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音楽史3『古代キリスト教音楽』

 古代西洋音楽には先述した古代ギリシア音楽以外にも各地の音楽があったわけだが、他には楽器以外は何も残っておらずその詳しい話は不明である。

 そのため、イタリアの都市として誕生してカルタゴやマケドニアを滅ぼして古代ギリシア文明などのバルカン、現在のスペイン、フランス、ドイツ、イギリス、トルコ、エジプト、北アフリカ、中東を支配した古代ローマの音楽もその規模や記録の豊富さ、そして、後世への影響にも関わらず残っていない。

イエス(右)

 紀元後1世紀、当時の古代ローマのシリア属州のさらに属国だったユダヤ王国の首都エルサレムで、現地で古くから信仰されてきたユダヤ教から分裂して、その教団の教祖であるユダヤ教神学者ナザレのイエスのことが詳しく書かれた『新約聖書』を聖典とする原始キリスト教が弟子のペテロやヨハネなどによって誕生した。

エルサレム神殿の創造図

 彼らの死後に発生したユダヤ戦争でエルサレム神殿が破壊された頃にはキリスト教は完全に自立、辺境国の宗教の一教団から誕生したキリスト教という宗教は、分裂期にあり民衆が苦しい生活を送っていた広大な古代ローマ全土と周辺国に広まっていった。

コンスタンティヌス大帝

 4世紀にはコンスタンティヌス帝によって国公認の最初の公会議が開催され、その後のテオドシウス帝がキリスト教を国教に制定、5世紀にはヒエロニムスによる聖書の翻訳書「ウルガータ」やアウグスティヌスによる「神の国」が書かれ、何度かの公会議で異端が決められ教義が定まり始めた。

最後の晩餐

 ユダヤ教から生まれた初期キリスト教の音楽については不明で新約聖書には最後の晩餐の後にイエス達が歌うシーンも存在するためそのようなユダヤ教の聖歌が歌われていた可能性が高いが諸説がある。

オクシリンコス・パピルス

 現存する最古のキリスト教音楽はキリスト教がローマに承認されるより少し前の3世紀頃に書かれたエジプトから発見された「オクシリンコス・パピルス」に乗っているもので、これにはギリシアの記譜法が使われており、ギリシア語は当時の中東の共通語で新約聖書もギリシア語で書かれている。

ビザンティン聖歌

 この3〜5世紀には「教会音楽」が各地方で作られ始め、東方の教会ではアルメニア王国のアルメニア聖歌、シリア属州のシリア聖歌、エジプト属州のエジプト聖歌、アクスム王国のエチオピア聖歌、ギリシアのビザンティン聖歌などがそれぞれ誕生、この時に作られたキリスト教聖歌は現在でも歌われ続けているものの、その後にイスラム圏に入ったこともあって完全に形をとどめている訳でないないと推測される。

詩篇の多くの作者とされるイスラエル王ダヴィデ

 また、3世紀末にはキリスト教世界でキリスト教の教えに基づいて町での便利な生活から離れて修道院を作ってそこで共同生活をするという運動が流行していて、その修道院の中で一日に何度も行われる祈りの際には、ユダヤ教からの聖典『旧約聖書』の一部である神を讃えた讃歌を集めた『詩篇』を全て順番に歌う「詩篇唱」の習慣が誕生した。

 その後、朝夕2回の詩篇唱を行う「聖務日課」が当時、キリスト教の中心地だったエジプトから広まり、さらに詩篇唱は修道院だけでなく司教が居る聖堂でも修道女を招いて行われ、6世紀までに1日8回詩篇唱を行う時課が定められると修道女達が詩篇唱を行い、男性の聖職者が祈祷を行うという分業がなされ始めた。

 当時、修道女達は詩篇唱を行っていたものの一般民衆はというと平日にはただそれを聴き、安息日である日曜日には共に歌った場合もあったとされ、次第に外で歌われた素朴だった歌は、聖堂の中で歌われる美しい旋律を持った音楽へと変貌し詩篇唱は単に宗教的な儀式ではなくなっていき、大きく広まっていくこととなった。

 また、初期のキリスト教集会では宗教的でない会食の席でも音楽が行われ、詩篇唱も楽器で伴奏を行う世俗音楽と区別して伴奏を無くして聖体拝領と共に会食の場で一緒に行われた。

バッハ

 4世紀にはオルガン伴奏や聖歌隊などの指揮を務める「カントル」という音楽家の聖職者役職が確立され、その後、バッハなどがこのカントルとして登場することとなり、ユダヤ王国が消え各地に散っていたユダヤ教でも「ハッザーン」という音楽聖職者が設置された。

古代ローマの道路

 古代ローマの時代の初期キリスト教では全ローマの境界での公会議が行われるなどしており、優れた交通網による情報伝達も可能であったため、典礼の方法や聖歌などがある程度どの地域も同じようになっていた。

 しかし、古代ローマが東と西の政権に分割して統一した一つの国として機能しなくなっていくにつれて、カトリックや正教会といった様々な派閥が分かれキリスト教は分裂していき典礼や聖歌も各地でまちまちになっていった。

 西方ではガリア聖歌やモサラベ聖歌、ミラノ聖歌、ローマ聖歌などが分立していったがカール大帝が西欧を統一しローマ大司教(教皇)が組んだことでカトリックが広まると西欧は「グレゴリオ聖歌」に統一された一方、東方の正教会ではそのまま各地のものが残っていった。

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