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神仏分離令に伴う修験寺院の財産保護活動
修験寺院の研究を投稿してきたが、明治元年(1868)には明治政府より神仏習合社会の転換を図る神仏分離令が出された。また、同5年(1872)には修験道禁止令が出され全国の山伏は還俗して神官になるか、寺院を廃絶して帰農するかの選択を迫られた。修験寺院の所蔵文書では都道府県知事から改めて、寺院財産、神官に就く旨の書類を提出して認証を受けたものも含まれる。これら2つの法令でより問題になったのが廃仏毀釈で寺
もっとみる修験寺院の通称・呼称について
第1回の投稿で本山派修験寺院大徳院、第2回は、本山派修験寺院宝積坊の活動・寺院運営を検討した。
いずれも京都の本山派総本山聖護院を頂点する修験寺院である。住職が寺院名を称する、山伏の装束を着用、年行事職・僧位など地位を明示するためには、全て聖護院から補任・免許を受けるの必須になる。
山伏の装束着用・年行事職・僧位などの地位に関しては、今回の主題とは異なるので取り扱わない。
今回は、修験寺院の住職が
戦国大名による山伏動員
今年の7月に長野県立歴史館で「山伏ー佐久の修験 大井法華堂の世界」の企画展が開催されたので初日に訪問してきた。
大井法華堂は、佐久郡岩村田にある本山派修験寺院である。開祖大井源覚は、信濃守護職小笠原氏の一族である大井光長の子として誕生した。
同堂は、聖護院から、慶長期頃(1596年から1615年)までに「佐久郡内大井の年行事職」の補任状を受給している。関連文書では、応安7年(1374)の段階で在地
修験寺院住職の地域交流についてー本山派修験寺院大徳院の事例からー
(1)山伏の多様な活動
noteでの投稿第1回目は山伏の話をする。山伏は、地域に在住して近隣の人々から加持祈祷の依頼を受けて、病気なら護摩を修すに加え、医療行為・投薬を行って治療を行っていた。また、災いを避けるためにお札を授与・占術を行い、人々の不安を取り除いていた。現代の様に医者などの専門職の人間が常にいるとは限らない時代において山伏は「地域のカウンセラー」であった。地域の祭祀(祭り、庚申講)