あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みな…

あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みなさんは独自の旅を楽しんでおります。長年やってきた「北海道ビューポイント」のWEBで人気のあるスポットを綴ってまいりたいと思います。

最近の記事

蝦夷の時代26 シャクシャインの戦い1

写真は北海道博物館の展示品です (オムシャの様子) ハエクル(オニビシ方)のアイヌは、松前藩に武器の援助を要請しますが、藩はアイヌ内部の問題として拒否します。 オニビシが亡くなって一年目、オニビシの姉婿にあたるウタフが再度武器援助の要請に訪れますが拒否され、帰途関所近くの野田追(現在の八雲町)で疱瘡の病で死亡してしまいました。 このウタフの死去の報は、アイヌ人たちに松前藩による毒殺だとして伝えられたのです。この誤報を契機に、両集団の紛争は、全く新たな方向に展開されることに

    • 北海道の山めぐり18 暑寒別岳

      暑寒別岳(しょかんべつだけ) 暑寒別岳は、増毛町、北竜町、雨竜町、新十津川町にまたがる標高1,492mの山です。 山名の由来はアイヌ語でソー・カ・アン・ペツ(滝の上にある川)を意味します。 冬の季節風が厳しいため積雪が多く、初夏でも残雪が多いのが特徴です。 暑寒別天売焼尻国定公園に指定されており、100ヘクタールもの広大な湿原が広がる”北海道の尾瀬”で、固有種のマシケゲンゲをはじめたくさんの高山植物があるため登山家に人気の山です。 増毛を訪れて最古の木造校舎旧増毛小

      • 観光客が行かない千歳市の旅・前編

        千歳(ちとせ)は、アイヌ語で「大きなくぼみ」という意味の「シコツ」と呼ばれていました。 1805年、箱館奉行所が「死骨」に通じるシコツを廃し、 当時多くの鶴が空を舞い、川辺は鶴の生息地となっていたことから「鶴は千年、亀は万年」の故事にちなみ「千歳」と命名されました。 蝦夷の時代はシコツ場所と呼ばれ、千歳川にサケが上がり、アイヌには恵まれた地でしたが、和人が入り込むと、この地は太平洋から日本海に抜ける交通の要衝となりました。 サケの千石場所として、4ケ所の番屋を置きアイヌ人

        • 北海道のむかし話27 然別湖の主

          然別湖(しかりべつこ)の主 然別湖は十勝の鹿追町にあります。 昔、この土地に住む狩人が大熊を見つけ追って行くと、熊は湖に飛び込んで泳いでいった。 仕方なく、ぼんやりと見ていると、湖の中ほどまで泳いでいった熊が、急にあばれたかと思うとブクブクと沈んでいった。 不思議に思い舟を出して見に行くと、大きなイトウが大熊の片手を口から出して死んでおった。 イトウの大きさは60メートルもあったという。 このイトウは然別湖の主であると古老が伝えている。 更科源蔵 アイヌ伝説より

        蝦夷の時代26 シャクシャインの戦い1

          北海道の岬めぐり18 プュニ岬

          プュニ岬 私はこの岬のことを知りませんでした。羅臼町から知床峠を超えて知床自然センターを横目で見ながら下って来たときに、前方に絶景の景色が現れました。 辺りを見回すと駐車場がありません。一瞬躊躇しましたが少し道幅のある所に車を停めて、しばし風景を楽しみました。旅はこんなことがあるので止められません。 オホーツクの美しい海岸線、亀のように見えるチャシコツ崎、ウトロ港、ゴジラ岩、オロンコ岩なども見えます。 ここはどこなのかと見渡すと、小さなプレートがあり「プュニ岬」と書いて

          北海道の岬めぐり18 プュニ岬

          北海道ゆかりの人たち 米村 喜男衛

          米村 喜男衛(よねむら きよえ) 1892年(明治25年) – 1981年(昭和56年) 青森生まれ 郷土史家・考古学研究者 モヨロ貝塚博物館初代館長。 私は縄文時代の土器に興味はありません。 しかし、網走の「モヨロ貝塚」だけは気になっていました。 司馬遼太郎は『5世紀から10世紀にかけて縄文でも弥生でもない、異質な文化を持った民族がオホーツクに住んでいた。ところが、この民族は突然消えてしまった』と謎めいたことを語っていたからです。 博物館を訪れる前に、地元の人たち

          北海道ゆかりの人たち 米村 喜男衛

          北海道人のルーツ17 分領支配制度

          新政府は明治元年4月に箱館裁判所(後の箱館府)を置きましたが、箱館戦争の終結後、明治2年8月にこれを廃止し、新たに開拓使を設置しました。 これが明治15年2月までの北海道開拓の中心となります。 開拓使では明治2年9月に、第一回募移民として東京府から約500人の浮浪者を樺太・宗谷・根室に入植させます。 彼らには渡航費のみならず家屋、3年間にわたる食糧・開墾料の扶助が与えられましたが、気候・土壌が悪かったことも重なって扶助期間が過ぎると離散してしまいます。 しかし、分領支配制

          北海道人のルーツ17 分領支配制度

          蝦夷の時代25 シャクシャイン法要祭

          毎年9月23日に、新ひだか町(旧静内町)にある真歌の丘(真歌公園)にアイヌの人たちが集まり、伝統行事や供養祭が行われています。 平成18年(2006)まで、日高支庁管内に設置されていた静内町は、三石町との合併で日高郡新ひだか町静内となっています。 静内は、北海道の内陸が開ける明治中期までは、道東に行く沿岸の道筋で、東の文化と西の文化の接点でした。 この接点に静内川が流れています。国道235号線で、この川の静内橋を渡り、すぐ左折して坂を登っていくとアイヌの英傑シャクシャイン像

