禅【生雲】

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  • 禅 坐禅 悟り 見性 解脱 正法

    他から学ぶものは何もないのが正伝の仏法です。           禅の悟り、正法における見性、自由解脱の道は身心。         本当は何もいらないのです。

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禅 坐禅 悟り 見性 解脱 正法

禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

    • 見性悟道

      宗教と関わる必要はない 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

      • "悟れない"

        学び方を 捉え違えている 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

        • 既に

          "そうなっている" ものに "そうする" という投影を重ねない。 投影は認識の想像に沿って 事実を歪めようとする行為であり、 投影しようとしている "只管" とか "非思量" というものはない。 故に認識を用いる限り相対と投影が続き 永久に坐禅にならない。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

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          93本

        記事

          量子

          テクノロジーが開示される事で、奇跡も奇跡ではなくなり、 生活の中で誰もが利用できるものでしかなくなるでしょう。 超能力も超能力ではなくなるでしょう。 しかし、どのような能力も通用せず、素通りされてしまう。 無視することなく、機に随いながら無礙に通り抜けている。 それは、知識によって行使できるような類のものではない。 認識化せず 無礙に透過している在り様を只管と呼ぶのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          機会は

          二度と戻らず、正法に縁するのは稀有を超えて奇跡なのです。 だから良寛禅師は "好時恒易失 正法亦難遇" と述べたのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          量子論で

          説明がついても、それが自らに自覚され、 体認されなければ無いのと同じでしょう。 知っているだけで、自らの事実ではない。 本当はわからない。 何ができるようになり、何が解決できても、 究明されない自己だけが解決しないのです。 如何に自己の真相を体認し、無礙の自己に落ち着くか。 二千五百年前から釈尊直伝、それを伝えて来たのです。 故に 正法しかないのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "二重スリット実験"を

          引き合いに出すまでもなく、観測、観察、見ることが残れば、 認識は認識を実在と捉え、それを現実として体験するでしょう。 こういうのは際限のない現実逃避と変わらないのです。 究極の真相は認識体験の中になく、必然認識が止む必要がある。 正法においては "認識を用いて見る"ということをしないのです。 そんな真似をしなければ、元より粒は波でもあり、粒でもある。 故に "重々無尽縁起" "事々無礙法界"と華厳は述べているのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "二重スリット実験"を

          解脱

          解脱とは事物の姿、この身心の在り様なのです。 精神が形而上の実在になることではありません。 すでに解決済みの事実に落ち着くのです。 他の解脱概念と同じなら 仏法を説く必要はない。 仏法は事実を精神の理想と希望で歪めないのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          体用

          体に沈めば病、用に泥めば迷。 "当明中有暗 勿以暗相遇 当暗中有明 勿以明相睹" と参同契に。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "見ること"を超えた理法

          "無知是無碍知、無見是無碍見"と 二入四行論に。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "見ること"を超えた理法

          "目は見ない"

          目は知らないのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          無作の只管修証

          無条件にすでにそれであり、途切れることはない。 如何なる修行も、この坐禅とは比するに及ばない。 だから良寛禅師は "争似達無作 一得即永得" と述べたのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          無作の只管修証

          坐禅

          徹するのではなく、すでに徹している事実。 修行するのではなく、修行しようがない事実。 理解するのではなく、理解は置き去りの事実。 "自己をはこびて" ではなく "万法すゝみて"。 "する"のではなく、身心という"万法の事実"。 修証とは 縁に触れると"その通りになる"六根の作用。 だから道元禅師は "最上無為の妙術"と述べたのです。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "法すでにおのれに正伝"

          身心の実相すでに非思量底 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "法すでにおのれに正伝"

          "自己をはこびて"

          "認識理解を行使"するのではない。 認識理解を行使する限り、認識が残る限り、観ている限り、 "自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる" 悟りはない。 禅 ~現代における見性悟道の実際~(PDF)

          "自己をはこびて"