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「ナフス(النفس)」の正体:聖典クルアーン「太陽章」をめぐって(第1回)

太陽がいっぱい

「太陽」は、指示対象がかなりはっきりしている言葉であるように思われる。しかし、天文学にいうような恒星としての「太陽」とは異なり、その意味は風土的な要素も含め文脈の中で、様々であることが予想される。もう昔の話であるが、あけぼの漁業の缶詰の中東での売れ行きが芳しくない原因が日の出をデザインしたロゴにあったという話を聞いたことがある[1]。

「あけぼの」の代わりに「ドゥハー」としていたら?


 『太陽がいっぱい』(アランドロン主演のフランス映画)という映画もあった。フランス語のタイトルは「Plein Soleil」(直訳すると「完全な太陽」byGoogle)であり、お天道様はすべて見ているという意味だとか。英語では「Purple Noon 」であり、「神秘的な紫色の正午の太陽」。邦訳「太陽がいっぱい」とのイメージの差は大きい。アラビア語についてWikiには記述自体がない。「太陽がいっぱい」はあり得ず、「すべてを知っている太陽」も「妖艶な輝きの真昼の太陽」も、アラビア語の世界に言及はない。

「太陽」にしてこうした状態なのであるから、人間の内面にかんする「ナフス」の語については、その理解が困難を極めることは想像に難くない。指示対象に太陽のような明確性はなく、その意味は、太陽より以上に認知や真理といったものに左右されるはずだからだ。アラジンの訳を列挙してみよう。【1】 魂、霊魂 / soul (W4)【2】 生命、命 / life (Ed)【3】 人、人間、人々 / human being (W4)【4】 自分、自身、自己、己 / self (W4)【5】 精神、心、心理 / mind (W4)【6】 好み、欲望【7】 凶眼

つまり、霊魂やたましいであり命や生命でもあり、人や人間でもあり、自分や自分自身でもあり、精神や心でもあり、好みや欲望でもあるような、そんな広がりをもった言葉が「ナフス」なのである。さらに言えば、たとえば、魂や霊魂をとってみても、どちらも指示対象がはっきりせず、また極めて多義的な言葉でもある。「ナフス」とは何か。どうやらそれを取り巻く意味世界のつながりの中でしかとらえることはできそうにない。そのあたりの整理も含め、聖典クルアーンに尋ねてみよう。

やらかすナフス、悔いるナフス

 聖典クルアーンのおけるナフスを論じる際に、言及されるのが次の聖句である[2]。

وَلَقَدْ خَلَقْنَا الْإِنْسَانَ وَنَعْلَمُ مَا تُوَسْوِسُ بِهِ نَفْسُهُ وَنَحْنُ أَقْرَبُ إِلَيْهِ مِنْ حَبْلِ الْوَرِيدِ [ق: 16]

《われらは人間を創造した。その彼に彼のナフスが囁くことを知っている。われらは、頸動脈よりあなたに近いところにいる》

カーフ章16節

 人間のナフスはどうやら囁くらしい。そして、そのナフスにはさまざまな種類があるという。聖典クルアーンでは、それが3つのタイプに集約されている。「ナフス・アンマーラ」「ナフス・ラッワーマ」「ナフス・ムトマインナ」である。

 まず、悪事、醜行を命じるナフスがある。ナフス・アンマーラである。預言者ユースフが幼少のころ、兄たちが彼を荒野に放置した後、父親にはオオカミに襲われたと虚偽の報告をさせた、そのナフスが例として引かれる。

 وَجَاءُوا عَلَىٰ قَمِيصِهِ بِدَمٍ كَذِبٍ قَالَ بَلْ سَوَّلَتْ لَكُمْ أَنْفُسُكُمْ أَمْرًا فَصَبْرٌ جَمِيلٌ وَاللَّهُ الْمُسْتَعَانُ عَلَىٰ مَا تَصِفُونَ[يوسف: 18]
《彼らは虚偽の血で汚したユースフの服をもってきた。父は言った。「いや、あなたがたのナフスがあなたがたをことに唆したのであろう」。忍耐は美しい。アッラーこそ、あなたがたが述べること(の真偽)について縋るべき御方である。》

