言語習得は起こりえない。 表明の数だけ「正言」がある。 意見の衝突は起こりえない。 解釈の数だけ「正見」がある。 殺生は起こりえない。 生誕の数だけ「正滅」がある。 四苦八苦は起こりえない。 生命の数だけ「正忍」がある。 精神は起こりえない。 魂魄の数「正念」があるだけ。
禅の意志的な呼吸法から、意志が脱落してゆくところに、呼吸の妙味があるように思う 意志は必要だが、意志だけではどうにもならない 意志的な呼吸は、無意志を学ぶための取っ掛かりなのだろう 正念(サマサティ)は、ことさらに正念しようとするところからは得られない 正念の放棄が正念そのものだ
仏教の八正道の中の「正念」の「念」とは、元の言葉は「sati」なんだけど、これが「幸(さち)」と音が似ているのは偶然か。 「今」は常に「正念場」であり、「今」の下ではたらいている「心」が「念」、つまり潜在意識のことか。 「念仏まふさんとおもひたつこゝろ」(歎異抄第一条)であろう。