修験寺院住職の地域交流についてー本山派修験寺院大徳院の事例からー

(1)山伏の多様な活動

noteでの投稿第1回目は山伏の話をする。山伏は、地域に在住して近隣の人々から加持祈祷の依頼を受けて、病気なら護摩を修すに加え、医療行為・投薬を行って治療を行っていた。また、災いを避けるためにお札を授与・占術を行い、人々の不安を取り除いていた。現代の様に医者などの専門職の人間が常にいるとは限らない時代において山伏は「地域のカウンセラー」であった。地域の祭祀(祭り、庚申講)においては導師を務めていた。祭りの具体例は神楽・獅子舞などである。

神楽・獅子舞・和歌・俳諧といった歌舞音曲は、五穀豊穣、疫病退散を祈願する加持祈祷の側面があり宗教行為でもあった。そこに地域の山伏が導師を務めることによって祭祀の効果を確保する狙いがあった。さらに、山伏は武勇を修めていたから、養蚕事業の成功を祈願して流鏑馬神事が執行され、修験寺院が前身だった神社では現在でも続いている。
以上のような行事執行によって山伏と地域の人々との関係が構築・浸透していき修験寺院を支える旦那衆となっていった。旦那衆は宗教行事の手伝いや、総本山から義務づけられた山伏の奥駈修行に住職達が出仕する際に御祝儀を渡し援助した。さらに、寺院造営・修繕の際にも資金調達・管理・職人の手配などで尽力した。
今回の投稿では、加持祈祷・歌舞音曲・流鏑馬神事のうち、歌舞音曲の面から地域の人々と山伏の関係を見ていく。

(2)本山派修験寺院大徳院の地域交流

山伏の地域交流でまとまった史料が存在するのが埼玉県坂戸市森戸に所在する本山派修験寺院大徳院である。大徳院は、本山派先達修験寺院山本坊の配下寺院であり、年行事職(山本坊配下にあって寺院所在がする地域の代官)を務めた。

大徳院は住職の周応・周乗父子が日記を付けており、現在、『武蔵国入間郡森戸村本山修験 大徳院日記』にまとめて収録の上、刊行されている。
大徳院住職の父子は好学であり、寺院において、周応が論語・大学・漢学・俳句、周乗が詩会・軍談の会を主催、講談師に依頼して実施した様子が日記に記述がある。
日記は、「九梅堂日記」と名付けられ、本稿において、第6巻の記述が中心である。第6巻は、天保14年(1843)正月から同15年(1844)6月まで記される。

住職父子の催した学問講義・歌会には、近隣の山伏・人々が多く参加しており、中には泊まり込みで来た人もいた。先に挙げた『大徳院日記』の解説には、周乗は兵法への関心が強く義勇兵組織・軍馬調練機関の創設構想を持っていた記述がある。特に周乗の軍談の会は、講談師に依頼して催した記述が複数回見えるほか、自身でも地域から依頼を受けて実施するなど学問以外でも娯楽を提供していた。寺院は山伏以外でも寺子屋を設置していたのはよく知られるが、娯楽を提供する場所であったのが垣間見える。

俳句・和歌・詩会を大徳院で実施できるのは漢学の基礎を元にしており、日記には無いが、国学を深く修めていたと言える。明治期の神仏分離令・修験道禁止令によって山伏は神職として活動する際に国学を学習した者が多かった。
大徳院と縁戚であった本山派修験寺院大宮寺(本山派修験寺院笹井観音堂配下寺院)の住職・大宮寺衍純は毛呂山の国学者・権田直助の紹介によって平田塾へ入門している。
大宮寺の住職も漢学を修めており境内に寺子屋を開設して子弟教育に当たっている。山伏が国学を学習する動きについて、明治期まで神仏習合の時代において修験寺院は別当社を管理していた。国学には神道も含まれるから神職として再出発するにあたり再履修と新たな人間関係構築を果たす目的があったと言うのが妥当である。

山伏は多様な教養・技能を習得することで人々と関係を構築していった。それは宗教行為だけで無く、学問・娯楽の面でも関係深化と地域における地位確立の一助なった。特に日常的な学問講義・娯楽提供によって、気軽に寺院に来られる雰囲気作りを大徳院周応・周乗は、目指したと見られる。日記において、訪問者の目的が加持祈祷依頼、相談事であるというのが記述の大部分を占める。各種代金を支払っての契約が師壇関係の基本ながらも文芸交流によって相互親睦を深める社交場であった視点も見逃せないであろう。

高麗神社境内にある高麗家住宅

今回は、本山派修験寺院大徳院の例を挙げて山伏と地域交流の例を触れた。山伏によって学問取得による対価は、加持祈祷・祭祀執行を基本としながらも寺院経営の基盤となり得るものであったと言える。それは、旦那衆や近隣の人々を巻き込み、経営の安定を図るための存続ツールであり学問取得について積極的な意思と義務的なものが折衷していた点も確認しておきたい。


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