ユースフ章18節

 وَمَا أُبَرِّئُ نَفْسِي إِنَّ النَّفْسَ لَأَمَّارَةٌ بِالسُّوءِ إِلَّا مَا رَحِمَ رَبِّي إِنَّ رَبِّي غَفُورٌ رَحِيمٌ  [يوسف: 53]
《私自身、ナフスが実に悪を命じ続けており、わが主が慈悲慈愛をかけて下さるに外に赦されることはない。本当にわが主は、慈悲深くよく赦して下さる御方だ。》

ユースフ章53節

  
このようにナフスがアンマーラの状態にあるとき、悪事を命じ続けるが、それだけがナフスの様態ではない。ラッワーマの状態にあるナフスは、「自らを責め、叱責し、注意し、謝りに陥った場合には、悔い改めるように促す」とされる。

 وَلَا أُقْسِمُ بِالنَّفْسِ اللَّوَّامَةِ  [القيامة:2]
《また、自責する魂において誓う》

復活章第2節

また、このナフスは、「繊細で傷つきやすく、過ちや誤りに対して深い痛恨を抱き、怖れと期待を抱きながらアッラーに祈りもする、自己を責める鞭となり、このナフスの持ち主は、罪の囚人である」。

 

大悟するナフス

「アンマーラ」と「ラッワーマ」。欲望に唆され失敗しては、後悔して鋭く自分を責め続けるという、ある意味、心の常態である。そして、このせめぎあいが収まる状態が「ムトマィンナ」としてのナフスである。それは、アッラーを正念することによってもたらされる。

 الَّذِينَ آمَنُوا وَتَطْمَئِنُّ قُلُوبُهُمْ بِذِكْرِ اللَّهِ أَلَا بِذِكْرِ اللَّهِ تَطْمَئِنُّ الْقُلُوبُ [الرعد: 28]
《信仰する者たち。彼らの心はアッラーに対する正念によって落ち着く。アッラーの正念によってこそ心は安らぐのではないか》

(雷電章28節)

それはつまり、信仰の甘美さを味わい、信仰によって平安を獲得し、その主に服し、彼を正念することによって安らぎを感じた、高貴で高尚なナフスの状態である。このナフスこそが、アッラーの御満悦を得て来世において楽園に招き入れてもらえるのだ。

 يَا أَيَّتُهَا النَّفْسُ الْمُطْمَئِنَّةُ * ارْجِعِي إِلَى رَبِّكِ رَاضِيَةً مَرْضِيَّةً * فَادْخُلِي فِي عِبَادِي * وَادْخُلِي جَنَّتِي[الفجر: 27- 30]
《安らぎを得たナフスよ。あなたの主に戻りなさい。主の御満悦に満たされて。私の下僕の仲間に入りなさい。私の楽園に入りなさい》

ファジュル(暁)章27-30節

 こうしてナフスは、アッラーに対する正念によって誘惑と叱責の緊張関係を克服して心の平安とアッラーの御満悦を得て、最終的に来世の楽園に至ることができるというのである。アッラーはすべてを御存知。(第2回に続く)

脚注

[1] http://shojiki496.blogspot.com/2014/05/blog-post_17.html 近年、イスラーム教国向けには、一部商品を除き、このあけぼののロゴは使われていないと言うが、「あけぼの」の平仮名の代わりに「アッドゥハー」とアラビア語で表記したらまた別の展開になっていたかもしれない。

[2] الموضوع: النفس البشرية وصفاتها في القرآن الكريم

ميسون سامي أحمد  イラク人研究者 女性学

https://www.alukah.net/sharia/0/148503/%D8%A7%D9%84%D9%86%D9%81%D8%B3-%D8%A7%D9%84%D8%A8%D8%B4%D8%B1%D9%8A%D8%A9-%D9%88%D8%B5%D9%81%D8%A7%D8%AA%D9%87%D8%A7-%D9%81%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%82%D8%B1%D8%A2%D9%86-%D8%A7%D9%84%D9%83%D8%B1%D9%8A%D9%85/#ixzz834nqVogK

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