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北海道ゆかりの人たち 第九位 吉葉山(よしばやま)

9月14日 80年後に日本の人口は5千万人に!?

【百年ニュース】1920(大正9)6月17日(木)女優・原節子誕生。本名は会田昌江。横浜郊外の保土ヶ谷の裕福な家庭に生まれる。父会田藤之助(48)は横浜尾上町の生糸商。母(石川)ナミ(38)。2人の兄と4人の姉を持つ末っ子。のち1928(昭和4)大恐慌により生糸輸出が激減し経済的に困窮。瀟洒な暮しは一変。

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2年前
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【百年ニュース】1920(大正9)6月18日(金)日華実業協会(渋沢栄一会長)が帝国ホテルで創立総会開催。副会長は藤田平太郎と和田豊治。評議員は藤山雷太以下50名。日中貿易推進のため東京商業会議所や在華実業団等により結成。3月15日の株価大暴落で始まる戦後恐慌で関係者多忙により設立が遅れていた

クロゴスメマ

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【百年ニュース】1920(大正9)6月30日(水)新宿武蔵野館がオープンする。当時の新宿はまだ場末の雰囲気があったが、地元商店街の有志が文化的な街にすべく資金を出し合った。三階建てで600~700席の大型施設。1925(大正14)には徳川夢声が弁士に就任。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月15日(火)政友会本部放火事件の公判が始まる。控訴審も経て翌年7月に判決が確定し、主犯の憲政会壮士河本恵治(29)が禁錮15年、共犯の鳥取3区(境港)選出の元衆議院議員渡邉芳造(59)は高齢を理由に一審判決懲役2年から5カ月に減刑された。

【百年ニュース】1920(大正9)10月20日(水) 大杉栄が密かに大船駅から列車に乗り日本を脱出,上海に向かう。警察の尾行をまくためトレードマークの山羊ひげをそり落とし変装。9月の演説会での公務執行妨害で在宅起訴中。10月25日上海着。コミンテルン極東社会主義者会議に出席。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月16日(水)鴻池幸富(10代目鴻池善右衛門)没。1841-1920。大阪の豪商鴻池の家督を1851(嘉永4)に10歳で継承。以後1887(明治20)長男幸方(11代目鴻池善右衛門)に家督を譲るまで36年間当主を務めた。第十三国立銀行を創立する等尽力し、その功で11代が男爵に叙爵された。

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【百年ニュース】1920(大正9)7月1日(木)第43特別議会の開院式が開催される。大正天皇は病気で欠席のため原敬首相が勅語を読む。貴族院議員は大礼服正装が多いが、衆議院は燕尾服の議員が増える。「開院式挙行せらる、陛下御臨なきにより余勅語を奉読して‥(原敬日記)」

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【百年ニュース】1920(大正9)6月16日(水)東京府中央工業労働紹介所が神田駅ガード下にオープン。3月15日の株価暴落から始まる戦後不況により失業者増。特に本所深川方面の鉄工業の失業者の来所が多い。登録は3000人に及ぶ。中心人物の豊原又男は協調会のほか関西方面にも出張し求人企業を探す。

【百年ニュース】1920(大正9)6月24日(木)秩父宮雍仁親王(淳宮)が伊藤飛行機研究所(津田沼)に山県豊太郎(22)を訪問。突然の訪問だった。山県は当時日本最高の飛行士。日本の民間飛行家初の宙返りに成功。4月に東京大阪無着陸懸賞飛行に成功したばかりで知名度が高かった。

【百年ニュース】1920(大正9)7月3日(土)皇太子裕仁親王が初めて東京帝国大学を訪問。山川健次郎総長「各部長の説明を熱心に御聴取なされ十分ご見学遊ばされたように拝察する。殊に伝染病研究所から持ってきて陳列御覧に入れた食用蛙のオタマジャクシにお目を止められ、ご休憩中も渡瀬博士の説明に御肯首遊ばされ御感興深く‥」

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【百年ニュース】1920(大正9)6月21日(月)東京絹毛紡織(1917年3月設立,高橋虎太社長)の沼津工場(1919年12月操業)で騒動。早朝同工場は不況を理由に突如臨時休業。同時に従業員750名中400名の解雇を発表。午後給与支払を求める従業員350名が工場に押し掛け工場に投石、窓ガラスを破壊。警察が出動。

【百年ニュース】1920(大正9)6月30日(水)ウィンブルドン準決勝、清水善造(29)が米国のビル・チルデン(27)に善戦(4-6,4-6,11-13)。清水は三井物産社員で当時カルカッタ駐在員。長期休暇を利用し渡英、勝ち上がった。同年世界ランキング9位,翌年4位。1927選手生活を引退し三井物産社業生活に専念。

【百年ニュース】1920(大正9)6月27日(日)裕仁皇太子はこの頃頻繁にゴルフ。「27日日曜日午前10時御出門、新宿御苑にお成りになる。側近をお相手にゴルフ競技を行われるも、降雨のため途中にて中止される。午後は温室内を巡覧され、その後、御帰還になる。(昭和天皇実録)」

【百年ニュース】1920(大正9)6月18日(金)波多野敬直宮内大臣更迭。親籍降下ルールに関し皇族の反対を抑止できず。皇族会議以降も久邇宮邦彦王が「彼の準則は何も役に立たぬものなり。そのままに致し置けばそれにて宜し」と露骨に無視の態度。山県有朋が波多野に辞職要求。

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【百年ニュース】1920(大正9)6月19日(土)張作霖(東三省巡閲使)が奉天から北京に入る。安直両派の抗争調停のため。護衛は2個中隊(300名)に機関銃4門。日本が支持する安徽派(段祺瑞,徐樹錚)の北京政府に対し、欧米が支持する直隷派(曹錕,呉佩孚)が挑戦の意思を固め保定に集結。緊張が高まっていた。