          蝦夷の時代25 シャクシャイン法要祭

          北海道の山めぐり17 早月山

          早月山(はやつきやま) 洞爺湖北側の丘陵地にある標高629mの山です。 丘陵地帯にある山のため青少年の研修の場としても利用されているようです。何せ眼下には洞爺湖があり、見わたすと360度が有珠山・昭和新山、羊蹄山と続く山々を眺められる絶景の山です。 サイトを見ていると面白い推測をされている方がおりました。 山の名「早月」についてです。 財田は「キャンプ場」で知られている洞爺湖湖畔にあります。

          観光客が行かない津別の旅・後篇

          林業と農業が基幹産業 林業は合板、木材、木工芸品の制作が盛んな町です。 農業は畑作が中心でタマネギ・小麦・ビート等で、寒暖の差を活かしたメロンは糖度の高さを誇っています。 ケミチップ湖畔 津別の町は86%は森林が占めており、森林セラピー基地に認定されています。 ケミチップ湖畔には野鳥公園・樹林園が設置され、キャンプ場やホテルを備え、湖の南岸端から約200mのところに鹿鳴の滝があります。 また、21世紀の森にもキャンプ場・スポーツ施設・研修施設が整備されており、木材工芸館

          観光客が行かない津別の旅・後篇

          北海道のむかし話26 戸をたたく亡霊

            戸をたたく亡霊 -夕張市ー 大正時代のことです。 夕張市のある小学校で、新学期が始まって、ひとりの若い先生が来ました。 朝、校長先生が運動場でみんなに紹介した後、五年生の教室に案内しました。受け持ちが五年生だったからです。 校長先生は、五年生の教室で紹介すると、 「先生の名前は桑島といいます。みんなと一緒に勉強することになったけど、頑張ってやろうな」 と、若い先生が言うと、子どもたちはみんな、こくりと頭を下げました。 こうして、桑島先生と子どもたちの生活が始まり

          北海道のむかし話26 戸をたたく亡霊

          北海道の岬めぐり17 宇登呂崎

          宇登呂崎(うとろみさき) 知床国立公園にある世界自然遺産・知床半島の温泉街が宇登呂(ウトロ)です。 ウトロ崎は国道334号から左折して、知床観光船の乗り場に向かって突き当りにあります。知床を訪れる人たちは、まず知床五湖を目指しますがここを見てからでも遅くはありません。 観光船に乗船するためには、右手にゴジラ岩を見てトンネルを通ります。 このトンネルはオロンコ岩をくりぬいた「オロンコ隧道」で高さ約60mの巨岩です。ウトロのランドマークにもなっています。 この巨岩には先住民

          北海道の岬めぐり17 宇登呂崎

          北海道ゆかりの人たち 永倉新八

          トップの写真は札幌の厚別区にある「北海道博物館(旧北海道開拓記念館)」で、新選組幹部であった永倉新八に関する資料が展示されていた時もので実物です。 永倉新八(ながくら しんぱち) 天保10年(1839)江戸生まれ、大正4年(1915)に没す 最後の剣士 新選組は会津藩が雇用した臨時の警察官です。 幹部は13名でしたが、生き残ったのは二番隊組長の永倉新八だけです。 永倉は、近藤・土方、一番隊長沖田総司と双璧の剣の使い手で四天王の一人です。 京を追われ近藤勇とは甲府の戦

          北海道ゆかりの人たち 永倉新八

          北海道人のルーツ16 北海道分領支配制度

          明治2年 <北海道分領支配制度> 北海道全土にわたって開拓を推し進めるには、開拓使だけでは到底できるものではありませんでした。 新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることにしました。 太政官は明治2年7月22日に分領を出願制としますが、藩で出願したのは15藩。強制的に命じられたのは9藩でした。 分領支配の条件は藩にとって財政負担が大きく政府の介入がありました。        1.支配地の指定、変更な

          北海道人のルーツ16 北海道分領支配制度

          蝦夷の時代24 アイヌ民族蜂起の背景

          写真はシャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園入口です。新ひだか町静内の市街地から静内川を渡るとすぐ左に上がる道があります。 砂金と鷹待 松前藩は、本州の藩のような米高がなく米を本州の商人から入手していました。 米・酒・煙草・鉄製品・古着・漆器などを藩主の商場に行き、アイヌ側の干鮭・熊胆・鹿皮・オットセイなどと交換し、その物品を松前で本州商人に売却して利益を得ていたのです。 蝦夷地に和人地のエリアがありましたが砂金と鷹だけは別物でした。 特に鷹の売り代

          蝦夷の時代24 アイヌ民族蜂起の背景

          北海道の山めぐり16 狩場山

          狩場山(かりばやま) 狩場山は道南地方の最高峰1520.2mの山です。 フモンナイ岳、東狩場山、前山、オコッナイ岳など標高1000mを越える山々の頂点に聳え、東にメップ岳、カスペ岳、カニカン岳、長万部岳、太平山などを従えて雄大です。 アイヌ語のカリンバ・ウシ・ヌプリ(桜・群生する・山)が由来になっています。かつては桜が多かったのでしょう。松浦武四郎の「西蝦夷日誌」(863年)に「カリバは桜の事なり」とあります。 積雪量が豊富で、千走川(ちはせがわ)や須築川(すっきかわ)