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シルクロードの歴史18『シルクロードと宗教-ゾロアスター教とマニ教編-』

*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。


1. マニ教とシルクロード


 マニ教は3世紀頃のゾロアスター教が主流のパルティア時代のイランの「グノーシス主義」のキリスト教を信仰する家庭に生まれた思想家マニによって創始された宗教で、地域土着のゾロアスター教の明暗(善悪)の二元論のような教えを持ち、悪からの救済を重視したとされる。

マニ

 サーサーン朝がパルティアを滅ぼして取って代わるとマニは宮廷に保護され、サーサーン朝支配下の広い地域で布教を行い、マニ教は北アフリカやヨーロッパにまで拡大、本国のペルシアがイスラム教の支配下になってもマニ教が迫害を受けることはなかったものの、アッバース革命が発生したウマイヤ朝が滅亡、アッバース朝の支配が始まると突然迫害され滅ぼされ、多くの信者が中央アジアに逃亡することとなった。

テオドシウス帝と聖アンブロジウス

 また、マニ教は情勢不安状態のローマ帝国内でキリスト教とともに拡大していたが4世紀に皇帝テオドシウスによって発布されたキリスト教のみを認めるという法令により滅ぼされることとなり、中央アジアに移ったマニ教はその後、シルクロードを支配していた唐に明教として伝来、広まって繁栄するが「会昌の廃仏」でほぼ消滅した。

会昌の廃仏を行った武宗

 しかしマニ教の場合はモンゴル高原を支配していた「回鶻(ウイグル)可汗国」がマニ教を国教としていたため、しばらくは近くに残り、モンゴルが「元朝」として中国を支配すると明教ことマニ教が復活、その後、仏教とマニ教が混合した集団である「白蓮教」の信者によって「紅巾の乱」が発生し元は中国から撤退、反乱の首謀者であった朱元璋(しゅ・げんしょう)が新しく建てた国を明王朝と命名したのはマニ教を意味する「明教」からとったともされる。

朱元璋

 しかし、14世紀以降は中国でも再び危険勢力として迫害され、マニ教国家である回鶻が存在したモンゴル高原やタリム盆地などでは完全に中東由来のイスラム教が広まり消滅していった。

マニ教に改宗した回鶻の牟羽可汗

2. ゾロアスター教とシルクロード


ザラシュトラの絵

 ゾロアスター教はザラシュトラという宗教家を始祖とする古代のイラン系諸民族の宗教の一派で、アフラマズダという神を中心としており、イラン系民族による「メディア王国」から独立しオリエント世界を統一した「アケメネス朝ペルシア帝国」の中で広まり、しばらく後のサーサーン朝ペルシアでは国の宗教とされ、「アヴェスター」という聖典も作られた。

パールスィー系インド人出身の音楽家フレディ・マーキュリー

 しかし、7世紀にイスラム勢力の支配下に入ると徐々に衰退していき現在ではヤズドというゾロアスター教の中心地だった地域の周辺に3万から6万人、10世紀頃にインドのグジャラート地方に移住した「パールスィー」と呼ばれるゾロアスター教徒が7・5万人ほど分布しているという状況になっている。

南北朝時代の中国のソグド人

 また、シルクロード貿易を担った「ソグド人」達の多くは古いゾロアスター教に少しヒンドゥー教の混ざった宗教を信仰しており、これにより南北朝時代の5世紀から6世紀頃の中国にソグド人やペルシア人がシルクロードを通して移住するとともに「祆教」として広まった。

 これにより、ゾロアスター教は恐らく現在存在するゾロアスター教信者よりずっと多くの信者を抱えるようになった事で、「薩宝」というゾロアスター教の司教のようなものが、南北朝時代を統一した隋や唐の時代に正式な国の官職であるとされる地位を確立した。

咸陽にあるペーローズ像

 7世紀にはゾロアスター教の本拠地のサーサーン朝がイスラム勢力に制圧され、ペーローズ3世らサーサーン朝の王家やそれに従ったペルシア国民が多く中国に移住してきた事でさらに信者が増えたが、会昌の廃仏により衰退した。

 しかし衰退はしたものの14世紀頃までは記録があるようで、現在でも一部の村やイスラム教徒の習慣などに受け継がれていると書かれた文献もあったが具体的な話は不明であり、また、中央アジアでもマニ教と同様にイスラム教の布教が進んだ事で消滅したようである。

お水取り

 ちなみに余談だが「東大寺二月堂」で行われる懺悔の儀式、「お水取り」はゾロアスター教との関係が唱えられていたことがあるが立証はされておらず、言わずもがなデマである。

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