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美術史第80章『漢代美術-中国美術7-』


陳勝・呉広の乱

  紀元前3世紀末期、巨大な領土を全て統一した上に全ての権力を中央に集中させた秦の始皇帝が死去すると世話役の宦官だった趙高が有能な後継者の扶蘇などの王子や臣下、血縁者の数万人を殺害し、無能な皇帝として胡亥を擁立、実質全権力を握り暴政を行なったが、翌年には農民による「陳勝・呉広の乱」が発生してこれが各地に飛び火する形で秦は戦火に陥いった。

項羽
劉邦

 秦の将軍の章邯が反乱指導者の陳勝と項梁に勝利していったものの、項梁の甥の項羽が指導者として現れると章邯は死亡し、さらに一般人出身の侠客から出た別の反乱指導者の劉邦が首都の咸陽を占領した。

 皇帝胡亥を自殺に追い込んだ趙高により皇帝にされていた子嬰が劉邦に降伏して秦王朝は15年の短い統一王朝の歴史を終え、また700年の間、諸侯国として続いてきた秦国もここで滅亡、その後、劉邦に合流した項羽は咸陽や阿房宮を破壊し子嬰を殺した。

楚漢戦争

 その後には項羽が楚国として中華の覇者となったが、武将への領土分配の不公平さから反乱が多発することとなり、当時はまだ未開の地だった漢中(陝西省南部)と巴蜀(四川省)の領主に左遷されていた劉邦も反乱して「楚漢戦争」を繰り広げ、当初は項羽が有利に進んでいった。

前漢の領土

 しかし、その後、韓信、張良、蕭何などの家臣の活躍により劉邦が盛り返し、垓下の戦いにて項羽は約30歳にして自害、劉邦が覇権を握り家臣の後押して皇帝となったことで「漢王朝」が誕生、劉邦は首都を長安に定め、中央政府が治める地域と諸侯が治める地域が並立する体制を作った。

中国人の分布
漢字の分布図

 漢王朝の時代に生まれた多くの制度や文化、思想は後の中国のあらゆる分野での基本となり、その文字は漢字、民族は漢民族と呼ばれることからもわかるだろうが、これは美術も同じで、いわゆる中国美術が形成されていくのは漢の時代であったとされる。

武帝

 紀元前2世紀中頃、諸侯が反旗を翻し内乱が発生するが鎮圧、結果、中央の皇帝の権力が増大し、7代皇帝の武帝は北方遊牧民の超大国で以前から漢より立場が上だった匈奴を攻撃し現在のウイグル自治区を奪って西洋と直接貿易を行うための「シルクロード」が誕生した。

董仲舒

 これ以降、西洋美術の作品が多く中国に入るようになり、さらに武帝は朝鮮半島北部やベトナムも征服、これらの地域も中華文化圏に吸収、内政では董仲舒の影響で儒家を統治の基本とし、これ以降、中華王朝は儒教国家となっている。

満城漢墓の遺物
金縷玉衣

 この時期の残っている墓の中で最も位の高かった王子の劉勝の「満城漢墓」からは金銀などを用いた精密な鋳造技術と象嵌技術を駆使した美術品、そして「金縷玉衣」という翡翠の板を純金で繋いで遺体を覆った装飾などが発見されている。

馬王堆帛書
棺桶
帛画
絹織物
漆器

 非常に重要な文書の「馬王堆帛書」が見つかったこの時代で最も保存状態が良かった墓でほぼ生きていた頃の状態のミイラが発見された事で世界的に知られる「馬王堆漢墓」では先述の通り絵や書がほぼ完全な状態で見つかっているのに加え、それぞれの棺に漆絵、雲気文とその間で蛇を弄ぶ仙人たち、鮮やかな竜や虎などが、垂れ幕のようなものには伝説の生物や神、場面が描かれていた。

霍去病の像
霍去病の墓の石像

 また、漢の時代には殷の時代からの竪穴式の墓は衰退、横穴式で墓室内を死後の生活の場、つまり宮殿を再現し日用品を揃え、壁には生前の生活の絵画が描かれるようになっており、漢代の彫刻の分野では武帝に支え匈奴帝国への征服を行った将軍の霍去病の墓に存在する様々な動物を象った大きな石像が有名である。

王莽

 しかし、前1世紀には元帝の儒教重視で儒家が伸長し政治が混乱、それ以降、宦官や外戚が増長し、宣帝の外戚として徴用された政治家の王莽の帝位簒奪によって漢王朝は一時的に滅亡、新王朝が成立し、そこでは徹底的な儒教重視、相次ぐ新しい貨幣の鋳造、地名や官名の無意味な大量変更の連続など理想主義的な意味不明な統治をおこなった事で社会は混乱し弱体化した。

劉秀
後漢
女神西王母が描かれた画像石

 新では領主の反乱も頻発し、最終的に漢の復興を目指す「赤眉軍」に滅ぼされ、同じく漢の復興を目指す「緑林軍」の漢皇族の分家の劉秀が中華統一を行い、漢が復興、洛陽を新たな首都として、以降は「後漢」と呼ばれる王朝の時代に入り、後漢時代の中原の墓では建築用の石材の表面に線や像を刻み物語、伝説、神話、生活を描いた「画像石」が盛んに作られた。

方格規矩鏡
内行花文鏡

 後漢時代の墓の副葬品では陶俑、つまり人間を象って様々な材質で作られた豆像が大量に置かれる事が多くなり、これは現在では出生地による細かな分類もなされ、春秋戦国時代から存在した遺体の周辺に置かれる銅鏡も背面の模様がより装飾的となり、「四神鏡」、「内行花文鏡」、「方格規矩鏡」などの型が誕生した。

黄巾の乱
董卓

 劉秀もとい光武帝に復興された後漢は次の明帝の時代に全盛期を迎え、その後は幼く自ら統治ができない皇帝が続いたため、妃の親戚である外戚が権力を掌握、その後は男性器を取られた役人、宦官が外戚を排除して増長、国は腐敗、民衆による反乱も頻発し、1世紀後期には張角を指導者に「黄巾の乱」が発生、これは全国に飛び火し宦官は死亡、軍人の董卓が首都洛陽を占拠し皇帝を殺害して権力を握るが、反発が起き各地が独立していき三国時代へと入っていく。


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