想像に委ねることにする。設定はあるが、知らなくていいこともあるわけで。

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