あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みなさんは独自の旅を楽しんでおります。長年やってきた「北海道ビューポイント」のWEBで人気のあるスポットを綴ってまいりたいと思います。

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最近の記事

北海道人のルーツ38 明治5年<永山 武四郎>

明治5年<永山 武四郎> 写真は札幌の「サツポロファクトリー」に隣接する武四郎邸宅内部です。 和様式の建物で、建物を見に来た黒田清隆は怒って帰ったという話が伝わっています。 1837年5月28日~明治37年(1904年)5月27日)没。 日本の陸軍軍人、華族。 天保8年鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じく鹿児島藩士の永山喜八郎の養子となります。 戊辰戦争に従軍し、維新後の明治4年7月陸軍大尉・2番大隊付に任命。 明治5年9月から開拓使に移り、北海道開拓使八等

    • 蝦夷の時代46 飛騨屋久兵衛

      蝦夷の産物は海産物だけではありませんでした。 蝦夷の檜(ひのき・エゾマツ)は江戸の材木商人にとっては宝の山だったのです。飛騨は、林業の歴史で江戸以前から木材の利権をめぐって、権力者との戦いがありました。 飛騨屋久兵衛の初代は1674に松前に渡り、1702年(元禄15)松前藩から蝦夷檜伐採の許可を得て、志利別(しりべつ)、沙流(さる・現平取)、久寿里(くすり・現釧路)、厚岸(あっけし)などの各山を開き、江戸へ積み出し巨利を得ていました。                   

      • 北海道の山めぐり38 太鼓山・厚沢部町

        太鼓山(たいこやま) 檜山郡厚沢部町にある標高171mの山です。 厚沢部町市街にあるため、山頂までおよそ30分と地元では古くから親しまれています。 何故太鼓山と名付けられたかというと、山頂で強めに足踏みしたり飛び跳ねたりすると、音が明らかに違って聞こえ「ドンドンと太鼓」をたたくかのような音が返ってくるからです。 下に空洞があるかのような鈍い音が鳴り、振動があって周囲の地面も揺れているように感じます。三脚を置いて飛び跳ねた動画を撮ると、カメラ自体の揺れも確認されるといいます

        • 観光客が行かない中川町の旅・後編

          斎藤茂吉来町記念歌碑ー中川町 1932年(昭和7年)、短歌の巨匠斎藤茂吉が、中川町志文内(現共和地区)で医師をしていた兄を訪ねました。 16年ぶりに三兄弟の絆を深めあった由縁と、茂吉の文学的史跡を1978(昭和53)年10月に斎藤茂吉来町記念歌碑として2基建立しました。 青々とおどろくばかり太き蕗が沢をうづめて生ひしげりたる さよなかと夜は過ぎつつ志文内の山のうへ照らす月のかげの清けさ 50歳の斎藤茂吉が中川村の志文内に兄の守谷富太郎を訪ねたのは、昭和7年8月で弟の高

          北海道のむかし話47 洞爺湖の神と中島

          洞爺湖(とうやこ)の神と中島(なかじま) むかし、松前の藩士に文武両道に通じた武士がおった。この武士には、二人の男と一人の女の子がおった。二人の男の子は武士の子として、剣道や学問を教えられたが、兄は何でも一度で覚えたが、弟は何度教えられても、何をやっても読み書きすらできなんだ。父親はある日、弟を呼び寄せていった。 「お前は、人一倍立派な身体をし、容姿もすぐれているのに、どうしてそんなに物覚えが悪いのか。お前のような者を家においておくことは、我家の恥になる」といって、大小の

          北海道のむかし話47 洞爺湖の神と中島

          北海道の岬めぐり38 アイカップ岬

          愛冠岬(アイカップみさき) アイカップという地名は、アイヌ語では大きな崖を意味するときに使うことが多く、部族間の戦いの際「運試しに矢を放っ たが届かなかった」ということに由来しています。愛冠岬は高さ80mの断崖です。 厚岸町の代表的な名所地で、厚岸湾に浮かぶ大黒島と筑紫恋海岸を一望できます。ただし、海霧漂うときなら(夏季は千島海流と暖流の日本海流の混流によって海霧が発生)幻想的で、その霧の中に鹿の群れが現れるので日常から大いにかけ離れた時間となります。 駐車場から遊歩道

          北海道の岬めぐり38 アイカップ岬

          北海道ゆかりの人たち 松前 慶広

          松前 慶広(まつまえ よしひろ) 1548年(天文17年)~1616年(元和2年) 享年69歳 武田信広から五代目で松前藩初代藩主となる。 幼少から腕力や胆力、戦略に優れ、人望も厚かった。 武田家を継ぐ者は、みな「広」が付けられています。 康正3年(1457)、首長コシャマインに率いられたアイヌ部族との戦いで活躍したのが武田信広で松前藩の始祖といわれています。 慶広は蛎崎李広(かきざきすえひろ)の第3子。幼名を新三郎、1582年(天正10)家督を相続しました。 安東氏か

