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【百年ニュース】1920(大正9)10月25日(月) 大杉栄が上海に到着。鎌倉の自宅を密かに抜け出しコミンテルン極東主義者会議に出席。上海の一品香旅館に投宿。陳独秀(中国共産党初代書記長)の自宅で2,3日おきに会議を開く。極東責任者のヴォイチンスキーのほか呂運亨(韓国)らが集まる。無政府主義者の大杉は極東共産同盟に加わらず。

僕はひそかに上海へ行った。その時には,上海に着いてしまうまでは,僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で,夜遅く家を出たのであったが,その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし,それに往来から十分のぞかれる家でもあったので,尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて,幾度もききただして見た。そしてその後,その尾行の一人が僕にこんな話をした。「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる?と聞くと,うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って,こんどはパパさんいないの?と聞くと,やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら,またパパさんいる?と聞くと,やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは,パパさんいないの?いるの?と聞くと,うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」大杉栄『日本脱出記』

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上海へ着いた時には,あらかじめ電報を打って置いたのだから誰か迎えに来ていると思った。が誰も来ていない。仕方なしに僕は税関の前でしばらくうろうろしている間にしきりに勧められる馬車の中に腰を下ろした。(中略)翌日はロシア人のヴォイチンスキーや支那人の陳独秀や朝鮮人の呂運亨などの,こんどの会議に参加する六,七人の先生等がやって来た。そしてそれからはほとんど二,三日置きに陳独秀の家で会議を開いた。陳独秀は北京大学の教授だったのだが,あることで入獄させられようとして,ひそかに上海に逃げて来て,そこで『新青年』という社会主義雑誌を出していた,支那での共産主義の権威だった。呂運亨はその前年,例の古賀廉造の胆入りで日本へやって来て,大ぶ騒がしかった問題になったことのある男だ。そこに集まった各国同志の実情から見ても,朝鮮の同志ははっきりとした共産主義者ではなかった。ただ,単なる独立の不可能とまたその無駄とを感じて,社会主義でもいい,共産主義でもいい,また無政府主義でもいい。支那の同志は,陳独秀はすでに思想的には大ぶはっきりした共産主義者だったがまだ共産党のいわゆる「鉄の規律」の感情には染まっていなかった。そしてみんな,ロシアのヴォイチンスキーの,各国の運動の内部に関するいろんな細かいおせっかいに,多少の反感を持っていたのだった。

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呂運亨

グリゴリー・ヴォイチンスキー

この委員会の相談がきまると,ヴォイチンスキーは「少し内緒の話があるから二人きりで会いたい」と言って,僕を自分の家に誘った。その話というのは要するに金のことなのだ。運動をするのに金が要るなら出そう,そこで今どんな計画があり,またそのためにどれほど金が要るか,と言うのだ。僕はさしあたり大して計画はないが,週刊新聞(*労働運動)一つ出したいと思っている,それには一万円もあれば半年は支えて行けよう,そしてそのあとは何とかして自分等でやって行けよう,と答えた。その金はすぐ貰えることにきまった。が,その後また幾度も会っているうちに,ヴォイチンスキーは新聞の内容について例の細かいおせっかいを出しはじめた。僕には,このおせっかいが僕の持って生れた性質の上からも,また僕の主義の上からも,許すことができなかった。そして最後に僕は,前の会議の時にもそんなことならもう相談はよしてすぐ帰ると言ったように,金などは一文も貰いたくないと言った。もともと僕は金を貰いに来たのじゃない。ただ東洋各国の同志の連絡を謀りに来たのだ。それができさえすれば,各国は各国で勝手に運動をやる。日本は日本で,どこから金が来なくても,今までもすでに自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからだって同じことだ。条件がつくような金は一文も欲しくない。僕はそういう意味のことを,それまでお互いに話ししていた英語で,特に書いて彼に渡した。ヴォイチンスキーはそれで承知した。そしてなお,一般の運動の上で要る金があればいつでも送る,とも約束した。が,いよいよ僕が帰る時には,今少し都合が悪いからというので,金は二千円しか受取らなかった。大杉栄『日本脱出記』(青空文庫)

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