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音楽史2『古代ギリシア音楽』
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現在の音楽の理論や楽器の基礎となっているのは西洋、つまりヨーロッパの音楽で、さらに西洋音楽の基礎は記録が余り残っていない6世紀以前の古代西洋音楽、特にその中では記録が多く残っている「古代ギリシア音楽」の中で作られた理論であり、これは他の数学や哲学、彫刻、絵画などあらゆる西洋の学問と芸術と同じであるといえる。
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実際、ドーリアやイオニア、フリュギアなど古代ギリシアや周辺の地名を冠した音階名や、音楽理論系の単語の多くはギリシア由来で、何よりも英語の"Music"という単語はギリシアの女神「ムーサ」が音楽を意味するμουσική(ムーシカ)となり、それが後世のローマのラテン語に伝わって、ラテン語が徐々に訛ってフランス語となった時にmusique(ミュージック)となったという経緯があるギリシア語由来の言葉である。
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世界で最も重要な学者の一人とされる凡ゆる事象は数の法則に従うという思想を持ちカルト的な数学集団「ピタゴラス教団」を組織した「ピタゴラス」とその弟子たちは音楽と数学は宇宙の秩序に通ずるとして音の仕組みや倍音の仕組みなどを「天球の音楽(Musica universalis)」として研究、彼らは音楽の研究というより数学や哲学の探究を行ったと言えるものの、そこで「ピタゴラス音律」というルネサンス以前の音楽の基礎理論を生み出した。
ちなみに、西洋音楽の基礎を作った非常に古い古代ギリシア音楽だが、完全な形で残っている最古の楽譜は「セイキロスの墓碑銘」という墓石に刻まれた曲である。
また、古代ギリシアにおいて詩の朗読や演劇の際に音楽が演奏されたことからアナクレオンやサッポー、シモニデス、バッキュリデス、ヒッパソス、ピンダロスなど音楽と関連する劇作家や詩人によっても音楽研究は行われていた可能性があり、文学と音楽は同じ括りで見られていたと言える。
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古代ギリシアでは竪琴のキタラやリラ、縦笛のアウロスやパンパイプ、そして水の入った弦楽器ヒュドラウリスなどが使われていて、前8世紀にポリスが発展した頃、貴族社会の下でホメロスやヘシオドスなどの叙事詩人が現れ、ここではフォルミンクスという小型のキタラが使用され、前7世紀以降にアウロスが一般化した。
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また、前7世紀以降には宗教的な儀式の中で行われていた音楽は、その儀式がイベント化していくにつれてキタラの讃歌を競うキタロディアなども生まれ、美的・音楽的という基準を確立していき、また、独裁的な「僭主」による政治が横行したことでサッフォーやピンダロスは支援を受けて活躍することができた。
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さらにアテナイなどで大規模なギリシア全土を巻き込む祭りが開催されるようになったことで悲劇・喜劇が爆発的に発展、劇に歌を伴うという方法がオペラのモデルとされ、悲劇にはコロスという合唱団も付随しており、そのようなアテナイなどで行われたパンテナイア祭やディオニューシア祭、ピューティア大祭、古代オリンピックなどでは当時、すでにディオニューソス神の祭事で欠かせないものになっていたアウロスや7弦キタラなどが演奏された。
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特に記録はないがここで、音楽の技法などは非常に発展したと推測でき、前6〜5世紀の非常に著名な叙情詩人のアナクレオンやシモニデス、バッキュリデス、ピンダロス、数学者のヒッパソスなども音楽家であったようである。
しかし、前5世紀に独裁政治が終わって民主化が進み芸術も世俗化、結果、様々な専門家と「芸術論」が生まれ、キタラの弦は多くなり、キタラ伴奏曲とアウロス伴奏曲の境界が曖昧化、名目上の祭りの神とは関係ないものも上演され始めた。
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前5世紀には今までの古代ギリシア音楽の伝統が消えていった一方で、音楽が「鑑賞の対象」となっていったといえ、この時代の問答法、無知の知などを唱え正義を追求し西洋哲学の元祖の一人「プラトン」、プラトンの弟子で論理学、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学、倫理学、政治学などを体系化し近世初期まで西洋学問の基礎となっていた「アリストテレス」ら哲学者は音楽をやや規制するべきだと説いている。
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ここから、プラトンやアリストテレスの時代の音楽に対する論理が様々であったことがわかり、例えばプラトンは音律の理論を支持し、アリストテレスの弟子の「アリストクセノス」は『ハルモニア原論』などでそれを考慮せずよく聞こえる音楽を支持していた。
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アリストクセノスの考えはプラトンが記述している音楽に神秘的なものを見出して、旋法にドーリアなど各地の民族の気質に因んだ名前をつけて理論化するなどしていた緻密で思想的な音楽とは反する。
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しかし、その後に「マケドニア」がギリシア諸国を統一し中東からインドの一部までを支配、アレクサンドロス大王の死後に各地にギリシア人の国家が建つ「ヘレニズム時代」になるとアテナイなどのポリスというもの自体が消滅し、エジプトやシリアなどに人々が流出していき、音楽の発展は一旦終わった。
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