          北海道ゆかりの人たち 松前 慶広

          北海道人のルーツ37 明治4年<札幌郡月寒(つきさっぷ)村開拓>吉田善太郎

          写真は旧吉田牧場(現:八紘学園牧場地)です。 北海道農業専門学校の敷地内ある札幌軟石で作られたサイロ。 さっぽろ・ふるさと文化百選および、都市景観重要建築物に選定されています。      吉田一族 吉田家は代々南部藩に仕える藩士(現:岩手県盛岡市)でしたが、明治4年の廃藩置県のため北海道開拓使の移民募集に応じて札幌郡月寒村(現:豊平区月寒中央通7丁目)に入植し木炭製造を始めます。 明治14年、善太郎は20歳で父を失い家業を継ぎます。 明治20年、開拓史から大谷地の地2

          北海道人のルーツ37 明治4年<札幌郡月寒(つきさっぷ)村開拓>吉田善太郎

          蝦夷の時代45 場所請負制

          1716年(享保元年)ころから場所請負制が盛んになります。 商場知行制のもとでは、藩や知行主は自ら船を仕立て、商場に交易に出かけなければなりません。 途中で嵐に遭って船が難破したりすると、一年の収入はなくなります。 しかも、その一年のために、知行主は商人から借金をしていることが多かったのです。また、うまくいっても商人との取引でごまかされることも少なくありませんでした。そんな危険と不利を冒してまで船を仕立てて苦労をするよりも、慣れた商人に委託して、利益の中から毎年一定の運上金(

          北海道の山めぐり37 尖山・知内町

          尖山(とんがりやま) 知内町小谷石地区にある標高360.7mの山です。 知内山地の突端に位置し津軽海峡に落ち込んでいます。  遠くから見ると尖がって見えるところから付けられた名前なのでしょう。

          北海道の山めぐり37 尖山・知内町

          観光客が行かない中川町の旅・前編

          なかがわ名の由来は中川郡の郡名から。 上川総合振興局の最北部に位置します。 因みに最南端は占冠村です。 明治29年ごろ北村恭助がペンケシップ川のほとりに住んでいたとされており、これが和人の最初とされています。 北村は明治40年にアベシナイ駅逓が開設された際に取扱人になりました。 松浦武四郎の天塩日誌に 「安政4年(1858)6月7日、松浦武四郎は土人3人をつれて、丸木船で天塩川を遡り、10日夜アベシナイに泊まった。宿泊地はペンケシップ川の川口、アイヌ部落付近であった」

          観光客が行かない中川町の旅・前編

          北海道のむかし話46 石狩の地名伝説

          石狩の地名伝説 地名には、いろいろと伝説があり生まれ、伝説となり地名になっていった。 昔、海で一番力の強いのがラードシカムイ(尾の沢山ある神様)蛸であった。 地上で一番強いものは、片翼が七里もある巨鳥フリーであった。 この両雄はお互いに力自慢し反目し合っていたが、ある日石狩川でたまたま出合った。 巨鳥フリーは、大きな翼を打ち振って嵐のような波風を起こし、鋭い嘴で蛸を襲った。 蛸はランランと目をむき墨を吐いて身構えた。フリーの鋭い嘴が蛸の一本の足に最初の一撃を加え一気に陸へ

          北海道のむかし話46 石狩の地名伝説

          北海道の岬めぐり37 アイニンカップ岬

          アイニンカップ岬 厚岸湖を取り囲むように、厚岸湾に突き出した半島があります。 この半島の先端に18世紀末江戸から和人の探検家が訪れていました。 国道44号にある道の駅から、この半島には今は橋が架けられているので便利になりました。かつては、渡し船で渡るか厚岸湾をぐるりと陸続きで回るしかありませんでした。 アイニンカップ岬の先にアイカップ岬があるので間違えないことです。 チンベノ鼻から道道123号を走ると、どんどん内陸に入ってくるので海は見えなくなります。従って、アイニンカ

          北海道の岬めぐり37 アイニンカップ岬

          北海道ゆかりの人たち Edwin Dunエドウィン・ダン  

          1848年(嘉永元年)7月19日- 1931年(昭和6年)5月15日 明治期のお雇い外国人。 開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献しました。 アメリカ合衆国オハイオ州チリコージー出身。 オハイオ州マイアミ州マイアミ大学卒業。 1883年、勲五等双光旭日章を受章。息子のジェームス・ダン(壇治衛)は音楽家。長男の妻・ダン道子も音楽家。 マイアミ大学を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学びました。 ホ

          北海道ゆかりの人たち Edwin Dunエドウィン・ダン  

          北海道人のルーツ36 ホーレス・ケプロン

          明治3年 <ホーレス・ケプロン> 1804年8月31日 – 1885年2月22日没 アメリカ合衆国の軍人、政治家。お雇い外国人の1人。 マサチューセッツ州の豪農の家に生まれ南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となりました。 明治3年(1871年)渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。 開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となり、1875年5月帰国。 日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進しました。 札幌農学校開学までのお

          北海道人のルーツ36 ホーレス・ケプロン

          蝦夷の時代44 両浜組

          近江商人の両浜組は、松前藩と密接な関係をもって活動していました。 寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いで動揺する松前藩に対して、近江から急便をもって見舞状が寄せられます。 それに対して、藩政の実権を握っていた家老の蠣崎蔵人が、自ら筆をとって返書を出しているのです。 両浜組との関係は、家老が自ら対応する重要なものだったのでしょう。 両浜組は藩への直接の出金で重要な役割を果たしていました。 天明元(1781)年、両浜組が藩への貸付金の記録があります。 1730年ころまでは